10 オフィール
いつもお読みいただきありがとうございます!
完結です。
ゆっくり唇を離す。
デライラは相変わらず目を閉じたままだ。おとぎ話のようなことはそうそう起きない。
分かっていながら私は彼女の額に自分の額をくっつけた。
『さぁ、聖人。我の言う世界の方がいいだろう? 神の創った世界よりもずっと。その女も生き返らせてやる。神では戦争など止められない』
悪魔が側で何か囁いている。
目を瞑ったままのデライラの頬に、透明な液体が滴った。泣いてはいけない。これでは彼女が死んだと私まで信じているようだ。
『その女はお前と結婚しなければこんな風に死ななかったのに。可哀想に、なんと哀れな人間。その女も今頃後悔しているだろう。まぁ、人と魔物を殺した女が天国に行くのか地獄に行くのか、我は知らないがな』
涙を止めようと頑張っていたが、悪魔の言葉に顔を上げる。
それだけは違う。
『どうした? やっと絶望したか?』
「それは違う。デライラは哀れじゃない」
『くくく、どこが哀れじゃないんだ? 聖人である自分を守って死んだから哀れじゃないとでも言いたいのか? 傲慢だな』
「デライラは後悔なんてしてない。していたら、そう私に言うはずだ」
『お前に言わなかっただけかもしれないだろう』
違う、それは絶対に違う。
デライラはそんなことしない。その前に私を魔の森に放り込んでる。
これまでの人生に比べたらエストラーダにいた期間なんてわずかだ。でも、一緒に過ごした期間だけでも分かる。そのくらいの信頼関係はこれまで築いてきたと自負できる。
これまで何もかも彼女が決めてくれた。引っ張ってくれた。
私だけ国王軍に差し出してと言ったのに、そうしないでくれた。戦ってくれた。
彼女といて、私は生きていていいんだってやっと思えたんだ。母を回復魔法で助けられず、そのことさえ忘れていても、デライラに会えたらこんな私でも生きていていいって思えた。
やっと一緒に生きて、一緒に死にたいと思った。
全部私がエストラーダに婿として押し付けられてから始まった。
ライラックと会ったのもエストラーダに来てからだ。
全部私がデライラに出会ったからだ。そこから私は生き始めた。
「私の妻はそんな人じゃない。妻を侮辱するな」
セルヴァに言えなかった言葉を、黒い靄状態の悪魔に紡ぐ。
『その女は出産の恐怖も持っている。いずれその恐怖は顔を出して結婚を後悔するはずだ。お前だってそうだ。そうなる前に我に体を寄越せ。我ならその恐怖を完璧に支配できる』
ドラゴンの呪いにかかっていたのだから、デライラは出産に関しては絶対に一度は諦めたはずなのだ。私はそんなことも考えなかった。
「それでも私はデライラに出会ったんだ」
なぜか、私を取り巻いていた黒い靄が少し震えた気がした。
「哀れなのはきっとお前のことだ。私は自分のことを聖人だと思ったことは一度もない。ただ、私とデライラの人生がこれで終わるなんて信じられないんだ」
最初に会った時に見た鮮烈な紫色。
それが私にとってすべてだった。
「もし私が聖人でいいのだとしたら、私はここでデライラが死ぬという物語を許容しない。私はそんな運命なんて拒絶する。そして、哀れなのはお前だ。こうやって恐怖で支配することしかできないのだから」
母を亡くした後に悪魔に出会っていたら、私の答えは違っていただろう。
「私と彼女がいるから物語があるんだ。彼女は私を黄金郷だと呼んだ。違うんだ、私にとっては彼女がいる場所こそがそうだった。私じゃない。彼女が私を黄金郷にした。そして、私が聖人であるならば、今、デライラが私を聖人にする」
この広間は窓が開いてないはずなのに、ふわりと下から風を感じた。
見下ろすと、淡い黄金色の光が私の下で輝いている。
すぐにその光は強くなった。
この感覚には覚えがある。あの時は白い光だった。
デライラに縋りついた時と、セルヴァがライラックを殺そうとしてやめろと叫んだ時。
『! もうちょっとだったのに!』
光に気圧されたのか、黒い靄は私の周りを取り囲むのをやめて一か所に集まる。小さな虫が集団で一か所に集まって飛び回っているようだ。
『今回こそ、聖人を堕とすチャンスだったのに! このタイミングで聖人が本当に覚醒するとは! なぜだ、なぜ愛する者を殺されて憎しみと恐怖に憑りつかれない!』
黄金色の光の向こうで悪魔が叫んでいる。
『せっかく! せっかく久方ぶりに地上に出てこれたというのにぃぃ!』
耳障りな叫び声をあげて悪魔が消えていく。
何が起きたのか分からず周囲を見ると、腐りかけていたはずのライラックの体が元通りになっていた。赤い羽根がつやつやと輝く。
──遅い。このポンコツ。腐りかけただろ!
