第72話 罪の清算
一瞬。時の流れなんて感じさせない僅かの間。
流星さんの瞳が色濃い赤に染まっていると認識すると同時に、ガスマスクたちは次々に地面へと沈んでいった。木陰から聞こえるばたばたという音で、ここから見えない位置にも彼らの仲間がいたことが分かる。
まさしく異常な光景だ。
見事なまでの無血の制圧。神々しさすら感じる恐怖。流星さんの能力は私には全く影響がないから余計に別世界の出来事のように見えた。
ガスマスクのうちに何人か女性も混ざっていたのだろう。まばらに人が敷かれた地面の隙間を縫って、蜘蛛の子を散らすように退避していく。追わなければ、とは思わなかった。きっと、この状況が起こっている時点で彼女らに逃げられる場所はどこにもない。
「灯、無事か?」
頭上から降ってきた声に頭を上げれば、肩で息をする大君が心配そうに眉尻を下げていた。
「私は大丈夫だけど、ネルちゃんが――」
「二人とも怖い顔しちゃって、心配症ねェ」
「怪我人は黙ってろ」
平静を思わせるように口では気丈なことを言っていても、顔色や声色は誤魔化せない。まさかの事態を想像せずにはいられなくて恐怖が身体を這い上ってくる。
心配や不安を超えて無表情の大君は雪の結晶をすくい上げるようにネルちゃんをかかえた。こちらに一瞥をくれた心優しい彼の心の声が手に取るように分かって、「私は平気。ネルちゃんを早く安全なところに」とほどんと無意識のうちに申し出ていた。
私の言葉が合図だったように殺気立った背中は足早にこの惨状を後にする。焦点がぶれるように大君の姿は視界から消えていった。
乾いた土埃のにおいと人間の汗のにおい、それから、吐き気を覚えるような深く濃い血のにおい。人魚の存在証明のように残された赤黒い痕跡は、魚の鱗のかたちと人間の手のかたちをしている。
「……」
現実逃避するようにあたりを見渡せば、もはやこの場所は夢魔の独壇場だった。流星さんはそこに立っているだけだというのに。夢魔の誘惑とはどれだけ力の強いものなのだろうか。複数人の男の嬌声つきというのがこちらにもダメージがあるけれど、そんなことにケチをつけるような余裕はない。
流星さんは自分に向けられている敵意がないことを確認すると、ゆっくりとした足取りで私の傍へやってきて恭しく膝をついた。
ぎらぎらと輝く赤い目が私を捕らえる。
「紫峰」
「――、流星さん」
「君はたまに頑固なことがある。シアと一緒に待機って言っただろう」
荒く熱い吐息、涙が浮かんだ瞳は揺れている。
私は思わず首の傷に触れていた。未だにくっきりと歯形が残る傷は治っていない。
「あの――」
「勝手をしたね。君が怪我をしていたら――死んでいたら、どうするつもりだったんだ」
怒っている。それもかなり。でも、こんな状況で説教をされても全然頭に入ってこない。
そんな私の心の声が聞こえたかのように、大きな手は私の頭頂部をがっしりと掴んだ。このまま頭蓋骨が粉砕されてしまうのではと恐ろしくなるほど手加減はない。嫌な予感しかしなかった。
ごきり、と壮大な骨の音と共に首筋をさらすことになり、傷跡を隠していた手が滑り落ちる。私は自分の運命を悟った。
「ひっ――、あ!?」
目の奥に白い火花が散る。痛み、それも激痛。皮膚を破り、肉に食い込む歯の感触。痛い、痛い、痛い。肉が食い千切られ、血管が裂かれることに本能が警鐘を鳴らしている。これは死に繋がる痛みだと。
夢魔の誘惑の力は対象を性的に興奮させるということだったが、流星さんのこれもそれに由来しているのだろうか。にしたって、これほど攻撃的なことがあるだろうか。
発情した男たちに囲まれた中で、同じく発情した男に首を齧られている。
気を失いそうになる痛みに涙が滲んだ。じゅる、と聞こえる音は情事まがいの羞恥を煽るよりも失血死を思わせるものでしかない。このまま死ぬ、と本気で恐怖した。
さ迷わせた視線の先、こちらを呆然と見つめるアロマナちゃんと目が合い、私は流星さんを思いっきり押し退けた。不慮の衝撃だったのか、彼の体は意外にも簡単に離れていく。
そうだ。何を好き勝手やらせていたのか。拒否すればいいのに。
