わたしの恋は、世界越し
「何これ、ブラックホール?」
夕飯のあと、部屋の掃除をしていたら見つけた、手のひらサイズの謎の穴。大家さんに何と説明したものか。でも何かをぶつけた記憶もないし、そもそも穴はぐるぐると渦巻いている。ちょっと普通じゃない。
「誰かいませんかー。いるわけない――えっ?」
困惑ついでに穴の向こうに現実逃避を投げ込むと、黒が緑っぽいいくつかの色に変わる。
ねじれた樹木と草原、土の色、あと炎? つまり屋外だ。叫ぶか倒れるか判断に迷ううち、その奥から人の影らしきものが動く。
「やっとつながった。俺のこと、見えてる?」
「え、ええ、ああ、はい。うん」
男の子だった。大人じゃなくて、私と同じくらいの年ごろの日本人っぽい男の子。でもその格好はなんだかゲームに出てくる勇者みたいで、傷だらけの鎧が私から現実味をどんどんと奪っていく。
「よかった。そっちは日本で合ってるよな?」
「そう、だけど」
あっちは日本じゃないらしい。外国? 何から聞くべきか、それともやっぱり倒れるべきか。悩む私を差し置いて、穴の向こうで男の子は小さくガッツポーズを作る。
「あの、事情を聞いてもいい?」
「あ、そうだよな。悪い」
感無量状態の男子――真壁倫司は、涙を拭うかのような仕草を見せて、本人の事情を私に教えてくれた。つまる話が異世界転移らしい。魔界卿なんとかの支配する世界に勇者として呼ばれた真壁君は、言われるがまま剣と魔法の世界に身を投じて今にいたると。
「で、世界を救いながら元の世界に戻る方法を探して、転移門の伝承を探してたんだ」
「それがこれ?」
「そう。夜中に歌が聞こえて来たから何かと思ったよ」
「あ、ごめん、うるさかったよね」
「いいや。元気出たよ」
掃除中の鼻歌を聞かれていたのは何とも恥ずかしい限りだけど、日本文化から離れて久しい真壁君にとっては希望の光として聞こえたらしい。「ありがとう」を繰り返すその声は少し震えていた。
「あ、そうだ。クッキーとか食べる?」
なんとなく恥ずかしくなって話題を逸らす。手元には昼に焼いたばっかりの節約お菓子。ギリギリ穴のサイズを通過して、世界を渡っていく。なんだか餌付けみたいな構図はともかく、触れ合った真壁君の指先が嫌になるほど硬くて、異世界の過酷さを私に思い知らせていく。
「おいしい?」
「ちょっと、しょっぱい」
「……塩、入れすぎちゃったね。ごめんね」
「俺の方こそ、ごめん、ちょっと、限界で、ごめん」
平和過ぎる日本で暮らせている私には、真壁君の気持ちは分からない。でも、できるだけ助けてあげたい、そう思った。
「ゆかりさん、今話せる?」
「いいよー」
以来、私の生活サイクルに世界越しのオフラインチャットが加わった。壁に穴が開くたび、私たちは取り留めない話でお互いを知っていく。
数週間を経て分かったことがいくつか。穴はいつも開いているわけではなく、しかも私以外の人が近づくと消えてしまうらしい。つまり警察の力を借りたりするプランは使えず、今のところはただのおしゃべりワームホールだ。
「今日の穴も小さすぎて通れないな。遺跡の祭壇からつながったから期待してたのに」
「今更だけど、真壁君は帰りたいんだね」
あんまり詳しくないけれど、こういうのは現実を忘れて異世界で頑張るのが普通だと思ってた。
「そりゃ帰りたいよ。戦いとか怖いし、スキルもいいのもらえなかったし」
「スキル?」
世界を渡る際に神様的存在に詫び代わりに渡された能力のことらしい。
「俺のスキルは『刃渡りがちょっと伸びる』なんだ」
「何それ」
「……これでも使えなくはないんだ。ちょっと戦いが血生臭くなっちゃうけど」
普通に剣で斬るだけでのこぎりを引いたみたいになるらしい。ウルファストラとの死闘を語る真壁君の話に相槌を打つ一方で、私は未だに彼が平然と剣術や殺し合いの話をする現実を受け入れられずにいる。男子の選択授業に剣道はあったけど、牙を腕の骨で止めるすべとかは絶対教えてくれないだろう。
「サウザンド様、こちらにいらしたのですね」
「ヨーゼフか」
穴の奥、少し遠くから呼び出す渋い声。ヨーゼフさん、確か賢者だったかな。彼が来たということは今日はお開きになりそうだ。
