2 オフィール
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「セルヴァは何か、言っていたか」
ようやく、呟くようにデライラが口を開いた。
浅く眠りに落ちかけていたが、その呟きで現実に引き戻される。明日のためには寝ておいた方がいいのは分かっているが、彼女の掠れた問いを無視できなかった。
「いつまで魔物と戦えばいいんだって。息子も魔物に食われて死ぬのが当然なのかって。私がエストラーダに来たから余計にダメだと。怪我をしてもすぐに治されて前線に出ないといけないから」
また沈黙が下りた。
デライラの規則正しい息遣いが聞こえるが、眠っていないことは明白だった。
「セルヴァにとってエストラーダは地獄だったのか」
そんなことはない。
ただ、セルヴァが間違っているとも、戦い続けているデライラが間違っているとも言えない。彼らの積み重ねてきた年月と葛藤と努力は新参者の私が否定していいものじゃない。
「セルヴァにとっては、そうだったのかもしれない」
代々一族で仕え続けて、降り積もった疑問と不満。セルヴァと対面していた時は混乱と恐怖しか感じなかったが、今なら冷静に振り返ることができる。
セルヴァはエストラーダに出入りしていた商人に扮したスパイを通して、第二王子に情報を流していたらしい。これはテオドールが王子を観察した中で分かっていたことだが、裏切者がセルヴァだとは最後まで分からなかったようだ。だからこそ、テオドールは私を誘拐する演技をしてセルヴァをあぶり出したらしい。
私の殺害がセルヴァに任されていたからだ。
セルヴァが完全に悪だったなんていうことはあり得ない。彼と共に過ごした時間まで私は否定できない。だって、彼は私について王都まで一緒に行ってくれたのだから。彼の娘を抱かせてもらった時、彼は笑っていたはずだ。
私を殺害しろという第二王子の命令に従わず、独断で私を聖国に引き渡そうとしていたくらいだ。セルヴァだってアステアの第二王子を完全に信用していなかったのかもしれない。
「でも、私にとっては違う。エストラーダは地獄なんかじゃない」
私の言葉は彼女の耳に届いているだろうか。
デライラは私の胸に手をついて顔を起こす。束ねられていない彼女の紫紺の髪が私の顔に落ちてきた。
少し毛先の焦げた彼女の髪を耳にかけてあげる。
恐ろしいほどにデライラとの距離が近い。そもそも彼女は私と共に眠っていなくて良かったのだ。自室で休んでいれば良かった。それなのに、彼女は私の隣にいた。
彼女らしくない。
私の知るデライラ・エストラーダはドラゴンや魔物に平気で立ち向かう強すぎる女性だ。一人で立っているだけで特別で、何でもこなして隣に誰も必要としない人だった。
でも、きっとそうじゃなかった。彼女は自分にあらゆる弱さを許さなかっただけだ。彼女に寄り添う人がいなくなってしまっただけで。
「王都に魔物は出ないけど、皆争ってた。権力の誇示、金を持っていることの自慢、支配欲、誰がより有能なのか。魔物がいなくても隣国が攻めてこなくても、平和じゃなかった。セルヴァは安寧を望んでいたのかもしれないけど、それはこの地では叶えられない。人間の欲がある限りどこにも平和なんてないし、どこでも地獄だよ」
母の後に王妃になった人は、私を何度も殺そうとした。
城には魔物もいなかったし、隣国が急に攻めてくることもなかったけれど私にとってはどこにも安寧はなかった。
城の白い壁を見つめながら、私は何度も絶望した。自分の力と勇気のなさに。
「私にとってエストラーダは唯一地獄じゃない場所だった。ここで初めて居場所ができた。あなたがくれたんだ、デライラが」
アステアの第二王子の情報が確かならば、近いうちに私が反乱を企てていると王都から軍が攻めてくるだろう。デライラが大切にしているエストラーダに。
