漏えいの噂
イリスはベルフォード伯爵の一人娘として生まれた。
ベルフォード伯爵家は、外交を裏で操る家だった。
情報を操る。
嘘を流す。
真実を選び取る。
そして、冷酷なまでに国益を追求する。
表には出ない。
だが、確実に国を動かしている。
そんな家だった。
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イリスは優秀だった。
十歳になる前に三カ国語を話せるようになっていた。
努力ではない。
できてしまった。
だから、できない者が理解できなかった。
なぜ覚えられないのか。
なぜ間違えるのか。
なぜ繰り返すのか。
理解できない。
理解する必要も感じなかった。
嫌な女だった。
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やがて婚約者が決まる。
ベルフォード家に入る婿養子。
だが、その男は相応しくなかった。
派閥の力関係で結ばれたからだ。
騎士の家系。
日に焼けた肌。
手には剣ダコ。
思った感情が表情にそのまま出る。
駆け引きができない。
腹の探り合いが命の家において、致命的だった。
「もう、剣を振るう必要はありません」
「毎日していた事なので、やらないと身体に悪いんだ」
笑って答える。
「そんな時間があるなら単語の一つでも覚えてください。
日常会話程度ならすぐできるでしょう?
私は十歳になる前にできましたわ」
彼は困ったように笑う。
「すごいな、イリス嬢は。僕も頑張るよ」
「先日も同じことを聞きました。
あなたの頭は悪いのですから、
人より努力しなければなりません」
「……手厳しいな」
それでも、怒らなかった。
笑っていた。
イリスには、それが理解できなかった。
何度言っても変わらない。
できない。
覚えない。
なぜなのか。
理解できない。
理解する価値もないと思った。
会うたびに責めた。
苛烈に。
正確に。
容赦なく。
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やがて学院に入る。
そこで、彼は恋をした。
イリス以外の女と。
あっさりと。
迷いもなく。
そして、婚約破棄を告げてきた。
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イリスは一人になった。
だが、立場は変わらない。
伯爵の一人娘。
婿養子の座は魅力的だった。
貴族の次男、三男は部屋詰めになる。
だから、少ない機会を見逃さない。
次々と寄ってくる。
その中には、異国の者もいた。
スパイは言う。
「イリス。あなたは美しい。
あなたを振るなんて、見る目のない男だ。
僕なら決してそんなことしない」
甘い声。
だが、浅い。
「……狙いは何?」
イリスは一歩も引かない。
「ベルフォードの情報?私は軽くないわよ」
笑う。
「バカね」
イリスは次々と見抜く。
言葉の端、なまり。
わずかな視線の動き。
すべてを拾い上げる。
そして、切り捨てる。
イリスにとって、それは容易だった。
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だから、気付かなかった。
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変な噂が立った。
情報漏えい。
ベルフォードの情報が外に流れている。
そして、その発信源が――
イリスだと。
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父が聞いてきた。
「イリス。本当にお前じゃないよね」
その声は、確信ではなかった。
疑いだった。
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母が聞いてきた。
「うっかり口を滑らせたことはない?」
心配の言葉だった。
だが、その奥にあるのは不信だった。
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誰も、信じていなかった。
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イリスは言葉を失った。
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何を言っても、疑われる。
否定すればするほど、怪しくなる。
沈黙すれば、認めたことになる。
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何が正しいのか、分からなくなった。
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やがて、口を開かなくなった。
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言葉が怖かった。
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何かを言えば、それが漏えいになるのではないか。
誰かが拾うのではないか。
歪められるのではないか。
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部屋から出られなくなった。
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廊下に人の気配がするだけで、息が詰まる。
扉に手をかけることができない。
外界が怖かった。
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食事もできなくなった。
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誰かと顔を合わせることが怖い。
何かを言われるのが怖い。
何かを言ってしまうのが怖い。
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水も飲まなくなった。
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喉が渇く。
だが、動けない。
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腹が鳴る。
だが、感じないふりをする。
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やがて。
空腹も、渇きも。
分からなくなった。
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ただ。
外と繋がることだけが、怖かった。
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漏えいの噂。
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それだけが残った。
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イリスは、一人で死んだ。
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餓死だった。
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もう、決して、漏えいしない。
この短編は、乙女ゲームのバッドエンド絵師、ゲーム世界に転生する 〜バッドエンドしかない世界で、運命を捨てる〜の中に出てくるゲームの内容です。