ちなみにサウザンドというのは真壁君の異名千刺万鋼からきているらしい。よく分からないけど、慕われているならいいことだ。
「そろそろ時間だ。今日はここまでかな」
「うん。また世界が開いたら」
「世界が開いたら」
二人の間で謎に定着した別れの合図をもって、異界の穴もするりと閉じていく。
残されたワンルームには静けさと、かすかなさみしさ。ずっと一人暮らしのはずなのに、なんだか変な気分だ。
「倫司君、いる?」
「いるよゆかりさん。ちょうど宿屋だ」
よどみなく進む私の日常。大学に通い、友達と遊び、たまに交わる二つの世界。壁の穴を補修しないまま三か月が過ぎ、私たちは今日も言葉を交わす。
退屈で平凡な私と違って、倫司君は勇者として順調に功を上げている。この間はブラックドラゴンとの三日三晩に及ぶ戦いを興奮気味に語っていたし、なんやかんやで楽しんでもいるんだろう。
「今日はシュークリーム焼いてみました」
「マジで? あれ難しいって聞くけど」
穴の隙間からふわふわ不足のシュークリームを通す。お菓子作りは私の趣味、などということはないから出来は期待しないでほしい。
「ケーキ屋さんとかのも送れたらいいんだけど」
「そういう仕様だし、しょうがないよ」
異世界の穴は、なぜかこちらから送る物質に制限をかけていた。具体的には、私の指先か私が手を加えたものだけ。それ以外はまるで存在しないかのように黒い穴の隙間をすり抜けていく。倫司君の話によると、私の顔以外はこちらの景色すらも見えていないらしい。
「俺からはこれ」
「前に話してたガルグチュール?」
「いや、マルマレッタのほう」
逆に、異界の物質はこちらに対して無制限に通過させられる謎仕様だ。おかげで私は異世界スイーツ百選を堪能できているのだけど、ちょっと不思議だ。マルマレッタ、おいしい。日本にも砂糖を魔力で編む技術があればいいのに。
「……ゆかりさん、聞いてもらっても、いいかな」
「なに?」
楽しい思い出話が終わり、おやつも食べ終えて、そこから倫司君は静かに顔を伏せる。
「今日、本当はガルグチュール買うつもりだったんだ」
「うん」
「ブラウンさんっていう、仲良くしてた街のパン屋のおじさんがいてさ、すごくおいしいの作るから」
「…うん」
「でも、いなかったんだ。街のみんなは『旅行』って言うけど、いなかったんだ」
「……うん」
倫司君は稀代の勇者。冒険話もそうだし、聞こえてくる仲間たちの声から伝わる慕われっぷりから見ても、その通りなのだろう。でも、この子はただの日本の十八歳だ。会うたびに隠せない大きさの傷が増えていたり、ふとした拍子に涙もろくなったり、体も心もボロボロにしながら戦っているのは、事実。
「なんか、勇気の出る歌、歌ってくれないかな?」
「しょうがないなあ」
スピーカーは世界の隙間を抜けられない。だから私の喉は音を奏でる。
曲目は数年前に流行った、倫司君が好きな歌。
私の歌は月並みだ。音程が取れているだけ、もう練習もやめてしまった、取り残された夢の残骸。でも、倫司君はそんな私の歌を必要としてくれている。笑って、ちょっと泣いて、いつもありがとうを言ってくれた。お礼を言いたいのは、私のほうなのに。
「俺、辛いんだ。勇者なんて、向いてないのに、でも」
「でも、頑張るんだよね」
「うん。みんな、頑張ってるから」
「そっか」
伸ばした指先が触れる、傷だらけの勇者の腕。痛ましくて、誇らしくて、きっと愛おしい。その日のワンルームライブは、空が白むまで続いた。
「ね、さすがに合鍵は重いと思わない? 聞いてるゆかり?」
「聞いてるよ」
大学の食堂でいつものごとく繰り広げられるめぐののろけ話。今日の話題は最近できた彼氏からひっきりなしに連絡が来るとか、頼んでないのに合鍵を渡してくるとか、そういうの。テーブルの上でスマホがピロンピロン鳴ってるのもそれなんだろうな。本人幸せそうだからいいけど、私ならご勘弁だ。
「あれ?」
「どしたのゆかり」
よく考えたら、こちらの都合とは関係なしに部屋に穴が開くとか、それなりにプライバシーへの配慮がないと言えなくもないのかな?
