言葉で生き延びる
壊れた世界で――
迷いが、生きる力になる。
「それじゃ……元はオフィスワーカーだったの?」
彼女は純粋な好奇心でそう尋ねてきた。
「普通すぎ?」
私は冗談交じりに返した。
「ううん、むしろすごく尊敬してるよ」
少し声が遠のいた。水の音が聞こえたから、何かを洗っていたのかもしれない。
「尊敬、ね……」
ちょっと意外だった。彼女は何をしていた人なんだろう?
「うん。外に出て、人と関わって……私には無理だった。ずっと家で仕事してたから、人と話すのが本当に苦手で」
言葉に嘘はなかった。その素直さに胸が少し締めつけられた。終末の世界になっても、彼女が家に残っていた理由が少しだけ分かった気がした。
「……面白いね」
そう答えてから、続けて聞いてみた。
「じゃあ、なんで私とはちゃんと話せるの?」
短い沈黙が流れた。
「んー……」
かすかに聞こえた彼女の思案の声。そんなに考えることかな?
「分かった。運命の相手だからだよ」
スピーカー越しの声なのに、胸の奥と頬が一気に熱くなった。
「……それ、本気で言ってるの?」
思わず聞き返した。
彼女はくすっと笑った。優しくて、深い笑いだった。
「さあ、どうだろうね」
笑った後でそう言った。
「会えたら、わかるかもしれないよ」
……それってどういう意味?
私は顔を赤らめながらスマホを草の上に置いて、両手で頬を軽く叩いた。
「……よし、じゃあ走ろうかな」
少しだけ気合を入れて言った。
「もう知ってるのに、どうして急ぐの?」
「……知ってるの?」
まるで溜め息のように、その言葉が漏れた。心臓が早鐘のように打ち、彼女の言葉が何度も頭を回る。
「さあね……」
また少し笑った。
「ちょっと、そんなのズルいよ。教えてよ」
正直、気になって仕方なかった。
少しぐらいからかってもいいよね?
「わー、電波が――きえていく〜♪」
彼女の楽しそうな声と、電話から離れていく音が聞こえた。
私は止めなかった。ただ目を閉じて、道のそばにある草の上に寝転んで、空を見上げた。
彼女の言葉の意味は?
私はどうすればいい?
何を思えばいい?
わからない。
わからないけど……
その「わからなさ」が私を生かしてる気がした。
人って、時々迷うことが必要なのかもしれない。
最後に本気で迷ったのは――いつだっけ?
ご飯を何にするかとか、飲み物を選ぶとかじゃなくて、
もっと深い、心の奥からの迷い。
自分の人生、自分の気持ち、そして他人の心を前にしての迷い。
今、それがあることが嬉しい。
そう――嬉しいんだ。
久しぶりに、「歩くこと」が幸せだって思える。
仕事でもない。
寝床を探す旅でもない。
私は、あの子のもとへ向かっている――。
動かぬ世界に
歩くのは、ひとつの心――
迷いさえも、どこか嬉しい。