8
リアムが邸を出てから二日が経ち、時は昼間。
陽光が窓から差し込む自室で、ユーフィアは今日も今日とて朝からソファに座って読書していて――
「今日、帰ってくるのかな」
本から視線を窓に移して、呟きを落としたユーフィア。
数日と言っていたし……。
帰ってきたら、何を話そう。
いや、その前におかえりなさい、って自然に言えるだろうか。
笑顔を見せられるだろうか。
少し緊張するかもしれない。
ぎこちない笑みを浮かべてしまうかもしれない。
なら、今のうちに練習しておいた方がいいのでは。
いつ帰ってきてもおかしくないのだし。
開けられた窓を見ながら、ユーフィアがそんな風に思考を巡らせていた、その時だった。
「……!?」
見開かれた翡翠色の瞳に映るのは空いた窓から身を乗り出すように部屋に入ろうとしているリアムだった。
予想外の出来事にユーフィアは困惑しつつ、
「お、おかえりなさい」
ぎこちない調子で投げられた声にリアムは
「ただいま、ユーフィア」
とニッコリと笑って応じた。
「……」
違和感があった。
『フィア』ではなく『ユーフィア』と呼ばれたこと。
加えて、見たことのないタイプの笑顔を送られたことが気になったユーフィアは少しだけ表情を引き攣らせて、返す言葉を探す。
なかなか適切だと思われる言葉を見つけらないでいると、リアムが軽やかな足取りで近寄り、
「ちょっと外出しようか、ユーフィア」
「……え?」
リアムの口調もいつもと違う気がしつつも、突然の誘いにユーフィアは困ったような顔を作った。
すると、リアムは笑顔を湛えて、
「さあ、行こうか」
優しくもどこか有無を言わさない色を含んだ声で言い、ソファに座っているユーフィアを横抱きにして、窓際に早歩きで近づき――
「せーのっ」
お気楽な掛け声を発して、リアムは二階の窓から飛び降りた。
「!!」
風圧で呼吸しづらくなるのを感じながら、ユーフィアは咄嗟にぎゅっと瞳を閉じた。
数瞬後、瞼を恐る恐る持ち上げ、リアムが無事に着地できたことを認めて、胸を撫で下ろす。
「このまま行くよ!」
ユーフィアをお姫様抱っこしたまま、リアムは敷地の外に出ようと鉄の門に向かって駆け出した。
「どこに行くつもりなの?」
疾駆するリアムにユーフィアは率直に問い掛ける。
と、リアムは一拍置いてから、
「まだ内緒」
と手短に応えて、にこりと笑った。
一体、どうしちゃったんだろう。
言葉遣いや雰囲気がまるで違う。
違和感を覚えるユーフィアから視線を外したリアムは開かれた鉄門を通って、石畳の街路に出た。
程近い場所に黒塗りの馬車が停まっていて、そちらに駆け寄る。
「乗って」
馬車のドアを開けて、リアムは地面に下ろしたユーフィアに乗車するよう促す。
「え、でも」
なんとなく危機感を抱き、ユーフィアが乗るのを拒否すると、
「いいから」
リアムが語調を強めて催促した、ちょうどその時。
「どうしたの、フィアちゃん?」
そんな声を投げたのは小走りで近づいてきたセオだった。
「あ、えーっと……」
なんて説明したらいいんだろう。
考えあぐねるユーフィアから彼女の隣に立つ金髪の少年にセオは目線を移した。
途端、柔らかい表情を引き締めて、
「あんた、誰?」
唐突なセオの問い掛けにユーフィアの頬が強張る。
二人の視線に向けられた空色の瞳の少年は肩を竦めた。
「誰って、リアム・アークライトだけど」
少年が飄々(ひょうひょう)と応答した刹那、セオは空いた右手に短剣を現出させて、
「魔族がその名を口にするな!」
怒気を孕んだ声と共に刺突を放った。
「――おっと」
セオに魔族と呼ばれた者が彼の剣撃を横合いに跳んで回避した。
「リアム様に似た姿をしているけど、コイツは魔族だ!」
「――っ!」
セオの発言に驚愕するユーフィア。
そんな彼女を余所に正体を看破された魔族がヒヒヒと不気味な笑い声を漏らして、腰に吊るしていた剣を抜いた。
「バレてしまったか。ならば――実力行使するまで!」
黒い瘴気を迸らせた。
次の瞬間、ユーフィアに躍りかかる。
「!」
襲い掛かってくる魔族に立ち竦むユーフィア。
「やあ――っ!」
ユーフィアと魔族の間に割り込んだセオが勇ましい声を上げながら剣戟を振るった。
刃と刃が激突し、火花が散って、金属音が鳴り響く。
鍔迫り合いになったセオが背中越しのユーフィアに切迫した声を投げる。
「フィアちゃんは逃げて!」
「……!」
わたしがこの場を離れたら、セオは一人になってしまう。
逡巡を見せるユーフィアにセオが語気を強めて、
「僕は大丈夫だから、早く!」
「わ、わかった……!!」
ごめんなさい、と言い残して走り出すユーフィア。
逃走を図るユーフィアを横目で見た魔族にセオは剣柄をより一層、強く握って言い放つ。
「よそ見するなよ。おまえの相手は僕なんだからさ!」
短剣を振り抜いた。
数歩後退して体勢を崩した魔族を睨みつけて、セオは全身のマナを解放した――。
「はぁ……はぁ……」
地理に明るくない貴族街の路地を駆けるユーフィア。
わたしが弱いばっかりにセオをひとりにしてしまったけれど、大丈夫だろうか。
セオは一般人ではなく討魔族隊に所属している、いわば魔族討伐のプロだが――。
現場から離れれば離れるほど胸に不安が募っていく。
逃げ出した、非力な自分でも何かできることはないだろうかと頭をフル回転させた。
五秒後、セオ以外の討魔族隊の隊員に魔族が現れたと伝えるために詰め所に行くのがいいとユーフィアは思った。
昔、どこかで聞いた覚えのある詰め所の場所を記憶の底から懸命に掘り起こそうとしながら、石が敷き詰められた道の角を曲がった。
「きゃあっっ」
出会い頭に道行く人とぶつかってしまい、ユーフィアは尻もちをついた。
「ご、ごめんなさい」
結構な距離を走ったせいで息を荒げながらも即座に謝ったユーフィアの鼓膜を叩いたのは
「大丈夫?」
と安否を尋ねる男の声。
「大丈夫です」
そこで言葉を切ったユーフィアはゆらりと立ち上がり、木賊色の髪の優しそうな少年を見て、こちらも安否を尋ね返そうと口を開こうとしたが――
「…………」
ユーフィアは盛大に顔を歪めた。
何故なら、少年の隣に立っていたのが侮蔑と嘲笑を露わにした姉のクーヴィアだったからだ。