「……やっぱり、付き合ってたんじゃない」
「つ、付き合ってません」
地面とぶつかった流星さんが呻いていたが、知らぬ振りである。見えない、聞こえない。
混沌と化したこの場のすべてかき消すように、ばたばたと慌てた足音が耳に入ってくる。羞恥と憤りのままに振り返れば、肩で息をする大君の姿があった。
首から鮮血を流す私、服についた汚れを叩き落とす流星さん、放心した状態のアロマナちゃん、周囲で発情する男たち。大君は一通りの状況を確認した後に「無事、じゃないな」と苦笑いを浮かべた。
それに真っ先に返答したのは私とアロマナちゃんだった。ネルちゃんはどうした、と尋ねる声が重なる。
「ネルはとりあえずだけど大丈夫。この島まで来た異保管の船まで運んだ。意識はあるし、命に別状はない。怪我のわりに出血が酷いから専門の医者に診せないといけねえけど、応急処置は今やってもらってる」
「よ、よかったぁ……!!」
全身の力が抜ける。まだ抜ける力があったのかと驚いたくらいだ。アロマナちゃんの方からも盛大な安堵のため息が聞こえた。
ということは、もう不安に思うことはないのだ。
ようやくの安心ができた瞬間、私の心に生まれたのは安堵感ではなく罪悪感だった。喉の奥が渇いて、気管が乾燥して、肺がひび割れる。呼吸も発声もできないような苦しさに襲われた。
「……ご、ごめんなさい」
誰に向けた謝罪だったのか。許されたいだけの謝罪だったのか。自分でもよく分からないままに口が動く。
「私がネルちゃんといるところを三鷹さんに目撃されてなかったら、こんなことにはならなかったのに」
三鷹さんは私の体質をブローカーとしての天賦の才なんて称していたが、あながち外れてはいないのかもしれない。私にその気はなかったとしても、彼が誘拐活動をするための助力になってしまったのは事実だ。
三鷹さんは私を使って異保管に入り込み、警備状況や人魚の情報を得た。彼の正体を知らなかったとはいえ許されるのだろうか。
「逆だよ」
流星さんは何でもないようにそう言った。
「君がネルといるところを見たから、三鷹は尻尾を出した。あいつが今までのようにこそこそと誘拐を続けていたら、何の手掛かりもなかったかもしれない」
「え――?」
「欲が出たんだろうね。今まで上手くいっていたから、これからも上手くいくと慢心した。君がいれば人魚を捕らえるのも容易になるだろうし、それ以外の異人も商品にできるかもしれないって」
「……」
「正直を言えば、あの男は最初から怪しかった。組織ごと引きずり出せるとことまで引きずり出してやろうとして、泳がせていた僕の判断が悪かった。結果として紫峰を利用するかたちになって、君には嫌な思いも怖い思いもさせた。ネルにもシアにもね。謝るなら僕の方だ。本当に申し訳ない」
するり、と流星さんの指が私の頬を撫でる。あまりに優しく触れられ、びくりと肩が跳ねた。私が羞恥を覚える前に、流星さんの指はできたばかりの傷に辿り着いた。ぐ、と抉るように押しつけられ、痛みに悲鳴が漏れる。
未だ、流星さんの目は赤に染まっていた。周りのガスマスクたちを制圧するには力を使い続ける必要があるのだろうが、この攻撃的なアプローチはどうにかして欲しい。
止めてくれと願い出ようとして大君に視線を送っても、やれやれと肩を竦められるだけだった。なんだその欧米人みたいな反応は。
「灯、兄貴のことよろしくな」
「はい?」
「アロマナ。ネルがお前のこと連れてきてくれって」
アロマナちゃんは無反応だ。俯いているせいでどんな表情をしているかは見えない。垂れた髪の向こうでどんなことを考えているのだろうか。
大君は返事も待たずに「悪いけど、抱えて連れてくからな」と声をかけると、軽々しく彼女の身体を持ち上げて荷物よろしく肩に担いだ。アロマナちゃんが華奢にしたって、そんな持ち方はないだろうに。
人魚を抱えた大君はすたすたと船の方へと行ってしまう。完全に放置された。
「紫峰、怪我は?」
「え……? え?」
一瞬、なんて返すべきかを迷って、迷った挙句に「大丈夫です」と明らかな嘘をついた。どう見たって怪我はしている。流星さんのせいで。
