3 オフィール
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「あなたが聖人認定されれば、神殿の力を借りて王位に就けるのでは?」
「私は王位に興味がない」
「でも今王都で貴族たちは揉めているだろう?」
「あぁ、それはそうだ。私がダメなら、今度は王弟かその子供を担ぎ出そうとしている。そろそろ市井から自称隠し子でも見つかるはずだ。ロイドとそのようにウワサを流させた」
ドラゴンまで出たのだから、あちらはエストラーダ辺境伯領にまで私を捕まえには来ない。彼らにそんな余裕はない。貴族たちも揉めているし、私の評判を落としたところでこれまでのように第二王子の評判が上がるわけでもないのだから。
「聖人になって国王になったらいいのではないか。兄上、神殿にはどうやって連絡をとるんだ? まずは連絡してみなければ始まらない」
「呪いについて調べるうちに伝手ができたから、私から連絡が取れる」
「じゃあ、まずは」
「ま、待ってくれ」
怪しい雲行きに口を挟んだ。
一体、何が始まるのだろう。彼女は私に「死ぬまで寄り添え」というようなことを言っていたのに。聖人になった方が私に利用価値があるのか?
「万が一、私が聖人だったとしよう。しかし、今はタイミングがとても悪い。神殿と王家はずっと仲が悪いんだ。そんなところに私が接触したとなれば、また王妃を刺激する」
「第二王子の評判は王都ではよくないのだろう? 王妃が第一王子殿下を気にする余裕はないのでは?」
辺境伯の兄テオドールは静かな声を出す。
辺境伯の声には威圧するような力があるのだが、兄の方は聞いていると不思議と落ち着いてくるような声だ。それに兄の目は辺境伯のように紫ではなかった、灰色だ。
テオドールの大きな片手には手袋が嵌まっていた。彼がドラゴンの討伐で酷い火傷を負ったということを思い出す。
神殿に伝手があると言っていたが、この火傷を治せるはずの高度な回復魔法を受けていないのは、神殿が腐敗しているからだろうか。隠すくらいの傷なら、かなりの金を積まないと神殿は癒してくれないだろう。あるいは、辺境伯のように自分のことそっちのけで呪いについて調べていたのか。
「あちらに余裕はないだろうが、神殿がおかしなことを考えるかもしれない。私を担ぎ上げて王位を狙い、王都で争いが起きては困る」
「第一王子殿下はとても慈悲深い方のようだ。ウワサと違って」
すっとテオドールの目が細められる。辺境伯とは別の意味で怖い人だ。
そして慈悲深いとは嫌味だろうか。私の評判はたいして良くなかったはずだ。
「実は、王都についてはどうでもいい。ただ、雪が降る前にネルソン村の復興は終えておきたい。欲を言えば実りの祭りまでに。そのため王都で争いが起きるのは好ましくないんだ。商人たちが在庫を抱え込んで売らずにさまざまな物の価格が跳ね上がるから。そうすると余分に金がかかる。冬支度のものも買えなくなるし……ある投資が思うほど利益が出なくて予算以上は組みにくいんだ」
辺境伯の悲願であるネルソン村の復興。それをなるべく早く終わらせておきたい。
私の腕を掴んでいる辺境伯の力が一瞬だけ強くなる。暇さえあれば、彼女はネルソン村を見に行っているのだ。力の入れようは聞かなくても分かるというものだ。
さらに、頭の上でライラックがモゾモゾと動いた。きっと義兄となるテオドールにもメンチを切っているのだろう。なんて恐ろしい。
「あなただって、辺境伯の呪いを解くために方々を巡っていたはずだ。それならエストラーダ領に損になることはしないはず。私の使える回復魔法についての解明は今ではない」
「まぁまぁ、兄上。今日は私の無事を見に来てくれたのだろう? じゃあ、まずはもういいじゃないか。兄上が金品を盗んで出て行ったという嘘の話はちゃんと打ち消しておくから、城の兄上の部屋を使うといい」