「……例え話なんだけどさ」
少し迷って、今の状況について客観的意見を求めてみる。詳細をぼかしつつ不定期の話し相手について語ると、めぐは目を丸くして私の腕をつかむ。
「それ絶対ヤバい人だって。事件になる前に警察に相談しよ?」
「いや、私の話じゃないんだけど」あと、スマホ鳴ってるから相手してあげなよ。
前触れなく始まる倫司君との会話。でも不思議と、穴が開くのは私が暇なときで、もっと言うと少し寂しいとき。まるで寄り添うかのように開く異界の門。初めて、身に起こる現象の由縁に興味を持つ。
「あ、そうだゆかり。今日あたしカラオケ行くんだけど、来る?」
「やめとく」
「そう? 歌うまそうな声してるのに」
「よく言われる」
食器を片付けて一人で食堂を出る。午後は講義を入れてないし、今日はこのまま帰って、少しだけ気合いの入ったお菓子を届けてあげよう。なんとなく、今日は穴が開きそうな気がするし。
買い物をするスーパーマーケット。流れてくる人気歌手の歌声。胸を刺すような、自己嫌悪。
別に、大した傷があるわけじゃない。昔の私は歌が好きで、みんなからも褒められて、いつか歌手になると信じて疑わなかったってだけ。
自信満々で応募したオーディションには書類で落ちて、動画サイトに投稿した歌声は見向きもされず、それでも私は自分の「いつか」を信じ続けていた。
「え、歌手とかなりたいんだ?」
私の「いつか」が遠くに消えたのは、たぶん昔の友達の言葉。レッスンがあるから遊びの誘いを断って、理由を聞かれたから素直に教えた。その結果、突き刺さったのがその一言。悪意があって言った言葉じゃないことは伝わった。でも、それがかえって私の心に深い傷をつけたのだろう。だって、その子は私と歌手をまるで別世界の他人のように並べていて、つまりはそれは私の夢が叶わないと突き付けられているに等しかったから。
それ以来、私は歌うのをやめた。夢にまっすぐ向き合えなくなった。歌が嫌いになったわけでもないのに、私の人生からは音と楽しさは抜け落ちてしまった。
「今日は、ゆかりさんの話が聞きたいな」
家に帰ったらちょうど異界の穴は開いていて、いつも通りに傷だらけで、いつも以上に優しげな倫司君の顔が見えていた。
「なんで、分かるの?」
「だって、こっちから見えるのは、ゆかりさんの顔だけだから」
遥か時空の彼方にあって、でも、その手のひらは近くて、瞳の輝きも余さず届く。
やっと、なんとなく分かった。この関係が心地よいのは、世界越しに温かさを渡し合えるからなんだ。
時が緩やかに過ぎていく。私の部屋が異界につながってから、もうすぐ半年。倫司君の傷は増え、名誉も増えて、魔界卿との決戦の時は近い、らしい。穴越しに見える険しい顔が、戦況の厳しさを私に教えてくる。
「勇者、やめたい」
「え?」
そんな折に突如投げ渡された爆弾級の弱音。いつもボロボロになりながらも世界を救うことについては迷いなかった倫司君から出たその言葉が、私の手からマドレーヌを落とさせる。
「俺さ、千刺万鋼だろ?」
「うん。前に聞いた」
「一威千神だし、最近は一輝騰千でもあるんだ」
「言ってたね」
「……荷が重いよ」
なんとなく、分かった。倫司君は勇者だ。味方の前では俯かないし嘆かない。それは翻すと、嘘をついて過ごしているに等しくて、だから彼にとって勇者は重荷である以上に、後ろめたさでもあるらしい。
「じゃあ、本音で話してみたら?」
「幻滅されるよ」
「そうかなあ?」
「世界を救う勇者サウザンド。敵陣に一人で切り込む、常勝無敗の勇気の化身。それが俺。でも俺はあいつらが思うような、勇敢な人間じゃない」
精悍さの裏に隠した、見慣れた倫司君のボロボロの顔。私はというと、少し嬉しい気分になっていた。いつもは聞くことしかできないけど、今日の悩みなら背中を押せそうだから。
「私はさ、勇者って、勇気を出せる人のことだと思うよ」
「え?」
私は倫司君の異世界に詳しくない。よく似ているという、RPGゲームとかもやったことがない。だからこれは、サンプル数1でできた、私の勇者論。
「暗黒魔族のライデルと野球した話、したよね」
「……うん」
「テナの村のメレンケ狩りの話も楽しかった」
「…うん」
