5 デライラ
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夫はサムエルの予備ナイフを首に当てて震えている。
私は笑いそうになるのを耐え、夫の様子をしばらく眺めていた。やがて我慢がきかなくなって手を伸ばす。
「ナイフの持ち方がなっていない」
私は夫の手を正しい持ち方に持ち替えさせた。そして確実に致命傷になる部分にナイフの刃を近付けさせる。
「持ち方はこう。そしてここを切れば出血多量で確実に死ぬ。私を脅すならここまでやれ」
夫を膝の上に乗せたまま、ナイフの持ち方を指導する。
「分かったか?」
夫に問うとぷるぷると泣きそうな顔で頷き、ナイフを首に当てたまま口を開いた。
「私は、あなたの夫であるはずだ」
「そうだな。可愛いのに私を脅してくる夫だ」
「私の回復魔法はあなたのために必要なはず」
「私は呪い以外に大して傷を負わない」
「あなたは負わなくても、あなたの大切な人達は負うだろう。私を遠ざけるのは得策ではない。だから私を遠ざけないで欲しい」
「もし、遠ざけたら?」
「もともと家族にも元婚約者にも見捨てられていたんだ。好きな人にも見捨てられるくらいなら生きている意味はない」
このヒヨコのような夫は、私の弱点をつくのが上手い。私の欲しい言葉を的確についてくる。弱いくせに。
たった一言、私の欲しい言葉をくれただけで偉そうに。私のために命でも懸けるというのか? エストラーダのために命を懸ける部下はたくさんいる。それは回り回って自分の家族を守るためだ。この男は私を守るなんてことはできないのに、私が見捨てたら死ぬと言う。
やはり、あの日私はおかしかったのだ。こんな男相手に無防備になってしまうなんて。私が欲しかったのは金ではなく、ただの共感や安っぽい言葉だったのか?
私はこんな男ごときのために弱くなるわけにはいかない。こんなヒヨコで、ナイフの持ち方も素人で、人食いカピバラでさえ狩れない男に。背中さえ預けられない。
母だってそうだった。か弱くてずっとこの城で父に守られていた母。剣など手に持ったこともない、魔の森に入るなんてもっての他のたおやかな女性。
病気であっけなくあの世にいった母。そこから父の楔はなくなったのかもしれない。私や兄では取って代わることのできない楔。
膝の上の夫の襟を両手で持って立ち上がり、軽く締めあげる。夫は暴れたが、私はすぐに片手を放してナイフを叩き落とし夫を床に放り投げた。
「こんなに弱いくせに一丁前に愛にでも命を懸けるのか」
夫は無様に床に転がる。
確かに私は誰かに寄り添って欲しかった。でも、率先して死んでほしいわけじゃない。
夫に背を向けると、足を掴まれた。
「私はそれにしか縋るものがない。あなたにしか!」
無様に転がっていたはずの夫が私の足に縋りついている。這いつくばりながら私の足を掴む夫を見て、なぜか私は掴まれた場所からゾクゾクした。加虐心ではない。これは……嬉しさだ。
私は今、このヒヨコの夫を試している。
「私だって、あなたのように強くなりたい」
「私は強いわけではない。強くあらねばならなかっただけ」
父が死んで、兄もいなくなったから。
母が死んだ後、父がしばらく腑抜けていたことを思い出す。私は父が死んでも腑抜けている暇などなかった。ただ、このヒヨコのような夫が死んだらどうだろう。ただでさえ今にも死にそうなヒヨコなのに。それに私はあんな腑抜けになる暇はない。
彼は私の楔になってはいけない。
「私は! あなたと離れたくない! 私は無力だが! あなたはよりあなた自身を大切にしなくなるだろうから!」
急に夫が大声を出すものだから、脚力で彼を振り払った。今度は受け身を取っている。
「受け身が上手くなったことだ」
剣を持たせて鍛錬したおかげだろうか。
彼が落ちていたナイフに手を伸ばそうとするのが視界に入って、すぐにナイフを蹴飛ばすと腹ばいになった夫の腕を拘束して背中に馬乗りになった。
「だが、欠伸が出るほど弱い。あなたでは私相手にかすり傷一つさえ負わせられない」
夫は下から悔しそうに私を睨んでくる。
