第6話 襲来の女神
「昨日は助けてくれてありがと」
「偶然なだけなので、気にしないでください」
「ううん。それと、助けてもらったのに、兄貴がマジでごめん。俺がよく女の人とのごたごたに巻き込まれるから、ああいうときに居合わせた相手に過敏なとこがあって――いや、言い訳は駄目だな。怪我させて悪い。治療費とか俺が払うからちゃんと請求して」
「……病院には行ってないですし、今、こうして飲み物をいただきましたから」
貰った免罪符をこんなに早く使うことになるとは思わなかった。自分の中で清算はしきれてはいないけれど、潮木さんにどうこうしてもらおうとは最初から思っていない。
露骨にむすっとした潮木さんは「病院には行けよ。何かあったら大変だろ」と私の怪我を心配してくれた。言い方はともかく、根はいい子なんだろうなあ。人懐っこいというか。
「分かりました。自分のお金で行っていいなら行きます」
「……なんでそうなんだよ。いや、病院には行って欲しいんだけど」
「まあまあ、ストーカーが捕まってよかったじゃないですか」
「あ、誤魔化した!」
誤魔化したのはその通りだ。でも、彼に安寧が訪れたことをよかったと思っているのも本当である。
私には潮木さんの事情なんて分からないし、ストーカーなんて無縁のものだ。しかし、刃物を持った人に追いかけられるなど恐怖でしかない。その脅威を解決できたのなら、それに越したことはない。喜ばしいことだろう。
潮木さんはじっとこちらを見つめていた目を細め、ふと緊張が切れたように微笑んだ。さっきまで胸中が荒んでいた私もつられて笑ってしまうくらいには平和的な笑顔だった。
後腐れなく、すっきり解散できそうだ――と思いきや、潮木さんの表情は瞬時に曇った。目線を下に逃がし、肩をすくめて、背中を丸める。何、どうした。
「あんた誰?」
「はい――?」
その理由は一瞬の後に判明した。
私たちが座る二人掛けの席の横に立つ人影。飲みものが置かれたテーブルが力強く叩かれる。鈍い音。続けて、からん、とグラスに氷がぶつかって涼やかな音が鳴った。漂う空気はそんな爽やかさとは正反対である。
「だから、あんた誰? 大河クンの何?」
ひょろろと私の喉から壊れた笛のような音が奏でられた。
突然の乱入者は見知らぬ女の子。おそらく十代、少女と呼んで差し支えない。
白に近い金髪は毛先になるにつれて淡いピンクになっている。緩やかに巻かれた髪、左右均等に結われたツインテール。黒に黒に黒とさまざまな黒を重ねたゴシックな服、トランプの柄がちりばめられた白いタイツ、細く高いヒールの赤い靴。
猫のような大きな目は可愛らしいメイクに彩られ、リップは目を引く鮮やかな赤。まるでお人形さんのようである。残念ながら、その表情はまるで般若の仮面……、既視感。
「ええと、すみません。あの、どちら様ですか? 潮木さんのお知り合いの方で――」
「あたしが聞いてるんだけど」
うわ、こわ。既視感の正体はすぐに判明した。昨日の刃物女だ。彼女とはもちろん別人であるけれど、潮木さんへ向ける想いは類似のものだと思う。
見目に反し、どろりと濁った目には引き気味の私が映っている。
「あんた、大河クンの何なの? ブスのくせに恋人だとかいうんじゃないよね?」
「しっ、知り合いです。ただの知り合い」
ちらと潮木さんを横目で見ても、助けは望めそうにない。彼は顔を伏せ、心臓の音を消して、必死に存在感を消していた。この距離感でそれは無理があるんじゃないかな、青年よ。でも、そうしたい気持ちは分かる。回答を間違ったら死――、大袈裟なんかじゃない。
私は深呼吸して心を落ち着けたあと、どうにか声を捻り出して「ええと、お嬢さんは?」と尋ねた。無意識のうちに私の頭に浮かんだ予想が正解だと思うが、答え合わせは必要だ。もし間違っていたら、私はとんだ失礼になってしまう。
「あたしは帆座ゆに。大河クンの未来のお嫁さん」
息を潜めているはずの潮木さんは小さく首を横に振った。瞬間、昨日の潮木さんの台詞が頭の中でリフレインする。
この子も潮木さんのストーカーか……!