「一か月かけてパン屋のブラウンさんを助け出したのは、勇敢だったからじゃないでしょ?」
「うん」
話なら全部聞いた。自分のことを殺そうとしてくる魔族と言葉を交わして、疎ましく思われても村のために魔物を狩って、もう会わないかもしれない人たちと握手をして、笑顔を作って前に進む。そんな光り輝くような勇気。まぶしくて、私にはそんな勇気がないといつも言い損ねてしまうほどの、紛れもない勇者の旅路だ。
「だから、私は倫司君のことが好きだし、いつもすごいと思ってるよ。勇敢だからじゃなくて、頑張ってるから」
私の心は、伝わっただろうか。届いただろうか。途中なんか恥ずかしい言葉も混ぜてしまったことをちょっと後悔して、でも目の前の勇者が微笑んだことが、嬉しくて。
「勇気はいつもこの穴に、ゆかりさんにもらえてるから」
心を衝く霹靂。一瞬、霧が晴れたように世界の穴が広がった気がした。夜の森、しょぼくれた私の勇者、月が二つもある満天の星空、落ちる流れ星、テントの影からこちらを見る、数人の影。ああ、なんだ、ずっと見てたんだね。
「歌、歌ってくれよ。そしたら、頑張れるかもだから」
「しょうがないなあ」
恥ずかしそうに伸ばされる掌をぎゅっとつかむ。
あの日以来、初めて自分の意思で曲を選んだ。あの日私が好きだった、「いつか」の歌。
上手じゃなくていい、観客はたった一人でいい、そんな私の「いつも」の歌だ。
「俺、頑張ってみるよ」
「うん。いつも応援してる」
笑って手を放し、閉じていく異界の穴を見守る。倫司君の踏み出す一歩はきっとうまくいく。少し遠くに見える彼の仲間たちの表情が、私にそれを確信させていた。
数か月が過ぎて、冬になった。
あの日から、私の部屋に穴は開いていない。たぶん、役目が終わったのだろう。
ためらいながら自分の弱さを告白し、「何を今さら」と呆れられる。頭の中で、そんな倫司君のひと時が思い起こされる。勇敢なる戦士は勇気ある少年に姿を変えて、それでも人々の希望の象徴であり続けるのだ。私はそんな彼の背中を押すために神様が用意した、お助けキャラ。
大丈夫。部屋はさみしくなったけど、心の穴はまだ寒いけど、何も残らなかったわけじゃない。
少しずつだけど、歌を歌うことを再開した。もちろん歌手にはなれないから趣味だ。動画サイトにアップロードして、少しだけ数字が増えるのを喜ぶ、そんな趣味。でも、感想を言ってくれる友達がいて、背中を押してくれた思い出があって、だからそれでいいんだ。
世界は結局一つだけ。私たちは一つしかない世界を、自分の世界を、自分の意思で歩いていく。
いつかまた世界が開いたら、その時はまた、歌ってもいいかな。
もう開かない壁の向こうに、私は君の姿をずっと見ている。
だから、私の恋は、世界越し。
「やっとつながった!」
「え?」
もうつながることはないと思っていた二つの世界。突如として渦を巻いた黒は、私に懐かしい顔を見せる。
「急げリンジ、長くはもたない」「分かってるヨーゼフ」
必死な顔で手を伸ばす倫司君。その背後には賢者ヨーゼフさんと、仲間たち。魔力的な何かをこちらに向けて、どうやらそれで穴を開けているらしい。
倫司君は息を吸い、少し目を閉じて、ためらって、それから叫ぶ。
「会いたい!」
穴が閉じていく。言葉だけ残して、無情にも世界はその両岸を遠ざけていく。
「……私も」
言葉にできたのは、すべてが終わってから。たった十秒の逢瀬が雷鳴のように過ぎ去って、私に後悔だけを与えてからだった。
「私も、会いたい」
諦めきれずに喉を震わせる。こんな別れ方、納得できないよ。あの笑顔を忘れらない。声が聞きたい。歌を、聴かせたい。
「ゆかりさん、久しぶり」
目を開けたら二つの世界はつながっていて、冷や汗まみれの倫司君の顔がそこにあった。
「……つまり、この穴は私の力だったと?」
「らしいよ。ヨーゼフ、解説お願い」
「リンジ、原理は教えただろ」
促されて後ろからぬるりと出てきた賢者ヨーゼフさんの苦笑顔。
長いから省略するけど、そもそもが異世界人を呼び出す理由がこちらの世界に稀に現れるスキルの性質がうんぬんかんぬんで、私には空間をつなげるゲートの才能があったらしい。
