8 デライラ
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時折、血が頬や腕を伝う。
目に入りそうなそれを拭いながら、私はライナーを片手で引きずり剣をもう片手に森を歩いていた。
爆弾を投げた後で吹き飛ばされたが、魔物を盾にして酷い怪我は避けられた。擦り傷が痛みを訴えてくるものの、無視できる程度だ。
ずるりずるりと無様な音を立てて大柄なライナーを引きずりながら、他に兵が残っていないか周囲を警戒する。
急に何かが飛び出してきた。
剣をすぐに構えるが、出てきたのは黒い小さな丸っこい体のミミックだった。
ミミックは私に気付いていなかったらしく、一瞬驚いたように小刻みに震えたがすぐに醜悪な笑みを浮かべて空中で回転した。
私はあまり頭が働いていなかったので、間髪入れずにミミックを斜めに斬る。
今回のミミックは黒焦げではなく、血まみれの夫の姿を模倣していた。引きずっているライナーが死にかけているからだろうか。
血まみれの夫が地面に倒れて、そのまま私に手を伸ばしてくる。
ミミックが変化するところを見ているのでその姿に恐怖などないはずだった。しかし、なんとなく嫌な予感がした。何の根拠もないただの直感めいたそれは頭の片隅ですぐに大きくなる。
頭を振って幻想と恐怖を振り払い、再びライナーを引きずって歩き出すが気配をまた感じて足を止めた。
剣を振って飛んできた矢を落とす。
パチパチと乾いた音とともに、両手を打ちながら現れたのは赤毛の偉そうな若い男と他数名の兵だった。
「さすがは竜殺しのデライラ・エストラーダ。その怪我でそこまで動けるのか」
「お前は誰だ」
「対人戦の経験があまりないはずなのに、まさかあの人数が壊滅させられるとは思わなかった。苦労して七十用意したんだぞ? テオドールが君に関して言っていたことは数少ない真実だったらしい」
「へぇ、兄と仲が良いようだな」
「裏切られたけどね」
明らかに敵である奴の言うことを信じてはいけない。
だが、兄が私を本当に裏切ったなら今この場にいるはずだ。いないのはなぜだ? 私を、いやエストラーダを裏切ってはいなかったのか。
あの兄は殺されてはいないだろう。利き腕は使えないものの、兄はとてもしぶとい。ドラゴンから生き残るほどに。
「兄は表情が読みづらいし、そもそも信頼していなかったなら裏切られたとは言わないんじゃないか」
「こんなに仲の良い兄妹だとはね」
「仲は別に良くない、普通だ」
どうでもいい会話をしながら、男の正体を探るが分からない。
会ったことは確実にないし、王族か高位貴族のような傲慢さを漂わせているが夫の異母弟でもないだろう。この国の第二王子は赤毛ではなかったはずだから。
「で、お前は誰で、何の用だ。用がないならさっさとどけ」
ライナーは虫の息だ。早く森を抜けて回復魔法なり治療なりを受けさせないといけない。睨む私に赤毛の男は軽く笑う。
「つれないな。生け捕りや説得なんて難しそうだから、さっきまで君には死んでもらうつもりだったがあまりの君のしぶとさと強さに驚いたよ。一応聞くけど、アステア王国の傘下に入る気はないか」
アステア王国とは、この魔の森の向こう側に位置する隣国のことだ。
一度目に魔の森に軽々しく火をつけた国。ネルソン村は焼け野原になり、父は死に、兄は酷い火傷を負った。村の住人たちは強制移住を余儀なくされた。
あの日、私の人生は一変した。
まだはっきりと覚えている、目の前でドラゴンの炎によって父が焦げる臭いを。忘れたことなどない。
私の人生からすべての平穏を奪った元凶。
恨みはあるものの、魔の森を越えて攻め入ろうと考えたことなど私にはなかった。だが、こうして目の前に現れると話は別だ。頭の中でしか知らなかった存在を視界に映しただけで、これほど殺したくなるものなのか。
何も言葉は発していないものの、ライナーを掴んでいる方の手に力が入った。無意識に殺気も漏れてしまったらしい。赤毛の男の後ろにいる兵たちが剣を構えて反応する。
