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「生きて帰ろう、エストラーダに。死なせないから」
そう約束したはずなのに。
デライラが脇腹を貫かれていて全身が冷えた。
私の方が気絶しそうだったが、駆け寄ってライナーに回復魔法を流す。
しばらく暴れていたライナーはやがて気絶し、デライラの脇腹にも回復魔法をかけて終わったかに思われた。
「悪魔は?」
──この男の体にはもう気配がない。聖人の力で消えたのか? いないようだ。
ライラックとそんな話をしていると、デライラの様子がおかしくなった。
彼女がまくり上げて見せた腹の内側では、何かが蠢いている。
──?? 傷口から入ったのか? いや、でもそれなら乗っ取られた様子がないのもおかしい。お前、もう一度回復魔法をかけろ。
デライラに歩み寄ろうとした時だった。パチンと爆ぜる音がした。
何かが頬に飛んでくる。
先ほど癒したはずのデライラの脇腹が大きく横に裂け、赤いものが噴き出す。
頬に飛び散ったものをおそるおそる触って、生暖かいそれがデライラの血だと理解した。
「え……デライラ?」
──おい、早く魔法を! 死ぬぞ!
ライラックの言葉に背中を押されるように駆け寄る。
意識を失って床に崩れかけるデライラを間一髪で抱き留めて、回復魔法を再びかけた。
さっきここは癒したはずなのに。なんで?
私の魔法がダメだったのか? 私にはこれしか取り柄がないのに……。
──おい、落ち着け。ちゃんとやれ。
目の前で起きたことが信じられなくて手が震える。呼吸もうまくできない。
何で? 何が起きた? ちゃんと回復魔法を使っているのに。デライラの傷に効いている感覚がまるでない。滴る血を無理やり手で圧迫する。
「■■■■■?」
耳元でおぞましい声がした。何を言っているのかは聞き取れない。
──そいつだ! 消えてなかった!
デライラに回復魔法をかけ続けながら、顔を横に向けた。黒い靄のようなものがいつの間にかふよふよと浮いている。
『聞いているのか?』
また声が聞こえてぎょっとする。今度は聞き取れた。
『あぁ、この言語が通じるのか。さっきの人間の中に入っている時は良かったが、体から出ると調整が難しいな』
黒い靄がぐねぐねと形を変えながら喋っている。
口があるわけではないが、声が黒い靄から発せられているのだ。
回復魔法を途切れさせずに靄を見ていると、それは全体を震わせて「くくく」と低く笑う。
──相手は悪魔だ。まともに会話するな。飲み込まれるぞ!
ライラックが靄に突っ込むが、何かに衝突することもなくすり抜けた。悪魔にダメージはなかったようなのに、ライラックの片方の翼は瞬く間に黒ずんで骨まで見えている。
──ちっ、やっぱりダメか。
ひょこひょこ歩くライラックに向かって声を上げたいが、悪魔の方が先に喋り出した。
『傷からその女の腹に入ったが、体は乗っ取れなかった。お前が聖人だな? 聖人のわりにお前の方が恐怖と不安だらけだ。そこの女とは大違い。女は精神力が強すぎて体を乗っ取れなかったが、お前なら乗っ取りやすそうだ』
悪魔のおぞましい声が、頭の中に直接入れられているかのように響く。
デライラはこんなのと対峙していたのだ。声だけでおぞましく、恐怖をかきたてるような存在と。
震えそうになるが、血だらけのデライラを見た瞬間にすでに震えていたのだった。
こんな彼女は見たことがない。私の膝の上でだらりと力を抜いて体を預けるデライラなんて。しかも、目は完全に閉じられている。
でも、おかしい。
廊下でライナーが大きく体勢を崩した時に、おそらく悪魔は体を乗っ取っていたはずだ。
悪魔の言うことが本当なら、デライラの腹の傷にもいつの間にか入り込んでいた。
私に話しかけずに、さっさと乗っ取ればいいのに。
……まさか、回復魔法を流したから弱っているのか? それとも、何らかの条件を満たさないと乗っ取れない?
