3 オフィール
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ライナーのことが気になったのは、デライラに抱え上げられて回っていたその一瞬だけだった。
舞台から下りた後は、デライラと一緒にまた領民たちにもみくちゃにされたからだ。会う人会う人に食べ物や酒を渡されて延々とキリがない。
「行くぞ」
しばらくして、デライラが私の手を取って歩き始めた。その時私はまだ渡された串焼きを半分も食べていなかった。すでにお腹はパンパンだ。
デライラは私の手から串を奪い取ると、あっという間に全部平らげて「うまかった」と近くの領民に渡す。
そして私の手を引いて領民たちの輪の中から抜け出した。彼らは先ほどまでの勢いはどこへやら。生暖かい笑顔をこちらに向けたまま、それ以上デライラを囲むことはなかった。
しばらく手を引かれて歩いて、小高い丘の上まで来た。
彼女の歩く速度が速すぎて、私だけ息が上がっている。
「ここは?」
彼女は無言で大きなナラの木の下に座り込み、隣を叩く。おずおずと私も腰を下ろした。しばらく彼女は無言で空を眺めていた。先ほどまであれほど騒がしかったのが嘘のように、この丘の上は静かだった。遠くから微かに音楽が聞こえる程度だ。
「父もよくここで休憩していた。葉巻をくわえて。それが皆分かっているからついては来なかった」
「そうか……」
何と言えばいいのか分からず、そう口にした。人に囲まれすぎて彼女も少し疲れているようだ。あるいは腹をさすっているから食べ過ぎたのか。
しばらく二人で休憩とばかりに空を眺める。
私はナラの木に緑色の鳥の巣のような塊がたくさんついているのに気付いた。あれはヤドリギだ。
木に寄生して水分と養分を貰うヤドリギ。
客観的に見なくても、私はデライラに寄生している男なのかもしれない。だって、彼女に見捨てられたら私は死ぬから。ヤドリギもきっとこのナラの木が死んだら死ぬ。
「皆、あなたに会えるのが嬉しいみたいだった」
「そうだな。見回りは頻繁に行っているつもりだが、最近はネルソン村と魔の森にかまけて疎かになっていたようだ。私は夫に書類仕事を全部押し付けて毎日出歩いた方がいいのかもしれない」
「えぇ……それだとあなたが忙しすぎないか」
「机に向かっているよりは動いている方が好きだ」
書類仕事を彼女の代わりに全てやれば、自分のことを一瞬でもヤドリギみたいだと思わなくていいだろうか。
「ロイドにもさらに書類を押し付けてやろう。さっき見たか? 女と歩いていたぞ?」
「え! 今日は知り合いと祭りを回るって言ってたのに……」
「そなたの側近はなかなかやるじゃないか。ライナーより先に恋人を作っている。知り合いかもしれないが」
ロイドは最近一人で楽しそうだ。開発が楽しいのかと思ったら恋人ができたからだったのか。ちょっと面白くない。私にはこっそり教えてくれてもいいのに。そうしたら、ロイドといろいろ話してサムエルのアクセサリーにかこつけた嘘だって瞬時に見抜けたかもしれないのに。
モヤモヤする。
いや、ロイドに恋人ができたのは大変喜ばしいことだ。望んでエストラーダ領までついてきてくれたのは乳母の息子であるロイドだけだったから。
それがどれだけ私を勇気づけたか。それなのに、最近の私はロイドを気にかけることもなくデライラのことばかり考えていた。酷い上司だと思う。さらにロイドに恋人ができたことを素直に喜べない。まだ恋人じゃない線だって残っているけれど。
「ロイドが羨ましい」
口に出してしまってから、ロイドを羨んでいることに気付いた。面白くないよりも羨ましいが大きい。
「なんだ、私の夫はそんなにモテたいのか」
「違うよ……ただ、私とあなたの関係は順番がめちゃくちゃだから。でもロイドはそうじゃない」
「順番?」
「婚約を申し込んでお互いのことをゆっくり知っていって、結婚してその前後でプロポーズして……」
「なんだ、私の夫は乙女だな」
デライラは片膝を立てて、そこに顎を乗せて笑う。
格好いい彼女の前に出ると、確かに自分が乙女であると認識せざるを得ない。
「でも……そうしたらたくさん語り合っているから名前だって自然に呼べるだろう。私とあなたは結婚式だって挙げていないし、指輪だって嵌めてない」