本当にストーカーは一人ではなかった。潮木さんの拒絶の態度からして、未来のお嫁さんどころか現在の友人にも辿り着いていないのではないだろうか。
どっどっど、と心臓が寿命を削るように鼓動を打つ。生まれた感情は間違いなく恐怖だった。
「あたしの大河クンにちょっかい出さないでくれる?」
冷たく私を見下した帆座さんは、動かなくなっている潮木さんの首に腕を絡めた。私への興味は失ったらしい。
客観的に無神経なことを言わせてもらえれば、イケメンとお人形さんなので画の迫力は素晴らしい。華がある。物語一つ始まりそう。しかし、それがラブコメではなくクライムサスペンスなのは、潮木さんの口から洩れた情けない悲鳴で判断できた。
「ねえ、大河クン。これからゆにと一緒にデートしよ」
甘い誘惑の言葉は、私の耳にも優しい毒に聞こえる。行く先が地獄だとしても囚われたくなる魔性。
わずかに顔を持ち上げた潮木さんは、縋るような視線を私に寄越した。あまりの悲壮感に憐れむほかない。この子、本当に大変だな。
私に彼を助ける義理も義務もないが、さすがにここで見過ごしては非情である。
「すみません。私たち、用事があるんです」
「はあ?」
大きな目に睨みつけられ、私の口からは首が締められた蛙ような声が飛び出した。蛙の首がどの辺かはよく分からないが、きっとこんな感じの声を出すだろう。いいや、ビビっている場合ではない。負けてはならない。
昨日の刃物女と比べればこの子は可愛いものだ。凶器もないし、会話もできている。
「先日、潮木さんが不審者に襲われる事件に遭ったのはご存じですか?」
「そうなの!? 大河クン怪我は!?」
「ありませんよ」
「あんたは黙ってて!」
「……私も事件に巻き込まれたので、何があったか知ってます。事情聴取で警察署に行かないといけないので」
今日の予定としては嘘だが、私の次の土曜の予定としては真実だ。潮木さんの追加の事情聴取がいつだかは知らない。
帆座さんは潮木さんを見て、私を見てを繰り返し、最後にはうんともすんとも言わない潮木さんに視線を定めた。まるでライオンとシマウマ。捕食者と被食者。
うすら寒いしんとした空気、突き刺さる周囲からの視線、こそこそと聞こえてくる内緒話に慌て始めている店員さんたち。ちょっとの猶予も許されない気がした。そんな雰囲気を察したのか、潮木さんはゆっくりと一度だけ頷く。肯定の意。
「……ゆにが一緒にいてあげなかったからだね。ごめん、大河クン。これで許して」
帆座さんはぱっと絡ませていた腕を外すと、ちゅっとリップ音を立てて頬に唇を寄せた。急展開に、最近の若い子はすごいという大雑把な感想がはじき出される。
潮木さんはぴくりともしない。気配を消しているというよりも、死んだふりに近い状態である。野生の獣か。
「気をつけて。困ったことがあったら、いつでもゆにに連絡してね」
もはや私は彼女の視界どころか、世界に存在していないらしい。帆座さんはこちらには一瞥もくれずに背中を向けた。
ふわりとしたスカートを揺らしながら、去っていく後ろ姿はやっぱりお人形さんみたいだった。こんな出会い方じゃなかったら、細かいところまで可愛くしてて凄いなあと三度見してる。やっぱり昨日の人とはちょっと違って理性的……、だと思う。いや、あの人と比較すること自体が失礼なことか?
なんにせよ、見せ物は終わりだ。周囲のお客さんは帆座さんの退出とともに、気まずそうにこの席から視線を外した。これは長居はできそうにない。
「……あり、がと」
か細い感謝の声。演じた瀕死から復活した潮木さんは、ようやく顔を上げる。鞄から除菌シートを出して、のろのろと頬を拭う様は手慣れていて、この状況が初めてでないのはお察しだった。