考えろ、この状況をどうするか。
「……確かに、私は恐怖と不安だらけだ」
『聖人が悪魔に乗っ取られたらとても楽しいだろうな? 神の野郎は天から高みの見物で、愚かな人間を助けてくれないんだって皆思うはずだ。そうしたら、人間はまた恐怖を抱くだろう』
そういえば、悪魔は恐怖を食らって成長していくとライラックが言っていた。
ライナーの恐怖を食べて成長して……その割には私に攻撃してこない。
「君は……神に復讐したいのか?」
『復讐じゃない。我は人間に親切にも教えてあげたいだけだ。神なんて信じたって何の意味もないということを。お前だってそうだろう、聖人。知っているぞ、お前がどんな生い立ちだったか。そこの神官の生い立ちもなかなかだが、お前も酷い。可哀想にな、神はお前のことを全然助けてくれなかった。お前の母のことだ。神がお前を見ていてくれれば、そして助けてくれればお前の母は死ななかったのに』
なんで、悪魔がそこまで知っている?
あぁ、さっき神官が分け与えられた悪魔の力を使ったからか。
私は信心深い方じゃない。神に祈ったこともほとんどないので、神に対して「どうして助けてくれないんだ」なんて恨みもない。そこが神官イサクとの違いだろうか。
デライラに回復魔法をかけ続ける私に、靄の形をした悪魔はさらに近づいてきた。迂闊に触るとどうなるか分からないから手は出さないが、悪魔は私がデライラに回復魔法をかけるのを止めようともしていないし、攻撃もしてこない。
考えなければ。
下手をしたらまたライナーや、他の兵士の体を乗っ取るかも。兵士たちだって、さっきのライナーを見た後では警戒して手を出しあぐねている。
ライラックは私の側に戻ってきて「話を聞くな」とばかりに私の耳や髪を引っ張る。
分かっている。デライラの傷の回復が終わるまで時間を稼いでいるだけだ。
『なぁ、人間が神にこれだけ祈っているのに、なんで神は助けてくれないんだろうな? なんで平和な世界にならない? それは神がお前たちを助ける気がないからだ』
悪魔は上機嫌なのか、神というスケールのやたら大きな話を続けている。
「……君なら助けてくれるのか?」
『我ならお前の母も生き返らせることができるし、人間たちも助けてやれる。その代わり、お前の体を我に寄越せ』
その代わり、のあたりがよく分からない。
何が目的なんだろう。
「悪魔なのにそんなことができるのか?」
『悪魔だからこそだ。それはただの人間がつけた呼び名。人間は悪魔と天使をセットにしたがるが、神と悪魔こそが対等な関係だ』
悪魔の言うことなので完全には信じてはいない。
神官イサクと契約しているようだが、彼は私に死んでほしそうだった。でも、悪魔は体を寄越せと言う。
おそらく、私の恐怖を搔き立てたいのだろうが──。
「私の体を使って何をするつもりなんだ?」
『聖人の言うことなら皆聞くだろう。皆、神の言葉ばかりで我の言葉はなかなか聞いてくれない。これは不公平なことだ』
構えて様子をうかがっている兵士たちに、まだ近づかないように目で合図する。
ライラックに腕をつつかれて、ふと我に返った。
デライラの腹の傷が塞がったのだ。
普段よりも相当時間がかかったのを不思議に思いながら、回復魔法をかけるのをやめてデライラの頬を撫でて首筋に触れる。
「なぜ、そんな話をして……体を乗っ取らないんだ?」
『くくく』
悪魔が不気味な笑い声をあげるので、思わずデライラから目を離した。
『今回の聖人は弱い上に愚かだな。その女が生きているかどうかも、それだけ回復魔法をかけていまだに気づかないとは』
……嘘だ。
そう言いたいのに、回復魔法の効きが普段より悪かったのが気になった。
あれも悪魔の力か?
デライラの首筋を触っても脈があるかどうか分からず、心臓に手をやる。
──心臓はそっちじゃないだろ! ポンコツ!
ライラックの言葉で慌てて反対側に手をやる。
デライラの心臓からは鼓動がいつまで経っても伝わってこなかった。
おかしい、どうして? 回復魔法をかけたのに。
今までこんなことなかった。なぜ? どうして?