「スキルは覚醒者の心を映す鏡だ。異界の門が中途半端な状態で現れ続けたのも、君の主観によるものなのだろう」
「はあ。なるほどです」
こちらとあちらでやり取りできる物質に制限があるのも、そういう理由だったんだろう。つまる話が、私は誰にも倫司君との関係を教えたくなかった。独り占めしたかったのだ。
「なんか、恥ずかしい」
「俺も恥ずかしいからお相子だな」
なんだか微妙な間になってしまったのを反省しつつ、その反面で私の心は少し曇る。
「穴がいつ開くかとか、大きさとか、全部私が決めてたんだよね」
「らしいよ」
「……私、倫司君にひどいことしてたんだね」
異世界の門は私の意思。それはつまり、帰還を願う勇者の旅路はもっと楽に早く終わらせられたということ。もっと早く気付けていれば、頑張れていれば、目の前の男の子の傷はもっと少なくて済んだのに。
「ごめんね。謝って済むかは分からないけど、ごめん」
「何が?」
きょとんとする倫司君。それを引っ張っていく魔法使いみたいな格好の女の人。ヨーゼフさんにも言えるけど、やり取りがずいぶん砕けた感じになっていて、安心だ。ややあって、気まずそうに戻ってくる。
「勘違いしてるっぽいから言っとくけど、俺はまだ帰らないよ」
「え、なんで?」
泣くほど帰りたがっていたのに。ほとんど人が通れそうな空間の裂け目の先で、倫司君は少し横にずれる。私の意志が、異界の門を広げる。
「帰りたいのはずっと同じ。でも、まだ俺は世界を救ってない」
映るのは倫司君の仲間たち。広々とした空。遠巻きに眺めている村人らしき人たちの視線は温かい。そうか、そうだよね。倫司君は、勇者なんだ。
「会いたいのは、ただ会いたかったからだよ」
「うん、私も、会いたかった」
世界を超えて行われる、私の歓迎会。おっかなびっくり降り立った異世界の大地は固くて、星空は澄んでいて、優しかった。
「ずっとさ、心細かったんだ」
ヨギーン料理に舌鼓を打ちながら、倫司君がぼそりとこぼす。「うん。知ってる」と返すと、なぜかその首は横に揺れる。
「実は、そうじゃないんだ」
「そうじゃないって?」
「召喚されて、初めて魔物と戦って、勇者を始めた日。俺、逃げ出したんだ」
「あったあった」「あっち行ってろカレン」「はいはい」
ゴブリンと戦って、どうしようもなくなって降り抜いた剣が重くて、鋭くて、赤くて。自分が命を奪ってしまったと否応なしに思い知らされて、それで倫司君は一人で走って逃げたらしい。
「誰もいない森の奥まで走って、一人で震えてたらさ、歌が聞こえてきたんだ」
「歌」
「そう。鼻歌。調べたら、エルルクの目玉くらいの大きさの穴が開いて、そこから聞こえてた」
私が倫司君と出会う、さらに前の話らしい。つまりは歌の主は私で、無意識に口ずさんでいた鼻歌を聞かれていた。うん、けっこう恥ずかしい。
「その歌に勇気をもらった、ってこと?」
我ながらちょっと自意識過剰だと思いつつ、話の先を促す。
「逆。なんか、すごく寂しそうで、苦しそうで、心配になった」
「えー」
いつの話か聞いてみると、私が大学に入ってすぐ、最初の出会いの一年以上前だった。時期的に夢を諦めた直後で、でも二つも年下のボロボロの男の子に心配されるとは。我ながら情けない。
「その声がなんか、ゴブリン退治を依頼してきた村の子供と被って、だからちょっと分かった。こういう人に希望を与えられるなら、勇者を頑張ってみようって思えたんだ」
倫司君の信じる勇者の道。その始まりがまさか自分の醜態にあったとは。腑に落ちて、やっぱり恥ずかしくて、でもどこか嬉しい。
複雑な心模様が焚き火の煙と一緒に空に昇っていく。
「ねえ、気が早いかもだけど」
「なんだ?」
「戻ったら、一緒にカラオケ行かない? そっちのみんなも誘ってさ」
「いいね。じゃあまずはレパートリー増やさなきゃだな」
倫司君が手渡してくる木製のマイクもどき。喧伝される異界の名曲の文句につられて一団の視線が集まる。ちょっとしたオンステージだ。こうなったら、今日はとことん歌ってやる。
旋律に想いを乗せて、私の声は異界に広がる。
隣で耳を傾けるのは世界の、私の勇者。わがままを込めて、少しだけ体を近づける。
私の恋は世界越し。つまり、恋心は世界を超える、なんてね。




