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どれぐらいの時間が経ったか判然としなくなった頃。
慌ただしい足音が聞こえてきて、ユーフィアは我に返ったように顔を上げる。
現れたのはクーヴィアと母親、男二人――執事と料理長――だった。
「お母様、ユーフィアの首元を見て! 私が話した通り、奇蝕病特有の赤黒い痣があるわ!」
ここまで急いできたのだろう。
息を整えながら大声を出したクーヴィアに指差されたユーフィアは表情を歪めて身構えた。
娘が指し示した方向を追うようにして、首の痣を視認した母親が凄まじい嫌悪と怒りを露わにした言葉をユーフィアに投げつける。
「トルソン侯爵家の人間が奇蝕病に罹ったなど周知されてしまったら大変なことになる……どこまで私を困らせれば気が済むのかしら!」
母親の発言を引き継ぐようにクーヴィアが口を開く。
「お母様の言う通りだわ。どうしてこんな女が完璧すぎな私の妹なのよ!」
憎々しげに言う実姉と母親の鋭利な目線を一身に受けて、ユーフィアは口をつぐみ目を伏せた。
クーヴィアに一緒に来るように言われていて彼女に付いてきた執事と料理長はどうにも気まずそうに立っていると、侯爵夫人が命令する。
「突っ立ってないで早くその汚らわしい悪魔をどうにかして頂戴!」
刹那の逡巡を見せた男二人。
しかし逆らえるはずも無く渋々といった様子でユーフィアに近づき手を伸ばした。
「――!」
捕まってしまったら、どこかに閉じ込められて一生出られなくなってしまうのではないか。
伸ばされた手から逃れようと身を捩ったユーフィアだったが、呆気なく二人の男に両脇から動きを封じられてしまう。
「い、イヤ……っっ」
引きずられるようにして連行されるユーフィアは泣き出しそうな声を出して抵抗する。
華奢な体では成人した男の腕力に勝てるはずも無く解放は叶わない。
しかし悲痛を滲ませるユーフィアに同情したのか、執事と料理長が躊躇いがちに足を止めた、ちょうどその時。
「騒がしいぞ」
苛立った調子で姿を見せたのはユーフィアの父親だ。
そんなトルソン侯爵にクーヴィアがお父様、聞いてくださいと前置きして、
「ユーフィアが奇蝕病を患ったわ」
「なんだと!?」
血相変えてユーフィアに目を向けた父親は赤黒い痣を見て取った。
転瞬、彼女にずんずんと近寄って怒り狂ったように、
「トルソン侯爵家の顔に泥を塗るようなことをしよって!」
言い終えるとほぼ同時に、ユーフィアの左頬に衝撃が走った。
頭の真っ白になって、視界が明滅する中、うめき声が漏れる。
いったい何をされたのか、わからなかった。
が、頬が鈍く痛み、殴られたのだと遅まきながら気づいた。
「この大馬鹿者がっ」
吐き捨てる父親にクーヴィアが
「お父様、早く手を洗った方がいいわ。奇蝕病が伝染ったら大変」
と言った。
「ああ、そうだな」
自分の手を忌々しそうに見るトルソン侯爵に夫人がねぇ、あなたと呼んだ。
「これをどこに閉じ込めておくべきかしら」
『これ』と物を扱うような物言いをする母親にユーフィアは胸を痛めた。
そんな彼女を歯牙にもかけず、父親がしばし思案して、
「庭にある物置がいいだろう」
邸の主の言に異を唱える者はいない。
トルソン侯爵に目線だけで早く連れて行けと促された執事と料理長は揃って顎を引いて止めていた足を再び、動かした。
「…………」
声にならない声が出た。
抵抗する元気もなくなった。
顔を絶望に染め上げたユーフィアは両親と姉の冷ややかな視線を集めながら、自室を出ることになった。
程なくして、ユーフィアは庭にある石積みの小屋に閉じ込められた。
室内は埃っぽく窓から吹き込んでくる夜気は冷たく、身を震わしながら、思う。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