「ご、ごめんね」
ライラックは私に抱かれたデライラを気遣ったのか、わざわざ背中にまで回り込んで蹴りをくらわしてきた。
デライラに視線を戻すと、彼女と目が合った。
……目が合った?
紫紺の目が私を捉えている。
「デラ、イラ?」
「なんだ、私の夫は泣き虫だな」
デライラの声がする。
幻だろうか。もう一度ライラックに蹴られて、その勢いで顔をデライラに近づけた。至近距離で紫紺の色が見える。
「生きてる、のか? 夢?」
「生きている。大体、一緒に死ぬと言ったのにオフィは来なかったじゃないか」
「……だって、死なせないって約束したから」
「残念なことに、私は悪魔殺しになり損ねたようだな。せっかく称号が増えると思ったのに」
デライラが生きているのか信じられなくて、何度も彼女の頬を触る。くすぐったそうに彼女はしたものの手を振り払われなかった。
「兵士たちも無事か?」
「うん。きっとライナーも」
兵士たちはデライラの側に駆け寄りたいのを我慢してくれているようだ。代わりにライナーの様子を見に行ってくれている。
「ライナーは悪魔なんかに負けて。あのバカ。帰ったら稽古をつける。どうせ起きたらあいつはひれ伏して謝るだろう。レッドは?」
「レッド?」
「あぁ、間違えた。ピヨだ、ピヨ」
私の横にいたライラックが「ピヨじゃない!」とギャアギャア言いながら前に出てくる。ただ「レッド」と呼ばれた瞬間、一瞬だけライラックは何かを懐かしむように目を細めた。
「お前の昔の主に会ったぞ。金髪で細身で……あぁ、オフィに似ていた」
デライラがライラックに手を伸ばす。ライラックも心配はしていたらしく、珍しくギャアギャア言わずに彼女に近づいた。
「え、誰?」
「昔の聖人だと言っていたな……あぁ、あの人物によく似ていた」
デライラは横を向いて、城の壁画の一画を示す。
広間の端にひっそりと隠されるかのように、中世的な男性が描かれていた。
男性は墓場から出てきたようで、男性が出てくるのを人々が待っていたような絵だった。
「何かいろいろ喋っていたが、あんなに筋肉はなかったな。聖人というのは死んで生き返るから聖人なのだと言っていた。ピヨに新鮮な野菜を食わせろとか小姑のようなことも言っていた」
「デライラが生きていてくれたら、どうでもいいよ。君を……失ったかと思った」
横たわったままのデライラの背に手を回して抱きしめると、彼女は拒絶はせずに体を震わせて笑う。
「私の夫は、死んだ後の方が情熱的なようだ」
「一緒に、エストラーダに帰ろう」
「ここはどうする? 王妃は生きているのか?」
「どうでもいいって言いたいところだけど……後処理しないとダメかな……」
「事実を公表しないとオフィのせいにされるかもしれないぞ。ここは悪魔殺しとして名を馳せておかなければ」
「じゃあ……後処理をしたら一緒にエストラーダに帰ろう」
「そうだな。これから冬が来るからな。でも、いいのか? オフィの異母弟は死んでいるし、王妃も悪魔召喚の罪があるから処刑ものだろう。今なら玉座が目の前にあるぞ?」
「私はエストラーダ辺境伯に婿入りしたんだ。デライラの帰る場所が私の帰る場所だ。父の弟かその息子が王位に就くだろう」
急に眩しさを感じて外を見ると、分厚い雲に覆われていたはずの空から広間の窓を通して一筋の光が入ってきた。
その光はまっすぐに壁画の男性を貫いて、徐々に徐々に横に広がっていく。
ライラックが男性の描かれているところに飛んでいって、光を追いかけるように赤い体が宙を舞う。その幻想的な光景を視線で思わず追った。
「では、約束通り一緒に生きて帰ろう。エストラーダに」
デライラの言葉を合図に額を合わせてこすりつけて、口付ける。
「デライラの正式な夫に、これでなれた?」
「何を寝ぼけたことを言っている、すでにオフィは私の正式な夫だろう」
「……良かった」
国王よりも聖人よりも、その他の何よりも大切なものを私は手に入れた。
私は彼女のために存在して、デライラは私のために存在している。
ライナーや中庭で倒れていた人々が意識を取り戻して動き出すまで、私たちは互いの鼓動を確かめるように抱き合って光を浴びていた。
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