9 オフィール
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ガーゼへの視線に彼女は気付いたらしく、悲しそうに俯いた。
「第二王子殿下が……生意気に口出しするなと殴られました」
辺境でもっと酷い怪我を見ていたせいだろうか。それとも彼女が私を裏切ったからだろうか。ひとかけらの同情心も湧き上がってこない。辺境に行く前であれば、同情して何か声をかけただろうに。
人というのはこんなに変わるものなのか。
私は命懸けで国のために戦う者たちを見てしまった。裏切らず、権力への欲を持たない。そして、それを美しいと思った。最も美しいのは紫紺の髪を振り乱して血まみれで戦う書類上の妻だ。父を亡くし、兄を失い、ドラゴンを殺してまでエストラーダを守ろうとする彼女を。
「殿下!」
彼女には適当な返事をして前に進もうかと思っていると、後ろからロイドの焦ったような声が聞こえた。その後ろでライナーも青い顔をしている。
ロイドは周囲の人間に聞き取られない距離まで私を引っ張ると、耳元で告げた。
「辺境伯領にドラゴンが出現! エストラーダ辺境伯がドラゴンを討ち取りましたが、被害は甚大。辺境伯も酷い怪我を」
続きを聞く前に私はロイドの腕を取って、入り口に向かっていた。
「殿下! どこへ行かれるのですか!」
「辺境で問題が起きたから帰るのだが」
後ろで叫んだアズール公爵と令嬢にそう告げる。本当に名前が思い出せない。
「陛下に回復魔法を施していただきませんと! そうでないと殿下が次の王にふさわしいとみなされません」
回復魔法を施したところで何だというのだろう。父である国王が不摂生なのはずっと前からだ。魔物と戦って毒を浴びたわけじゃない。それに、父はいつだって私のことを殺しはしないが、守りもしなかった。何だったか、辺境伯が言っていた。目には目を、歯には歯をと。
「殿下のお父様でしょう? 回復魔法を使ってくださいませ。あぁ、私の頬はいいのです。第二王子の勢力を削ぐのにちょうどいいので」
令嬢が私の手を取って囁く。
そもそも、私はもう殿下ではない。辺境伯に婿入りしたのだから。ロイドはいつもの癖もあるし警戒していて殿下呼びをしているのだが、最近では辺境伯に必要以上に噛みつかなくなってきた。ここに来る前は息まで合っていた。
だが、この公爵令嬢と公爵が私を殿下呼びするとはどういうことだ?
しかも殿下と呼びながら許可なく手を握ってくるなんて。しかも、私が彼女の頬を治すのが当たり前だというその態度。
「勝手に触らないでくれ」
公爵令嬢の手を振り払うと、彼女は大げさに体を震わせる。
彼女の家が筆頭公爵家だとしっかり身に染みて分かっていたから、彼女をこれほど邪険に扱ったことはなかった。そんな勇気だってなかった。
「私は辺境伯の婿だ。殿下ではない」
「あのような野蛮な田舎の女を押し付けられて結婚しただけでしょう? そのようにわざと振る舞わずとも殿下、ここは公爵家の派閥で固めております」
再度手を取ろうとしてくる彼女をまたも振り払った。
イライラして心は不快だが、頭は冷えている。そして私の脳裏にあるのはエストラーダ領を侮辱されて静かに怒った彼女の姿だった。
そう、私は諦めきっていた。大切なものを奪われて、裏切られても怒ることができないほどに。
王位なんてどうでもいい。父だってどうでもいい。
でも、私を「黄金郷」と呼んでくれる彼女だけは。
「私を裏切って第二王子と結託した女ごときが、私の妻を侮辱するな」
その言葉で護衛としてついてきていたセルヴァが私と令嬢の間に割って入る。彼女は私の怒りを含んだ声にショックを受けたようで黙ったが、代わりに公爵が口を開いた。
「殿下、よろしいのですか。そのような態度で。私たちの助けがなければ殿下は王位どころかここから生きては出られないかもしれないのですよ」
「どうせ父に魔法を使ったところで、後で毒でも飲ませて殺せば私が失敗したことになるのだろう? 私を裏切ったお前たちをどうやって信じろと?」
公爵たちが本当に私の味方かなんて分からない。
回復魔法を使った後で国王を殺せば、私のせいにできるではないか。そうして信じたらまた裏切るのだ。
ライナーががっちり私の手を掴んだ。それを合図に全員がそっとハンカチを口に当てる。ライナーが地面に叩きつけた玉が弾けて煙幕が視界を覆い始める。私たちはすぐにさっきくぐった入り口に向かって走り始めた。
前にはライナー、後ろはセルヴァが守ってくれる。ロイドもしっかりついてきている。向かってくる護衛騎士たちはライナーが難なく対処する。