今まで両親や姉に蔑まれ、嘲笑われてきたが、それは能力が足りない自分のせいだと言い聞かせることができた。
しかし今回ばかりは違う。
魔族と会ったことなどないし、見たことすらない。
それなのに奇蝕病に罹り、こんな場所に閉じ込められた。
理不尽だ。
このままここに幽閉されて死ぬことになるのか。
外から鍵をかけられているので、自力で出られそうにない。
そもそも手枷足枷を嵌められているため、移動することすらままならない。
不意に姉が言っていた言葉が思い起こされる。
『――神様って、残酷よね』
全くその通りだ。
神様はクーヴィアには色々なものを与えるのに、ユーフィアには与えてくれない。
「うぅ……」
冷えた石部屋でひとりうめき、ユーフィアは透明な雫を流した。
一週間以上が経過した。
七日までは数えていたが、おのずとそれも億劫になったせいで今日が何日か不明瞭だった。
監禁させてからの食事――使用人によって運び込まれた――はパンとスープと質素なもので一日に一回限り。
そのせいでユーフィアはひどく痩せてしまい、栄養が足りていないからか何か考えようとしても思考が千々切れになる。
ぼんやりと力のない瞳で自分の口から出る白い息を眺めるユーフィア。
今日は特に寒い。
本当に凍死してしまう。
「……っ」
涸れるほど泣いたはずなのに、じわっと涙が翡翠色の瞳ににじんだ。
もしここでひとり死ぬことになるのなら、いったい何のために生まれてきたのだろうか。
苦しみ悲しむためだけに生まれてきたとでもいうのか。
そんなのあんまりだ。
誰にも届くことのない悲痛な声を心中でこぼすユーフィアの瞼の裏に浮かぶのは奇蝕病に罹った出来損ないが死んでくれたと喜ぶ両親と姉の姿。
名状し難い、やるせなさに似た感情が胸の底から湧きおこったが、その直後。
死に誘う抗い難い力に襲われたユーフィアはゆっくりと目を閉じた――その時だった。
真正面の扉がわずかに軋む音と共に開かれ、月光が差し込み、
「……!」
ユーフィアは驚愕に目を瞠った。
彼女の目線の先に立っているのは上等なベージュの外套を身にまとい、フードを目深に被った人物。
背は高く、その立ち姿から男性だとわかる。
「――誰……?」
口を衝いて出たユーフィアの誰何の声に男は何も答えず、フードを脱いで――
「!」
ユーフィアの心臓がトクンと跳ねた。
月明かりで煌めく金髪と蒼穹を閉じ込めたような双眸。
凛々しい眉に高い鼻梁。陶器のような白い肌。
おそらくユーフィアと同じぐらいの歳だと思われるが、その顔貌はどことなく大人びている。
間違いなく今まで出会ってきた人の中で最も整った相貌を持つ少年にユーフィアは見惚れてしまい――ふと目が合った。
すると、金髪の少年は少しだけ儚げに微笑み、寒さも忘れてほのかに頬を朱に染めたユーフィアに近寄る。
「あ、あの、えっと……」
曖昧な調子で声を発したユーフィアの傍でしゃがんだ少年は彼女を嵌められた桎梏を見て、少々顔をしかめた。
しかめた顔も綺麗……。
間近で少年の顔を拝み、若干、場違いな感想を心中で漏らすユーフィア。
そんな彼女を余所に外套を着た少年はきめ細やかでありながら骨張った手を足枷に伸ばして、指先が触れた瞬間。
「……!?」
ユーフィアは目を丸くした。
指が触れた箇所から亀裂が走り、拘束具が砕け散って、その破片が小さな光の粒と化しやがて消失したのだ。
「――」
目を疑う現象を前にユーフィアがぽかんとしていると、少年は同じように手枷も一瞬のうちに光粒に変えてしまった。
そこでつと我に返ったユーフィアは本調子ではない頭を必死に働かせる。
もしかして助けに来てくれたかな。
でも会ったことも見たこともない人だし……どうなんだろう?
でもでもまずはお礼を言わなきゃ。
そう思ったユーフィアは感謝の言葉を紡ごうとした直前、金髪の少年が形のいい唇を開いた。
「俺の名はリアム。――フィア、おまえを迎えに来た」