「流星さんこそ――」
流星さんの唇に滲む赤色。てっきり、私の首から出た血かと思ったが、どうやら彼の唇が切れているらしい。拭った先から新しい血が滲んでいる。
手を下すどころか、足を動かすこともなくこの場を制圧した流星さんが怪我をしただろうタイミングなんて一つしかない。
「す、みません、思いっきり押してしまって。驚いたあまり」
「いいよ。僕が悪いし」
流星さんは目を伏せ、静かに私の名を呼んだ。
「君に異保管の仕事をって声をかけたのは、大我が君に懐いていたからだ。それ以上でもそれ以下でもない」
突然、どうしたのだろうか。
いつもの無表情で怒ってすら見えるような顔であるのに、雰囲気が柔らかいように思えた。
赤い瞳は宙を見ていて、こちらに向くことはない。
「でも、君が来てくれて良かった。紫峰は僕が思っているよりも、ずっとずっと理解のある優しい人間だった」
「……褒めてます?」
「それ以外にどう聞こえるんだよ」
「流星さん、死ぬんですか」
「空気を読まない女だな」
流星さんはむっと口元を歪めた。先ほどまで暴虐的に欲を発散していた姿はどこにもない。彼にもこんな人間味のある一面があるのだな。
唐突もないが褒められるのは素直に嬉しい。
「流星さん。私、知っての通り、最初はお金欲しさに話に乗ったんです。実家に帰るわけにはいかなかったし」
「知ってる」
「でも、大君とネルちゃんの恋を知って、誘拐事件が起こってるって聞いて、流星さんのお手伝いをして――」
大君が刃物女に追われ、私が流星さんに平手打ちをされたあの日から、私の人生は様変わりした。
「力になれたなら、良かったです」
感謝するなら私の方だ。あの日より前に、自分がどうやって生きていたかも思い出せないくらい。それだけ鮮烈な日々だった。
不安や恐怖もいっぱいあったけれど、楽しいことも幸せなこともたくさんあった。
「まるでお別れみたいに話をまとめてるけど、来週からも来てよね。いなくなられたら困る」
「……はい。私でよければ喜んで」
流星さんはゆるゆると力なく笑った。見たことのない笑顔に、こちらもつられて笑ってしまう。
誘惑の力を使っていると精神的に幼くなる副作用でもあるのだろうか。今の流星さんはいつものすまし顔を忘れている。
「紫峰」
流星さんは私の手を取った。それだけならよいのだが、触れ方が問題だった。まるで舞踏会のダンスに誘う王子様のような所作、優しく柔らかく触れられて背筋がぞわぞわとする。
何だか居心地が悪くて手を引っ込めようとすると指を絡められた。そうくるならば、口で言うしかないと弄ばれる手から流星さんの顔に視線を上げれば、彼の顔はすぐそこにあった。
「罪の清算をしよう」
「え――」
鼻と鼻が擦れ合う。
油断していた。夢魔という異人について多少なりとも知識を得たうえで、流星さんがこういった手段に出てくるとは思わなかったのだ。嗜虐的な言動ばかりだったから、それで気が済んでいるのだとばかり。
「これは僕が唇を切った分」
――それはさっき許してくれたはずじゃ。
私の唇を見る彼の目は伏せられ、口角は楽しそうに上がっている。漂う色気。さっきまでの可愛い笑顔を思い出して欲しい。
唇を重ねるというよりは喰らうという表現が正しいと思う。流星さんは押しつけてきた唇の隙間から舌を覗かせたかと思えば、私の下唇を容赦なく噛んだ。反射的に涙がぼろぼろとこぼれる。痛いと叫ぶ私の悲鳴までも喰らった流星さんは満足げに離れていく。
「これは僕の依頼を裏切って大我とネルについた分」
再び近寄ってくる流星さんは、適当な理由をつけてはキスを繰り返す。
抵抗しようにも、片手は指が絡められているし、いつの間にか首の後ろに流星さんの手が当てられていて逃げられない。空いた手で彼の肩を押しやってもピクリともしなかった。
このままでは唇からの失血で死んでしまうかもしれない。きっと真っ青である顔色で、キスの合間に「流星さん、さすがに力を使いすぎなんじゃ」と言葉をねじ込んだ。
流星さんは真っ赤な唇で美しく微笑んでみせた。
「じゃあ、これは僕の力がぽんこつの分」
そんなの私には関係ない。