「またその話か。あなただって私の名前を今日は呼んでいない。ピヨの方が呼んでいるんじゃないか? 私が遠くに行くとピィピィ文句を言うしな」
書類上は結婚しているのに正式な夫になりたいと願ってしまうのは、きっと順序がめちゃくちゃなせいだ。彼女のことをちゃんと理解しているという自負がない。だから自信がなくて名前だって呼べない。
デライラは面白そうに口の端を上げて顔をこちらに向けている。
そういえば、ライラックはここにはいない。食べ物に釣られてどこかへ行っており、その間にここに来たから戻ったらまた喚かれて蹴りを食らいそうだ。
「昨晩だってお酒に頼って夜を過ごすつもりはなかった……もっとその……ちゃんと気持ちを伝えてからしかるべき場所で……」
私の声は恥ずかしさで小さくなっていくのに、デライラは大きく口を開けて笑った。
「しかるべき場所とは一体どこだ。それに散々、あなたは私に気持ちを伝えてきたと思うが?」
「そうだけど……いつも物騒だったし……蹴ったり、馬乗りになったり、よく分からない魔法を放ったり」
彼女の頬に傷をつけたような現象はあれから起きていないし、起こせてもいない。あれは一体何だったのだろう。ロイドも一緒に調べてくれたが、文献を見つけることはできなかった。
「私に押し付けられたはずの夫は本当に可愛いな」
可愛いの部分に反論したかったが、デライラの声には感嘆がありありと入っていたので唇を尖らせるだけにとどめた。
彼女の指が私の耳にからかうように触れる。
ギョッとしたが、体を跳ねさせただけで飛びのきはしなかった。
「なんだ、昨日は積極的だったくせに。もう名前も呼べないほど恥ずかしがり屋に戻ったのか」
くすくす笑いながら、デライラは私の耳をくすぐる。
「ここでは知らないけど……王都では収穫祭の時にヤドリギの下にいるカップルはキスしないといけない」
「へぇ? それは知らなかった」
デライラは隣でニヤニヤ笑いながら私を見ているので、頬に熱が集まるのを感じる。彼女の様子を見るに、本当に知らなかったかどうかは全く分からない。
「……あなたに名前を呼ばれたら、自分の名前が好きになるんだ。ずっと自分の名前は好きじゃなかったから」
恥ずかしくて彼女の方をそれ以上見れなくて、ヤドリギとは全く違う話題を口にしてしまう。デライラは私で遊んでいるのか、頬を指でツンツンと触ってくる。踊る時は格好良くて皆の前ではこんなことをしてこなかったのに。
オフィール、またはオフィル。旧い聖典に載っている黄金郷。そんな御大層な名前をつけた母のことが理解できず、私は自分の名前が好きではなかった。王族として生まれたので「殿下」と呼ばれた時は安心した。「オフィール殿下」なんて呼ばれたら気持ち悪かった。
「良いじゃないか。私に押し付けられたのは黄金郷だったのだから。その名前は真実だ」
デライラは私の長い金髪を摘んでいた。彼女は自分の髪には無頓着なくせに、私の髪の毛はよくいじる。
「それで? オフィ。ヤドリギの下ではキスするのか? それとも帰るか?」
昨晩耳元でささやかれた声が蘇る。彼女は私のことを「オフィ」と呼んだ。そう呼ばれると、私は自分の名前が素晴らしく輝くものに思えたのだ。
「ちなみに、ここは父が母にプロポーズした場所だぞ? しかるべき場所にはふさわしくないのか?」
思いがけない言葉に驚いた私の唇を、彼女の指がまたからかうようにつぅっとなぞる。そうだった、彼女の行動はからかうように軽いようで私を試している。やっぱり、彼女も私と同様に怖いのだ。
彼女の指を痛くない程度の強さでパクっと口に含んだ。
今度はデライラが驚く番だった。指を引き抜き珍しく目を見開いた彼女にキスをする。
「デライラが嫌ならやめるけど……」
「……嫌なら突き飛ばしている」
唇を放して彼女の肩に手を置くと、デライラの手は私の頬に触れた。
「デライラ」
「なぁ、オフィ」
額がほぼくっつきそうな距離で鼻を擦り合わせて、お互いの吐息が混じる。なぜか二人そろってお互いの名前を熱に浮かされたように呼んだ時だった。
「デライラ!」
切り裂くような声が少し離れた場所から聞こえた。