「念のために煙幕を持ってきておいて良かったです」
「何を追加で入れたんだ」
「唐辛子ですね」
「もう少し改良すれば魔物にも使えそうだ」
ロイドの少し弾んだような声を聞きながら、馬に乗る。
書類上の妻は強い、とんでもなく強い。無力な私なんていなくても彼女は一人でさっさと前を向いて進むだろう。
子供の頃は思っていた。勝手にもっと有能で素敵な愛される大人になるのだろうと。
そんなことはなかった。情けない私はそのまま情けない大人になっただけだった。
「殿下、申し訳ないのですが最短距離でエストラーダ領まで帰ります」
馬上のライナーの顔色はまだ青白い。
「もちろんだ」
「殿下、これは私の口から言うことではありませんが。緊急事態ということで説明させていただきます」
「うん? 分かったが、緊急事態ならもっと口調を崩して大丈夫だ」
「はい。ドラゴンに止めを刺した人物は必ず呪われます。デライラは以前ドラゴンを殺したことで呪われて子供を望めなくなりました、さらに言えば普通の人間よりもずっと早く死ぬでしょう。彼女の腹にはどす黒くドラゴンが巻き付いたような呪いがある……らしいです」
ライナーが語ったのは、竜殺しの末路だった。
言葉が出ない私にライナーは続ける。彼が平気で「デライラ」と呼んでいることにショックは受けていない、多分。
「今回もう一度ドラゴンの呪いを受けたのなら、デライラはどうなるか分かりません。二度もドラゴンを殺した人物は世界に存在しないので。そもそもドラゴンはそんなホイホイ出ません、倒せません」
「……国王はそれを知っていて私を婿入りさせたのか。子供ができないと」
「そうでしょう。子供ができたら厄介ですからね。てっきり、あなたも知っているかと思っていました」
「知らなかった……いや、早く言ってくれれば私の魔法を試した」
「俺だってそれをデライラに言いましたよ! 俺はあなたのことよりもデライラの方が大切だから!」
「ライナー、バカ。落ち着け」
ライナーの悲痛な声をセルヴァは諫めた。セルヴァの真っ青な様子から、彼も何も知らなかったことがうかがえる。
「でも! ドラゴンの呪いは下手に解呪しようとするとその解呪しようとした者に移るんです! だからデライラは解呪を望まなかった。どうせ子供ができずに早めに死ぬだけだと! 兄が辺境伯を継げばいいと」
「兄というのは出て行ったのではないのか?」
「テオドール様は出て行ったわけではありません。彼はドラゴンの呪いを解明するためにデライラと壮絶な喧嘩の後で黙って旅に出たのです。デライラはテオドール様に呪いが移って欲しくなくて……辺境伯領に戻ってこないように金品を奪って逃げたと言っているだけで! 俺以外はこれを知りませんけれど! でもデライラがいつも用意している遺書には、兄を呼び戻して辺境伯を継がせることという文とともにこの事実が書いてあります。俺は勝手に見ただけですが」
「……では兄の名誉を貶めてまで、兄を守っていると?」
「そうです!」
ライナーは前を向いて泣いていた。すぐに顔を俯かせたからハッキリと見たわけではないが。セルヴァもロイドも何も言えないようで揃って青白い顔をしている。
ライナーもまさかこんな短期間でドラゴンが出現するなんて思わなかっただろう。だから彼は今辺境を離れた後悔で泣いている。自分があの場にいれば、ドラゴンに止めを刺したのにと。
そして書類上の妻、デライラ・エストラーダ。
呪いのことなんて、私に一言も言わなかったじゃないか。押し付けられた婿になら言わないか。早死にすると分かっていて、どうしてあんなに生気溢れる笑みをこぼせるんだ。
「どうでもいい私に、回復魔法を使わせれば良かったのに」
どうして彼女はそうしなかったのだろう。こんな落ちぶれた無様で無力な王子だった私のことなんて、何も考えずに回復魔法を使ってくれと言うだけで良かったのに。そうしたら呪いを移せたかもしれないのに。
「ライナー、泣いている場合ではない。早く帰ろう」
「泣いていません。煙幕の中の唐辛子が目に入っただけで」
「私は君に大切に思われる人間じゃないが、そこまで器の小さい人間ではない」
書類上の妻は私が思いもよらないほど強い人だった。
彼女の隣に情けない私なんていらないだろう。でも、それでも。彼女を救いたいと思ってしまうんだ。どうしても、彼女に生きていて欲しいと思うんだ。彼女の痛みや呪いだけは私が引き受けてもいいと、そう思うんだ。そのためなら他のことなんてどうでも良かったんだ。