「いや、宿を取っている。私は一度ここからどんな理由であれ逃げ出した人間だ。金くらい落としていく。それに私が金品を盗んで出て行ったのは本当の話だ」
「そうか。ライナー、兄上が今日の所はお帰りだ」
ライナーはその大きい体からは想像もできないほど俊敏に動くと、なぜか私の前に来て両手を差し出した。
「え?」
「黄色腕白一号をついでに散歩させてきます」
「あ、あぁ」
本当に彼は弁えた男だ。腹立たしいほどに。
彼はこう言いたいのだ。「ヒヨコを口実にしばらく戻ってきませんから」と。
ただ、私のヒヨコは弁えることなどしない。ライラックの辞書に「空気を読む」「弁える」「大人しくする」など存在しない。
変な名前で呼ばれたことが癪に障ったのか、私の頭が存外尻にいいのか分からないが、頭から引きはがそうとすると喚いて抵抗した。
ライナーの両手で上下にすっぽり檻に掴まったようにされる頃には、ライラックが暴れすぎて私の頭は鳥の巣くらい爆発していた。
この一連のヒヨコ騒動をテオドールは最初こそ興味深そうに、そして終わる頃には若干諦めを滲ませた目で見ていた。私もライラックを飼う前だったらこんな目をして見ていただろう。本当にライラックは言うことなど聞かない。
ライナーとテオドール、ライラックが出て行くと辺境伯の部屋は途端に静かになった。主な騒音の元は小さなライラックだったが。
ライナーの素晴らしい気遣いにより急に妻と二人きりにされて、何を話せばいいのか分からなかった。あんなに切望していた瞬間なのに。
彼女は私の腕を解放すると、私がこの部屋に入るために口実として持ってきてずっと掴んでいた書類を流れるように奪って目を通し始める。
腕を解放されると、急にそこだけスースーと冷たくなった気がした。
もしかして腕を掴んでいたのは、兄テオドールの前で何か演技でもしていたのだろうか。仲が良い夫婦の演技とか? え、それならもっと近づいた方が良かっただろうか。打ち合わせも何もなしにそんなことは……。
「あ、あの……」
「ん?」
「へ、ヘンなところはあるだろうか」
「あなたの計算はいつも合っているじゃないか」
「もちろん、何度も確認はしているけれど……」
さっき腕を掴んでいた理由など素直に質問できるわけもなく、そんなことを聞いてしまう。
「大丈夫だろう。あなたがそれほどネルソン村のことを気にかけてくれているとは知らなかった」
「それは、で……で……」
「で?」
「で、できるだけ早く領民たちも帰りたいだろうと思って!」
いくらヒヨコで練習しても、彼女の名前をいざ呼ぼうと思うとできなかった。
たった四文字を口から出すだけなのに、喉がヒリヒリして胃がキリキリしている。本当は「デライラが気にしているから早く終わらせようと思った」とさらりとカッコよく言いたいだけなのに。
そんな私を彼女は片肘をついてじぃっと見つめてきた。
名前も呼べないことがバレただろうか、彼女の直感は鋭そうだ。
「えっと、書類に問題はないか?」
私の自己満足のために名前を呼んで、彼女まで失ったらどうしよう。ライラックもだ。
仲良くなった者や私を庇って良くしてくれた者は皆、王妃が追い払った。唯一残ったのはロイドだけ。
彼女はドラゴンを殺せるほど強いから大丈夫。王妃はここから遠く離れた王都にいる。頭の片隅でそう分かっていても、大切な人の名前を呼ぶのは怖かった。
私は信じていないのだ。
私はずっとここにいて彼女に寄り添うけれども、彼女がずっと私と一緒にいてくれることは信じていない。さっきだって彼女は私を王都に戻そうとした。
私はこれまでどうして、魔の森に向かう彼女を平気で見送れたのだろう。
彼女が死ぬかもしれないのに。
「そういえば、サムエルはどうしてダガーナイフを舐めているんだ?」
沈黙と自分の頭の中で回る考えが怖くて、書類に再び目を落とした彼女に変なことを聞いてしまった。
こんなことを今聞かなくてもいいだろうに。一瞬で後悔が襲ってくるが、唾と一緒に飲み込んだ。