「何を……したんだ?」
亡くなった人に回復魔法をかけた経験はこれまでなかった。
私は返事を待たずにデライラの心臓あたりに耳を引っ付ける。彼女に意識があれば絶対に何か言うはずだ。
ライラックが側まで来て、大きく体を震わせる。
目から涙が一滴落ち、私が回復魔法をかけた時のように淡い光がデライラを包んで、すぐに収束した。
──おかしい。もっと光るはずだ。
『その女が唯一、心の奥底に持っていた深い恐怖を知っているか?』
──悪魔の言うことだ。巧妙に嘘が織り交ぜてある。聞くな。
『出産に関する恐怖だ。腹を食い破った瞬間に分かった。平気で脇腹を刺される女にそんな恐怖があるとは! 竜殺しで呪いを受けた女に! あぁ、なんて愉快! その恐怖で我は強くなってその女を殺すことができた。さぁ、弱い聖人。気分はどうだ?』
嘘だとまた言いたかったが、声が出ない。
デライラの恐怖は全部エストラーダ関連のことだとばかり思っていた。
彼女にそんな恐怖があるなんて、彼女の強さに甘えて縋って私は何も知ろうとしなかった。
『愛しい女が死んだ気分はどうだ、聖人? お前が弱いからこの女は死んだ。さぁ、絶望しろ。もっとだ』
悪魔の狙いがやっと分かった。
おそらく、体を乗っ取るには条件がある。その人間が大きな恐怖を持っていたり、絶望していたりしないといけないのか。ライナーも少しは抵抗していたし……。
「デライラ?」
呼びかけてペタペタ触っても彼女の紫の目は開かない。
温かい。それなのに、なぜか手首を触っても心臓の周囲に触れてもその鼓動がない。
どうしてこんなことになっているんだろう。
さっきまでデライラは平気で戦っていたのに。この状況はただの悪夢だろうか。悪魔が見せる夢? きっとそうだ。そうに違いない。じゃなきゃ、おかしい。
それなのに、デライラの顔に透明な液体が落ちた。
デライラの輪郭も何もかも歪んで見える。
いつの間にか私の両目から涙が落ちていた。
ダメだ、泣くなんて。これじゃあデライラが死んだと認めているようじゃないか。
私の頭は見える事実を激しく拒絶しているはずなのに、涙は止まらない。必死の否定を、弱い心がすりぬける。
悪魔の言うことを完全に信じて耳を傾けてはいけないのに、目を開けないデライラを見ていると指が震えてくる。
恐怖してはいけない。いけない。
再び回復魔法を流すが、淡い光は一瞬光ってすぐ消えていくだけだ。
どうしよう、どうしよう。
デライラに生きていてほしかった。彼女がいなかったら私はまた一人になる。彼女のいない世界なんて地獄だから。
このままエストラーダに帰ってどうするんだ? その前に悪魔に乗っ取られるのか?
『お前を助けようとしなければ、この女は死ななかったのに。なにせドラゴンから生き残った女だ。そうだ、お前の母と一緒に我ならこの女も生き返らせてやれるぞ。お前の大切なものを二度と失わない世界を見せてやろう。神の与えるものよりもそっちがいいだろう? エストラーダの誰も死なない世界が。なぁ、誰も守らなくていい世界もいいだろ?』
悪魔は好き勝手喋っている。
恐怖してはいけないのに、嫌な考えは頭の中で止まらない。涙も止まらない。
黒い靄は先ほどよりも大きくなっていて、私の周囲を取り囲もうとしている。
私はやっぱり、誰のことも守れないのか?
母を亡くした時とこれは同じだ。
ねぇ、母さん。私はやっぱり無様で情けなくて……ちょっと回復魔法が使えただけで、デライラのことを守れないのか?
死んでほしくない、死なせないと約束したのに。
悪魔の言う世界の方がこれならいいかもしれない。
誰も死なない。誰も傷つかない。
──また、お前は一番大切なものを守らないつもりか?
思考にライラックの声が割って入ってきた。
黒い大きな靄が体に当たっているせいか、ライラックの赤いはずの体はだんだんと黒ずんでいっており、翼以外も肉が腐りかけている。
「え……」
一体、何を言っているのか。すでに守れていないじゃないか。
──お前は聖人じゃなかったのかもな。
黒い靄とともに、ライラックの体はどんどん腐り落ちて骨が見えていく。
回復魔法をかけろとライラックは騒がなかった。不死鳥だからだろうか。
そうだよ、その通りだ。私は聖人じゃないってずっと言ってたじゃないか。
私はただ、デライラに生きていてほしかっただけ。彼女と一緒に生きていたかっただけ。
母が亡くなって、エストラーダに追いやられて彼女に出会えたんだ。
だから、他の誰よりも私はデライラに生きていてほしかった。
彼女は一緒に死ねるなら怖くないと言っていた。でも、私は彼女にだけは生きていてほしい。
相変わらず、どれだけ回復魔法を流してもデライラは目を開けない。
「ねぇデライラ、起きて……」
悪魔がどうとか、王妃や異母弟が何を企んでいるかとか、すべてどうでも良かった。
目を開けない彼女にそっと口付ける。
私には彼女がすべてだったから。
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