エピローグ ある日の昼休み
会社近くのタイ料理屋はオフィス街のランチタイムらしく混みあっていた。他のテーブルでの適度な話し声が重なってちょうどよく騒がしい。あまり広くない店内の一番隅にある四人掛けのテーブル、卓上にはそれぞれのスマホとお冷とお手拭き。
私の対面に座った谷田と尾野は絶句していた。
「相談っていうから何かと思えば――」
のろのろと口元を押さえる谷田の動作はあまりにもわざとらしい。そんな彼の横っ腹に肘を入れた尾野は「流星さんって、あの美人でしょ? ストーカー事件のときに紫峰のこと保護してくれてたあんたの副業の上司」と早口で尋ねてきた。
「……そう。その流星さん」
「俺は顔見たことないけど、やっぱ美人なんだ? 大河君に似てる?」
「大君とはあんまり似てないかな。でも、谷田は綺麗な人だって騒ぎ立てると思うね、間違いなく」
「えっ、マジ? 写真ないの?」
晴れて異保管の機構員に正式に採用されても、そっちの仕事が副業なのは変わりなかった。流星さんも大君もそうしているし、どういう仕組みかまだ分かっていないけれど必要があれば強制的に休みが確保されるらしい。
脱線しかけた話は尾野が「で、紫峰はその流星さんに口説かれてるんだ?」と強引に戻した。そんな言い方をした覚えはないが、話の方向性は間違いない。
「口説かれているというか、ううん、その――、直接的に告白されたわけじゃないけど、多分。勘違いとか自意識過剰ではない思うんだけど」
「あんたがそう思ったならそうでしょ。ちょっと話しただけだけど、相手はあんたのことよく分かってるわよ」
「じゃあ、鈍い紫峰が自覚できるように分かりやすくアプローチしてくれてるんだ。本気じゃん」
同期二人の生温かい視線は私への呆れが半分、私の向こうにいる流星さんへの憐みが半分である。なんと言っていいか分からなくて、ちびちびと水を飲んで誤魔化した。
潮木流星。私の目下の悩みだ。いや、悩みというか、頭を勝手に占領しているというか。
私は流星さんを恋愛的な意味で好きなのだろうか――この疑問がずっと頭と心に居座っている。
もちろん人間――彼は夢魔だけど――としては好きだし、尊敬もしている。分かりにくいけれど親切で優しいし、気遣いができる人だ。仕事もできるうえにあの美貌である。世界平和も夢じゃないかもしれない。
こうやっていいところばかりを思い浮かべては、帳尻を合わせるように彼の悪いところを考える。病的なブラコン。割と簡単に手が出る、それも手加減なし。夢魔の誘惑に影響を受けているときが本性だとしたら、普段は見せない加虐的な嗜好も持っていると思う。
……こういうことを考えてる時点で流星さんの手のひらの上な気もする。
「大河君にはなんか言われてないの?」
「……流星さんが自分のこと相談するなら大君はやめとけって」
「ああ。大河君はお兄さんに味方しそうだし、紫峰はそのまま勢いで押し切られそうだもんなあ」
流星さんからの好意を疑う段階はとうに過ぎてしまった。分かりやすい甘い態度も言葉も彼らしくないと思っていたが、まさか私に合わせてくれていたなんて。谷田に言われて初めて気がついた。
「そういうとこまで気が回んだ。いい人っぽくね?」
「悪い人じゃないとは思うけど」
目の前で流星さんが検討されている。恋愛ごとの相談なんていつぶりかも分からないけれど、こんなに居心地が悪くなるものだっただろうか。
「仕事は?」
「海洋生物学の学者」
間髪入れずに返答した尾野に「えっ、なんで知ってるの?」と尋ねれば、当然のように「顔合わせたときに名刺を貰ったもの」と返された。そんなこともあっただろうか。
「学者ぁ? 顔も頭もよくて、大河君みたいな弟がいんの? 超人じゃん」
私と尾野から与えられた情報で流星さんの人物像を創りあげるしかない谷田は腕を組んで首を傾げていた。多才のとんでもないイケメンを想像していそうだが、流星さんはその想像を裏切って上回る人だと思う。
テーブルの上に放置していたスマホの画面が点灯する。こういうときのタイミングはどうして上手く重なるのだろうか、流星さんからの電話だった。
