1
王族の神聖な力によって肥沃な土地に恵まれ理不尽な災害からも守られている大国、ディルセイル王国。
そんな聖なる国の王都、ルベリオーレの近郊にある森の中にトルソン侯爵邸はあった。
少し年季の入った邸の二階の一室で赤い長髪の少女――ユーフィア・トルソンは木製の椅子に腰掛けて、机の上に広げた分厚い本とにらめっこしていて。
「――はぁ、休憩しよっと」
持っていた羽ペンを置いて、翡翠色の瞳を本から開けたガラス窓に移した、ちょうどその時。
ノックもなしに突然、部屋の扉が開け放たれた。
姿を現したのは上質な濃紺のドレスに身を包んだ一つ上の姉、クーヴィア・トルソン。
「お、お姉様……」
自分と同色の髪と瞳の実姉と目が合ったユーフィアが頬を硬くして、震える声を漏らす。
妹の反応が気にくわなかったのか、クーヴィアはずかずかと室内に入ってきて、先ほどまでユーフィアが読んでいた本を乱暴に奪い取った。
「入学試験、一か月前だというのにまだこんな低レベルな勉強しているなんて、本当にあなたって無能なのね」
「……っ」
嘲りを含んだ姉の言葉にユーフィアは表情を崩した。
現在15歳であるユーフィアは一か月後、クーヴィアが通っているガルシアス学院の入学試験を受ける予定だが、今の学力では合格することは難しい。
そんなこと言われるまでもなく、ユーフィア自身分かり切ったことであった。
伏し目がちに唇を噛む妹を認めて嘲笑し、窓際に近寄ったクーヴィアは厚みのある教材を窓の外に広がる庭に向かって投げ捨てた。
「あ……っ!」
窓から身を乗り出すようにして眼下の緑豊かな庭園に視線を走らせるユーフィア。
しかし件の本を見つけることはできず。
「手が滑ってしまったわ」
悪びれる様子もなく軽く肩を竦めるクーヴィア。
こういった嫌がらせは今に始まったことではない。
毎日。来る日も来る日もこんな調子で姉にいびられてきたユーフィアはいつものことだと諦念まじりに思い、わずかに苦さを滲ませた。
そんな妹を見下すような声音でクーヴィアは言葉を継いだ。
「それに勉強しても無駄でしょ。だってあなた、簡単な天聖術すら使えないんだから」
何も言い返せない。
天聖術とは大気中に漂うマナや術師の体内に存在するオドを原動力として超常現象を起こす不思議な術のことで、入学試験は筆記だけでなく初歩的な天聖術を使う実技試験も課されていた。
クーヴィアが言うようにユーフィアは天聖術を何一つ使えない。
その理由は術を使うために必要なマナとオドを感じ取ることができないからだった。
「トルソン侯爵家から輩出された歴代の天聖術師たちよりも多くの天聖術を使いこなせる私が実姉であるというのに。――神様って、残酷よね」
嘲笑いながら意地悪い視線をクーヴィアに向けられたユーフィアは気弱そうな顔貌に浮かぶ苦々しさを深めて、小さく口を動かす。
「ご、ごめんなさい、お姉様……わたし、勉強しないといけないから……っ」
投げ捨てられた教材を拾いに行こうとその場から逃げるようにユーフィアが足を動かそうとした。
その時であった。
「ユーフィア、あなた何をしているの!」
「お、お母様――っ」
怒声を飛ばしたのは華美なドレスを纏い、けばけばしい化粧をした女――ユーフィアの母親だ。
荒々しい気勢に気圧されたユーフィアが咄嗟に返答できないでいると、母親は言い募る。
「学院の試験が近いっていうのに勉強もしないで、これから王都に出かけるクーヴィアの邪魔をするなんて信じられないわ。あなたの無能さが優秀なクーヴィアにうつったら、どう責任を取るつもりなのかしら」
邪魔をしているつもりなど毛頭ない。
だが母親にとって、いつも正しいのはクーヴィアで悪いのはユーフィアなのだ。
何か言っても聞き入れてもらえないことは明白。
だからユーフィアは申し訳ありません、と消え入りそうな声でただ謝った。
「お母様、こんな不真面目な人、放っておいて、早く王都へ向かいましょう」
「クーヴィアの言う通りね。――ユーフィア、あなたは罰として今日の夕食は抜きよ」
そう言い残した母親はユーフィアの返答を聞くこともなくそそくさと部屋を出ていった。
「今日、王都で新しい洋服を買ってもらうの」
そこで言葉を切ったクーヴィアは着古した白いブラウスと萌黄色のスカートを身につけているユーフィアの頭から爪先に視線を走らせてから、再び唇を開いた。
「いつまでそんな古臭い服、着るつもりかしら。まあ仕方ないわよね。トルソン侯爵家の面汚し、出来損ないのユーフィアは新しい服なんて買ってもらえるわけないのだし」
言うだけ言って、クーヴィアは退室した。
