第67話 代償の贄
膠着しそうになる空気を壊したのは素っ気ない電子音。私のスマホの着信音だ。なんでこんなタイミングで、と私が思うよりも早く、三鷹さんは白衣のポケットからそれを引き抜いた。点灯する画面を見て、容赦なく着信を切断する。
「紫峰さん、しばらく待っていて下さいね」
もはや何者かも分からなくなってしまった元同僚は、そう言うやいなや、私の首に下げられていたボールペン――異保管特性の防犯ブザーを取り上げて立ち上がった。
まずい。あれはスマホよりも頼りになる、私に残された最後の抵抗手段なのに。
「三鷹さん! 待ってください! なんでこんなこと――」
私が抗議の声を上げても、当然に届くことはなかった。どれだけ騒いだって、三鷹さんには微塵も聞こえていないようである。
一度も振り返らない背中が緑の中に消えていく。
ここは雑木林の中のようで、数多の木々に隔たれて遠くの景色を見ることが叶わない。ただ、潮の匂いがするので海は近いはずだ。
ごろりと体を転げれば、ぎゅっと唇を噛んで押し黙ったアロマナちゃんがじとりとした目でこちらを見ていた。紫水晶の瞳は陰っていて、この状況が不本意であることが嫌でも伝わってくる。
今でこそ私と同じように転がっているから頼ってみようという気にはなったけれど、そうでなければただただ軽蔑していたと思う。手放しで信用はできなかった。
「アロマナちゃん、ここ、どこだか分かります?」
「……無人島よ」
「無人島? あの異保管が管理している?」
「馬鹿なの? 人魚を誘拐している連中が異保管のお膝元で活動する訳ないじゃない」
言葉はきついけれど、彼女が言っていることは正論だ。ごもっとも。
じゃあ、ここは別の無人島、誘拐犯グループの根城ということか。場所の意味は分かっても位置が分からないんじゃどうしようもない。
さすがに巡回の帰りが遅いことに、流星さんは気づいてくれるはず。私の場所を特定できる何か――、思いつくのはスマホと防犯ブザーだけれど、どちらも取られてしまった。
「状況、整理したいんですけど」
「……君、本当に図太いのね」
呆れられるのは心外だが、無視されずに応答してくれるだけマシと思おう。それに実際に異保管の手伝いをする前より図太くなった自覚はある。
「助かるにはどうしたらいいですか? 助けを呼ぶとか――」
「助けを呼ぶことこそ、あいつらの思うつぼ」
「え?」
助けを求めるための道具をこぞって奪われたのに、どうしてそうなるのだろう。ただただ疑わしい視線を向ければ、舌打ちした彼女は「あいつら、ネルを狙っているのよ」と忌々しそうに吐き捨てた。
脳裏に浮かぶのはネルちゃんとシア君の姿。肌に浮かぶ痣、剥がれた鱗、光を失った瞳。恐れ、怯え、傷ついた人魚たち。
体の芯から凍えるようにぞっとする。自分の身に危険が迫っていること以上に彼らが害されることが恐ろしかった。
「た、助けないと――」
「この状況で何言ってるの? 助けてもらうのは私たちの方じゃない」
「それは――」
そもそも何で私がここに――?
ふと浮かんだ疑念に私はよっぽど険しい表情を浮かべていたのだろう。さらに呆れたように眉間に皺を寄せたアロマナちゃんが「いまさら」とぽつり呟いた。
「……私と君はネルを呼び寄せる餌なの。あの男が入り江に痕跡も置いてきた。あの子が大人しく待っていられるわけがないわ」
ネルちゃんをおびき寄せる餌……。
さすがに私にでもどんな状況か分かる。というか、悪党のくせにいい手際だと感心すら覚える。
どんな工作をしてきたのか分からないけれど、入り江を訪れた人の視点にしてみれば、私と三鷹さん、アロマナちゃんが攫われたように見えるのだろう。いや、私は実際に攫われているが。
居場所を確認するのに防犯ブザーとスマホを確認すれば、どこか分からない無人島に反応がある。
きっと助けに来てくれるはずだ。となれば、移動手段が必要。けれど、関係者の内で一人、移動手段を準備する必要がない者がいる――、ネルちゃんだ。流星さんも大君も制止をかけるだろうが、ネルちゃんの性格上、一人で飛び込んできてもおかしくない。アロマナちゃんのお墨つきだし。
「――アロマナちゃん、なんで人間に人魚を差し出すような真似を」
「ネルを守るためよ」
どうしてか、昨日、海中展望室で見た残酷な光景を思い出した。
ぼろぼろと涙を零し、うめき声をあげていたシア君。こけた頬、疲れた瞳、手首に残された痕。家にも帰れずに本能で嫌悪する人間の元へと逃げてきたまだ年幼い人魚。
アロマナちゃんは知っていたはずだ。誘拐された人魚がどうなるのか。
「ネルちゃんの代わりにってこと?」
ネルちゃんが無事なら、シア君が、他の人魚たちがあんな酷い扱いを受けてもいいの?
「アロマナちゃん……っ!」
否定の言葉は返ってこない。
三鷹さんに翻弄されて上手く働かない思考でも、アロマナちゃんの選択が正しくないことは断言できる。
昨日、腕の中で泣いていたシア君だけじゃない。今まで、誘拐されてきた子供たちも、彼のように身も心も傷を負ってきた。
怒りがじわじわと心を侵食していく。あの少年が、どんな気持ちで、何の罪もないのに、もしかしたら死んでしまっていたかもしれないのに――。
「なんでそんなことを! 異保管で保護できているからって、その間にどんなことされてるかも分からないのに!」
「っ、ネルがどうなってもいいっていうの!?」
「そうじゃないよ!! なんで相談しなかったの!? 流星さんでも、大君でも、助けを求めてくれれば――」
「ネルは私が守るの!! 他の奴らなんか、全然頼りにならないのに!!」
お互いにお互いの声をかき消すように声量が大きくなっていく。びりびりと空気を震えさせる怒声。
「強欲で意地汚い人間のくせに!! 分かった口をききやがって!! 大河なんて、ネルはあんな出来損ないの夢魔の何がいいのよ!! 引っ込んでればいいのに!!」
感情のままに振り上げられる尾ひれに、ばしん、ばしん、と何度も顔を叩かれる。衝撃はあれど、昂っているせいか痛くはなかった。
彼女がどれだけ悲痛と悲哀の叫びを上げようと、受け入れることも同情もできない。ネルちゃんを守るためなら何をしてもいいなんて、そんなわけは絶対にない。
「あんただって何もできないただの人間じゃない!」
確かに、私はただの人間で何の力もない。
「まさか。紫峰さんのどこがただの人間なの?」
突然に降ってきた声、顔にかかる影。
弾かれるように顔をあげれば、素直に驚いた表情の三鷹さんが立っていた。「こんなに恵まれた才能を持った人間、どこにもいないじゃないか」と薄ら笑う彼は慈しむ天使のようだった。