その瞬間、視界が光って眩しくなった。
何が起こったかは分からないが、反射で私は体を右に大きく逸らした。しかし、左頬に熱を感じる。片手を当ててみると、血がついている。
振り返ると、壁が一部えぐれていた。
「今のは? 魔法か?」
「わ、わからない。とにかく回復を」
夫は素早く私の下から這い出てくると、座り込んだ私の頬に手を当てた。ぼぅっと小さな光が灯って、瞬いて消える。
「先ほど感じた魔力と同じだ」
「でも、回復魔法は攻撃になんて使えないはず」
「あなたには聖人疑惑があるだろう。本当に……回復魔法ではないのかもしれないな」
手についた血を眺めていると、夫はハンカチを出して綺麗に拭いてくれた。
「あなたに……これで、かすり傷はつけた」
「ヒヨコも半年たてばニワトリになるものだな」
夫は私の手についた血を綺麗に拭った後も、手を握ったままだ。
血を見て私はかなり冷静になった。おそらく、夫が使っているのは回復魔法ではない。エストラーダにこれほどの回復魔法の使い手はいないが、回復魔法でこのような攻撃までできるなんて聞いたことがない。回復はあくまで回復だ。
「あなたはドラゴンを倒せるほど強い。エストラーダ領のために生き、エストラーダ領のために戦うのだろう。あなたはその生き方を変えないし、変えられないはず。だから、私があなたのために生きたい。あなたは自分のことを平気で疎かにする人だから」
血が付いていない方の手も夫は勝手に取って握ってくる。
「私は聖人でも国王でもなく、あなたの正式な夫になりたいんだ」
最初にこの夫は私の側にいたいと言った。今度は正式な夫だ。自ら、私の楔になると言っている。
エストラーダのために戦い、傲慢にも自分のところに帰って来いと言っている。
私は父が守ったエストラーダ領に執着している。でも、夫が執着するのは私なのか。
「今、逃げておいた方がいいぞ?」
「私は……もう逃げない。ここから。あなたの側から」
父は丸焦げになった。兄は呪いを解くために私とエストラーダから逃げた。戻ってきたが、何を企んでいるのか。
床に二人でしゃがみこんだ状態で、私は夫の頬に手を伸ばす。
ロイドが気を配っているのか、つるりとした頬を触って唇を撫でた。
「あなたといると、生きている感触がする」
夫といると、少しだけ死ぬのが怖くなる。
背中を預けて戦える兵士はたくさんいるが、私をイラつかせて、試させて、寄り添ってくれるのはヒヨコの夫だった。
不思議だが、彼の声が聞きたいと思った。死ぬ前でもきっと彼の顔がちらつくのだろう。父もきっと母のことをそう思っていたに違いない。強い、弱いは関係なかった。これが楔なのか。
「あなたは本当に可愛いな」
泣いて喚いて死ぬと言っていた夫は、私がそう言うと唇を尖らせている。
「せめて、カッコいいって言って欲しいんだが」
「私の方が言われるだろうな」
「それはそうだけど……」
尖らせた唇をそっと撫でる。
「……辺境伯はカッコいいかもしれないが、私にとってはとても綺麗な人だ」
「私に綺麗だと言うのはあなたくらいだ」
「……なら、良かった」
夫は恥ずかしそうに笑って私の手を取ると、そっと顔を近付けてくる。
手が少し震えているのを見ながら、目でも閉じようか考えていると扉の外が騒がしい。
気のせいでなければピィピィと甲高い喚き声が聞こえる。夫の恥ずかしそうな様子はかき消え、やや情けない表情になっている。
それを見て思わず笑った。
「ピヨ二世があなたを恋しがっているぞ」
「恋しがるっていうか……なんでかな……」
夫はブツブツ言いながら、立ち上がって扉を開ける。
黄色の小さな塊が彼に体当たりするように入ってきて、足蹴りをくらわせている。後ろに続くのは散々つつかれて手から血を流したライナーだ。
「ライラック! 痛いって!」
夫は怒れる小さなヒヨコに足蹴りを何度もされながら、ライナーの手に回復魔法をかけている。
兄がやってきたことなど忘れてしまいそうな平和な光景を見ながら、私はこれがずっと続けばいいと思った。他愛もない騒がしいこの光景が、ずっと。