目の奥が熱い。冷静になれ。隙を見せるな。
竜殺しが聞いてあきれる。いくらドラゴンを殺しても、私は英雄などではない。
「凄い殺気だ」
「信じられないご冗談だったからな。ところで、そんなことを言い出すとはお前はアステアの辺境伯ではないな。誰だ」
「一応、王子だからさ。お前と呼ばれるのはなんだか新鮮だね」
「アステアの王族がなぜこんなところにいる」
「黄金郷を手に入れるため。私が欲しいのはエストラーダ領だ。君が大人しく傘下に入ってくれるか、離婚して妃になってくれるかしたらこれ以上無駄な血は流さなくていいんだけど」
黄金郷? こいつは何を言っている? そう表現するのは私だけだと思っていた。私の特権だと。
そして無駄な血か。そうか、こいつにとっては無駄か。ライナーや私の流すこの血が無駄だと言うのか。あるいは、こいつの放った兵の流した血も。
あの日、そう、ドラゴンが出現したあの日。私が救えず取りこぼした命さえ無駄だと言うのか。
「魔の森を焼いておいてよく言う。エストラーダは決してお前らになど屈しない」
「君がそんなだからセルヴァは裏切るんだよ。民にとって魔物も出ない、ドラゴンも出ない、平和な国の方がいいに決まっているのにバカみたいに戦いに明け暮れているんだから」
今度はライナーを掴んでいる手から力が抜けそうになる。
セルヴァだと? いや、初対面のこの男の言うことを真に受けてはいけない。セルヴァが裏切ったという確証があるのか?
確かにセルヴァなら魔の森のこともよく分かっているが……家族を人質に取られているのか? なら、なぜ私にそう言わなかった? 言う価値もなかったのか? 私に。
「セルヴァは今頃、君の名ばかりの夫を殺しているだろう。君は未亡人ということになる」
あの弱弱しい黄金郷の夫はどこにいっただろうか。
急いでいたから丘で一度別れて、ロイドに任せて他の護衛もつけずどうなったのだ? さっきの嫌な予感はまさかそれか。
矢を防ぐために犠牲にした片手と、全身の擦り傷が痛みを訴えていたがだんだん何も感じなくなってくる。手足は冷たいのに、心臓の鼓動だけはやけに大きく聞こえた。
私の人生が一変した後で、唯一手に入ったのはあの黄金郷の夫か。
偉大な強い父を失い、伸ばし損ねた手を今日伸ばすのならば……手を伸ばしたところで何か掴めるだろうか。
私に失うものなど何一つありはしない。いつでも墓場に潜り込んでもいいように生きてきた。
やはり、寄り添ってほしいとか一緒に死んでほしいなんて傲慢な願いだった。一緒に死んでほしいけれど、せめて私が死んだらみっともなく泣いてほしい。そして花なんて供えないでほしい、嫌いだから。
「私が未亡人になろうと、死体になろうとも、お前の妻にも傘下にも入らないが? そもそもお前はタイプじゃないんでね」
呼吸が浅くなりそうになってすぐに吸った。
「私はエストラーダの名を受け継ぐ者だ。誰がドラゴンを出現させたお前なんぞの国に下るものか。それならば父を返せ、犠牲になった兵を、仲間たちを返せ。私はすべてのエストラーダの兵に敬意を払う」
「その怪我でこれ以上抵抗するのか?」
「お前らなんぞ腕一本で十分だろう」
「さすがは竜殺しだ」
「……一つ言っておくが、黄金郷は私のものだ」
「竜殺しも魔石の鉱脈に気付いていたのか? ならばなぜ採掘しない? まさか進めているのか? テオドールが嘘を?」
こいつは何を言っているんだ。
何が正義で正しいかなどもうどうでもいい。
ドラゴンが出現して、私はあの日死に損なった。その過去がずっとずっと絡みついてくる。目の前のアステア王国の男どもが憎いのか、それとも父を救えなかった無力な自分が憎いのか。
私は今日、悔いのない選択をする。
絶対にこいつらをここで殺す。
悪いな、オフィ。別にお前を見捨てるわけじゃない。ただ、過去の無力で無様な私を断ち切りに行く。竜殺しなんて称号を私は望んでなどいなかった。
今はただ、こいつらに当たり前に訪れる明日などないと教えてやらねば。そう、あの日に死んだ父のように。