部屋にひとりになったユーフィアはドッと押し寄せてきた形容し難い疲労感に襲われて、椅子に座り短く吐息する。
「……」
天井をぼんやりと眺めていると、この家に自分の居場所などないという辛い現実に胸が苦しくなった。
「うっっ」
だが泣いても、嘆いても何も変わらない。
変えられる力もない。
だから耐えるしかない。
いつまで耐えればいいのかはわからないけれど――。
「拾いに行かなくちゃ……」
呟きを落として腰を上げたユーフィアは元気のない足取りで庭に向かった。
夜の帳が下りた頃。
自室で勉強していたユーフィアの耳朶を叩いたのは扉をノックする音。
「どうぞ」
言葉少なに声を投げると、ドアがゆっくりと開かれた。
立っているのは黒髪を結わえて暗めの色の仕着せを身にまとった二十代前半の侍女。
「失礼致します、ユーフィアお嬢様」
恭しく一礼をしてから入室しようとした女性はつと足を止めて、
「申し訳ございません。もしかして勉強の邪魔でしたか……」
申し訳なさそうにする大人っぽい使用人に優しい声音で大丈夫、と言ったユーフィアは親しみをにじませて問いを投げる。
「それでどうしたの、マイラ?」
問いを受けた若い使用人のマイラは座っているユーフィアに近寄って、携えた小振りなバスケットを差し出した。
「えっと……」
曖昧に呟きつつバスケットを受け取るユーフィアにマイラが頬を緩めて、
「キッシュです。ユーフィアお嬢様がお腹を空かせているのではないかと思いまして」
「キッシュ!」
目を輝かせたユーフィアが籠の中に入っている白い包みを開けると、手ごろなサイズにカットされたベーコンやほうれん草やキノコをふんだんに使ったキッシュを認めた。
食欲をそそるいい香りに自然と唇が綻ぶ。
きっとユーフィアが夕食抜きの罰を受けたのをどこからか聞きつけて、持ってきてくれたのだろう。
「ありがとう、マイラ」
「礼には及びませんよ」
柔らかい笑みを浮かべたマイラは表情を少しだけ曇らせて、
「私にはこれぐらいのことしかできませんから……」
「……でもわたし、とても助かってるし、マイラには本当に感謝してる」
侯爵邸で居場所がない自分のことを気にかけてくれるマイラにユーフィアは偽らざる本音の言葉を送る。
もし彼女がいなければ、この生活に耐えられなかっただろう。
「ありがとうございます、ユーフィアお嬢様」
マイラの相貌が晴れやかなものになった。
それに安堵したユーフィアは彼女と二言三言交わして、
「それでは仕事に戻ります」
マイラが丁寧に礼をして部屋を辞した。
ユーフィアはキッシュに舌鼓を打ち、持ってきてくれたマイラに胸中で謝辞を述べた。
まもなくぺろりと平らげて、勉強を再開した。
数時間後。
切りの良いところで勉強を終えたユーフィアは伸びをした。
湯浴みしようかな。
そう思い使用人を呼びに行こうと立ち上がったユーフィアは不意に鏡台に映った自分が視界に入った。
「!?」
あることに気づいたユーフィアの心臓が跳ねた。
あらんかぎりに目を見開き、鏡に映る己の姿をより仔細に見たいという思いに駆られて鏡台に急いで寄った。
「嘘……でしょ……」
左首にいつの間にか現れた枝分かれした赤黒い痣を視認した。
ユーフィアの震える唇の隙間から驚愕と恐怖をない交ぜにした声がこぼれ落ちる。
禍々(まがまが)しい痣。
まさか『あの病』に罹ってしまっただろうか――。
「……!」
背後で扉が開けられる音が聞こえた。
部屋に入ってきたのはクーヴィア。
今日、王都で買ってもらった服を自慢しに来たのだろう。
クーヴィアは可愛らしいワンピースを持ち、咄嗟に振り返ったユーフィアに勝ち誇った笑みを送った。
しかし自然と視野で捉えた首の痣を見た瞬間、顔を引き攣らせて、
「それ、まさか……奇蝕病……」
小声を漏らしたクーヴィアが持っていたワンピースを赤い絨毯の敷かれた床に落とした。
姉の呟きが鼓膜を叩き、奇蝕病に罹ってしまったという現実を突きつけられたユーフィアは小刻みに震える手を伸ばして、
「お、お姉様…………」
弱弱しい声で呼んだ。
だがしかしクーヴィアは反射的に一歩後退り、鋭く一睨みして慌てた様子で部屋を出ていった。
「…………」
魔族と関わりのある、または魔族に魅入られた人間が罹ると言われている奇蝕病。
聖なる国、ディルセイル王国において、その病の罹患者は忌み嫌われる。
ただでさえこの屋敷で蛇蝎のように嫌われているのに奇蝕病を発病したとなれば、どうなるか。
想像に難くない。
ユーフィアはもうすぐやってくるであろう現実に打ち震えた。