第63話 深夜の海中展望室
何をどう聞いたものだろうか。何でもかんでも聞き出せばいいということではない。
ただ、一つ、考えるよりも先に浮かんでしまった疑問がある。シア君の安否を確認する意味で「でも、どうして研究所に? 家には?」と口走っていた。
一度、家に帰っているのなら、ネルちゃんが一緒にいないとおかしい。下手に動き回るよりもここに逃げてきてくれて正解なのだが、どうしてその選択をしたのだろうか。
「…………ネルくんに言われてたから。何かあったらお姉ちゃんのところにって」
そう言って、シア君は分かりやすく目を逸らした。
居心地悪そうに手のひらを擦り合わせている彼の手首には白い包帯が絡まっている。さっきは動揺しすぎていて気がつかなかった。その隙間から見える肌の色にぎょっとする。痛々しい青紫色の跡。まじまじと見れば、痣の近くには細かい擦り傷と切り傷があった。
――拘束され、抵抗し、傷ついた痕跡。
「……、帰ってきてくれて本当によかった」
喜ばしくもないが、恐怖という感情はここ最近の私には身近なものだ。自分の心身が苛まれる嫌な感覚。慣れていいものではないし、繰り返し経験したいものでもない。
シア君の身に起こったことはそれでも足りないほど、想像を絶していると思う。
じわじわと視界が歪む。私が泣いたところで何にもならないのに、涙はちっとも止まらなかった。
私が言葉に詰まっていると、緩く間延びした声が「お姉ちゃん」と小さく呟いた。眠たそうに瞼を落とし始めたシア君はのろのろと瞬きをしている。
「シア君? 大丈夫?」
「う、ん」
今の今まで気を張っていたのだろう。緊張の糸がほどけたように体の力も抜いた彼は、くたりと私に寄りかかるとすやすやと寝息を立て始めた。白い顔色は改めてみても不健康で、目元を黒々とした隈が縁取っている。
端から事情聴取なんて無理だったのだ。
起こすなんて選択肢は当然なくて、壁の花に「流星さん。どうしましょう」と指示を仰いだ。できるだけ早くシア君を休ませてあげたかった。
じっとこちらを見ていた流星さんは「水槽を用意するよ」と背を浮かせた。最初からこうなると分かっていたかのような気軽さだ。
「それまで抱えておいてくれる? 網は張ってるけど、落ちたら拾い上げるの大変だから」
「抱えてるのはいいんですが……、あの、お家に帰してあげなくていいんですか? ネルちゃんもご両親も心配してるのに」
「帰さないんじゃなくて帰せない」
てきぱきと壁の装置を動かしながら、返ってくる言葉は鋭く早い。そんな彼の言葉尻はごうんごうんという機械音とじゃばじゃばと激しい水音に喰われた。ずっと空っぽのままになっていた分厚いアクリルガラスの水槽の中に海水が溜まっていく。
水槽からこちらに振り返った流星さんの表情は硬い。
「ネルに言われたからって、馬鹿正直にここへ逃げ込んでくると思う?」
「……いいえ」
人魚がそういう生き物じゃないってことは、私だってもう知っている。
「海底に戻らないことには理由がある。自分の家よりもここが安全だと分かってる」
「……」
「人魚側に不届き者がいるんだ、その子が家に帰ったところで次の日にはまた行方不明だよ――、いや、それで済んだらマシか」
胃の底がせり上がるような不快感。内臓をすべてぶちまけてしまいたくなる吐き気。
誘拐された人魚がみんな無事に帰ってきているならとりあえずは安心、と深く考えもせずに思っていた過去の自分はとんでもない愚かだった。こんな状態になって何が無事なのか。ついさっき、シア君に無事と言い放った自分がどうかしているとしか思えない。
同胞がこんな状態になってよいと思う誰かがいるなんて――。
「面倒ばかりで申し訳ないけど、今日は研究室に泊ってもらえない? 明日の朝、シアが起き次第、事情聴取の続きをして欲しいんだ。君がいないとまた騒ぎ出すだろうし」
「……シア君の精神面とかは大丈夫なんですか? 私、メンタルケアとかそういうのまったく分かりません」
絶対に正常な状態じゃないと断言できる。そんなシア君を相手に話すこと自体はやぶさかではないが、専門知識を持たない私が話すことで何か悪い方向に傾いてしまう可能性はゼロではない。嫌な記憶を呼び戻してしまったり、情緒を狂わせてしまったり。
「医者には診せてる。大変だったよ、泣くわ喚くわ叫ぶわで。腕の怪我もちゃんと治療してもらったんだけどね。見ての通り、すぐに外しちゃって」
確かに、シア君の腕は痛々しいことになっている。解けた包帯を巻きなおした。元通りとはいかなくても、今の状態よりはマシだろう。
「シアからの要望は一つ、君と会わせろってことだけ。だから、まずは君と会わせて経過を見ることになった」
水かさを増していく水槽の前からこちらへと歩いてくる流星さんはさもないように「ネルに知らせるのも、改めて医者に診せるのも、僕らが先に話を聞いてから。ことの次第によってはネルへの報告も控える」と衝撃的なことをのたまった。
「えっ」
ネルちゃんに情報を下さない? どうして?
私の顔が相当驚きに満ち溢れていたのだろう。流星さんは首を横に振って「ネルのことは疑ってない。ただ、ネルは隠しごとが下手だからね」と丁寧に説明を加えた。
そういうことなら納得はできるけれど、ネルちゃんの心労を考えるとできるだけ早く教えられたらいいなと思う。シア君だって家族の元に帰りたいだろうし、早く日常に戻れる日が来るといい。
「シアをこっちに」
私の腕からくったりしたシア君の体を受け取った流星さんは、長い尾にも手こずることなく抱えて水槽の方へと歩いていく。その場で待っているだけではいられなくて、慌てて背中を追った。
丁寧に丁寧に水槽の中へと下ろされ、ゆらりゆらりと底に沈んでいく人魚。意識はなくとも、身体はそうするのが自然だとばかりに丸くなって収まった。
「僕らも休もう。ここで生活してたとき使ってた奥の部屋を――」
「ここで寝ます」
私が心細いときに流星さんと大君、ネルちゃんが寄り添ってくれたように、私もそうしたかった。それがどれだけ安心できるか、私が一番よく知っている。
「……、献身的だな、本当に」
呆れたように嘆息した流星さんはさっさと展望室から出て行った。献身的というなら、私じゃなくて流星さんだろうに。大君のことでは暴走しているけれど、それとバランスをとるように温厚で冷静な人だ。
水族館の展示のような水槽の中、水中でしか現れないエラを動かして呼吸をするシア君の寝顔は健やかとは言えない。ただ、体に緊張した様子はなく、深い眠りについているようだ。
怖かっただろうな、と人並みな言葉が浮かんでは消えを繰り返す。
眠気はこれっぽっちもやってこず、ぼんやりと水槽を眺めていれば、ぎぎぎと苦しそうな蝶番の音とともに扉が開いた。
寝袋二つと薄手の毛布を手にした流星さんに、やっぱりこの人の方がよっぽど親切で心配りのできる人だなあと思った。