二人にも画面が見えたようで、じっとこちらを窺ってくる視線はなんだか鋭い。流星さんはもちろん、私の査定までも始まりそうだ。逃げるように「電話してくる」と席を立って店を出た。ついさっきまで流星さんの話をしていたせいか、電話に出るだけなのに緊張する。
「はい、紫峰です」
「ごめん、仕事中に。今、会社にいる?」
「いえ、昼休憩で外に出てます」
「ああ、いた」
「え?」
いた、とは――? 疑問の答えはすぐに分かった。
「紫峰」
スマホのスピーカーからの音と往来する人通りからの声とが同時に重なって聞こえる。あたりを見回す必要もなく、彼自ら私の視界へと入ってきた。通話を切ってスマホをしまう動作すら絵になる。
「ど、どうしたんですか?」
「上司に呼び出されて仕事に駆り出されてるとこ」
あの流星さんにも上司に使われることがあるのだな、とちょっとした驚きを覚える。
そんなささやかな感想を吹っ飛ばすように、目の前の美人は「君の会社の近くを通るとは思ってたけど、会えるとは思わなかった」と内緒話をするように囁いた。上手く返事ができなくて、下手くそな笑い声を出すのが精一杯である。
本当にこの人は私をどうしたいんだろうか。
流星さんの視線が不自然に動き、きょとんとした表情になったかと思えば軽く会釈をする。彼の一連の行動にはっとした。店の側面はほとんどガラス張りである。
「同僚を待たせてるみたいだから手短に。急だけど異保管の仕事が入った。仕事が終わったらそのまま大河と合流できる? 詳細は大河に伝えておくから一緒に来て欲しい」
「まさか、ネルちゃんたちに何か――」
「いや。人魚は関係ないよ。別件」
別件という言葉にほっとしたのもつかの間、すぐにこの人はどれだけ働くのだろうかという別の疑念が膨らんだ。
「流星さん、人魚以外も担当なんですね」
「僕っていうか、君をご指名」
「えっ?」
「人魚たちみたいにコミュニケーションエラーで難航してる事象は少なくない。君の体質一つで解決する問題がいくつもある。これから引く手あまただよ」
助けになれるなら助けになりたい。やる気はある。しかしながら、体質が特殊だろうと新米も新米の機構員である。人魚と夢魔しか知らない私にあれもこれもと全うできるだろうか。
「大丈夫」
流星さんは当たり前のように私の陰りを見逃さなかった。
「僕が君に目の届く場所にいろって言ったんだから、一人で行かせるわけないだろ」
「……、はい」
柔らかく下がった目尻、緩く持ち上がった口角、たおやかな笑顔。道行く人が目を向けてしまうのも納得だった。造形がどうこうの前に、人を惹きつける表情である。
眩しい。あまりに眩しくて目が潰れてしまうかと思った。でも、最後に見るのが流星さんの笑顔ならいいのかもしれない。
「休憩中に悪かったね。あとで」
馬鹿な考えを巡らす私を残し、颯爽と去っていく後ろ姿が人混みに紛れるのを見届ける。白昼夢でも見た気分だ、何をしたわけでもないのにどっと疲れた気がする。
のろのろと店の中に戻れば、私が席を外している間に料理が運ばれてきたらしい。ただ、二人は美味しそうなそれらに手をつけることなく私を凝視していた。妙な迫力がある。
「た、ただいま――」
「絶対に付き合った方がいい。あんな傍目に見ても分かるくらい”俺はこの人が大好きですよ”オーラ出してる人いないって。は? 紫峰、あの美の化身みたいな人に言い寄られてんの? なんか全部通り越してイラつくんだけど!」
「……、谷田は顔に説得されたでしょ」
谷田が顔のいい男に弱いというのは自他ともに認めるところだ。なぜかやけ食いのようにご飯を食べ始めた谷田に対し、尾野は私の兄姉を思い出させるような微笑みを浮かべていた。
「あの人、前に会ったときと印象変わった。素敵な人じゃない、紫峰が”好きになったかもしれない人”」
「いや、お兄さんも大概だけど、お前も大概だったかんね」
自分の顔が今にも発火しそうなほど熱い。流星さんのことしか考えていなかったけれど、彼の前に立った自分はどんな顔をしていただろうか――。
冷やかしを投げてくる二人に何も言い返せなかった。