ライラックが喋るようになって不死鳥だと言われて、不死鳥を従えるのが聖人だとテオドールに教えられたがよく分からない。だって、ライラックは「遅い」とか「ポンコツ」と言いながら蹴ってくるだけだ。サムエルのことも治したくなさそうだった。全然従えられていない。むしろ、こちらが下僕のような扱いだ。
「もし反乱の疑いをかけられてここに軍が攻め込んできたら、躊躇せず私を差し出してほしい。私だけを差し出してエストラーダには攻め込まないように交渉してほしいんだ」
以前の私だったら何の役にも立たないくせにこんな風に誰かを守る気概もなく、情けなく逃げて震えていただけだっただろう。無能なのに、誰を守りたいという意識もないくせに自分の命は惜しかった。
でも、デライラは私に居場所と勇気と力をくれた。彼女のために生きたいと思った。
会議中にこう言えば良かったのだが、やっぱり少し怖かった。どうか嘘の情報で何も攻めてきませんようにと祈ってしまったし、疲れて眠って逃げてしまった。少しでも長くデライラの側にいたかったから。
でもセルヴァの裏切りによって弱っているデライラを見てしまったら、もう逃げられない。
今日、私は初めて死を間近に感じた。よく毒を盛られていたので自分の死はいつも近くて遠かった。でも、血だらけでデライラが死ぬかもしれないと感じたら初めて恐怖を覚えた。私は彼女がいなかったらどうやって生きていけばいいんだろう。
足元の地面がなくなる感覚だった。
デライラに生きていてほしい。大切だから。
「ライラックとロイドは置いて行くし、回復魔法があるから殺されはしないはず。私だってデライラが大切にしているエストラーダを守りたいと思っている。これが一番いい方法だよ。ただ、国王軍が約束を破って攻めてくる場合は応戦して。私も……回復魔法を今日みたいに暴走させれば少しは戦力になるかもしれない」
デライラは私の上で体を起こして、髪の毛を後ろに跳ねのける。
何を考えているのか分からない表情で、私の唇につっと指を這わせた。
「エストラーダは地獄なんかじゃない。デライラがいる限り。あなたは情けない私が立ち上がって誰かに立ち向かうという勇気と力をくれたから」
彼女が血まみれになりながら必死に守ってきたエストラーダを、これ以上戦場にはさせない。そもそも二度目のドラゴン出現だって、反乱扱いされるかもしれないことだって私のせいだ。
デライラとの結婚を命じられてやって来て、私はずっと逃げてばかりだった。いい加減、立ち上がらなければいけない。ずっと逃げ続けた王妃と異母弟から。父は臥せっているか、殺されたかしているだろう。
「私に、寄り添うのではなかったのか」
「デライラが大切なんだ。だから、デライラの大切にしているエストラーダだって守りたいんだ。もし国王軍が攻めてくるなら狙いは私だけだ」
アステアの第二王子は魔石の鉱脈の存在は流していないはずだ。
エストラーダの兵たちを殺したら、むしろ魔の森から出てくる魔物に対処できずに困るのは近隣の領地を持つ貴族たちだ。そこから影響は広がって結局王都にも影響は出る。これは私への嫌がらせだ。私がエストラ―ダで早いうちに死んでいればこんなことにはならなかった。
「……もし私が間違っていたら、寄り添ってくれると言ったあなたは私と一緒に死んでくれるのか」
やがて私を見下ろしながら、デライラはそう口を開いた。
意味が分からなかったが、彼女はダメなものはダメと言うだろう。国王軍が多くてエストラーダを守り切れなかったらという意味だろうか。竜殺しのデライラは国王軍にとっても脅威だろう。
万が一交渉ができなかったり、私が引き渡されて国王軍が引き返さなかったりしたその時は……。
「精一杯戦って、一緒に死のう」
本当はデライラには生きていてほしい。ずっとずっと。でも、彼女が死ぬなら一緒に死にたい。だって、私にとって彼女のいない世界こそが地獄なんだから。
デライラは私の言葉に薄く笑う。彼女の目には薄い涙の膜が張っていた気がした。
彼女はすぐに私を抱きしめて眠ったので、本当に泣きそうになっていたのかどうかは温かさに誤魔化されて分からなかった。




