第60話 恋には落ちるもの
大君が続きを口にする前にこんこんと部屋の扉がノックされ、返事をする前に押し開けられた。
しゃんと伸びた背筋、凛然とした立ち姿。来訪者は流星さんだった。
普段なら返事を待ってくれてもいいのでは、と文句を言っているところだが、今はただ無事な姿にほっとする。入室の一歩を踏み込まない彼は「話は終わった?」といつも通りな様子で小首を傾げた。
「ああ、終わった」
「紫峰。少しいい?」
「俺、外す。灯、あとでな」
大君は私の肩を叩き、流星さんと入れ替わりで外に出て行く。
流星さんは大君が座っていたベッドではなく、机に備えつけられた椅子に座り、長い足を組み上げた。思案顔でいたのは一瞬、すぐに私の首に貼られた絆創膏を見つけてばつが悪そうに顔を歪める。
「怪我の具合は? 大丈夫?」
「はい、血は止まりました」
「悪い。痛いだろ」
それはもちろん、痛い。
自分がどれだけの力で噛みついたのか覚えているのだろう。あの強気で皮肉屋な彼とは思えないほど殊勝な態度だ。
何を言っても嫌味に聞こえてしまう気がして曖昧に笑って流すと、流星さんは「ごめん」と顔を顰めた。私よりも、流星さんの方が深手を負っているのではと思いたくなるほど辛そうな顔をしている。
何もない宙を見つめていた目線がおもむろにこちらを向く。柔らかな瞳の輝き。しっかりと頭を下げられて、飛び上がるほど驚いた。
よく考えれば失礼でしかない反応なのだけれど、驚いた理由について言い訳をさせてもらえるなら、彼が謝るという行為をするはずがないと思っていたわけではなく、謝られる理由が一つも思い当たらなかったからだ。
「……それから、ありがとう。紫峰のおかげで、ネルも大河も無事だった」
「や、やめてください! 私も助けられた側ですから! 来てくれて、ありがとうございました」
私にできたことは防犯ブザーを鳴らせたことだけ。
助けてくれたのはすぐさま駆けつけて機構員の皆さんで、もっと言えば、防犯ブザーを流星さんが私に手配してくれていていたおかげだ。
こちらこそ、と深々と頭を下げて謝辞を述べれば、流星さんは「僕は君に怪我させたから」と素直に受け取らなかった。
これくらいの怪我で済んだなら、むしろ万々歳だと思うのだが、彼の感覚では許されるものではないのだろうか。だって、あの瞬間、私は自分の死だけでなくネルちゃんと大君の最悪まで予感してしまった。思い返すだけでぞわぞわと寒気がする。
「……それ、どこまで聞いたの」
彼の長い指がぴっと差した先にあるのは”よいこのいじんじてん”。夢魔のページが開かれている。
「お二人とも訳ありの夢魔だってことは聞きました。夢魔の能力が使い物にならないって」
「……、言い訳にしか聞こえないだろうけど、騙そうとしてたわけじゃない。君が正式な機構員になって見習いの肩書きが消えたら話すつもりだった」
「騙されたなんて思ってません」
力の有用性はさておき、流星さんと大君が私相手に夢魔の力を使っていなかったことは私が一番よく分かっている。魅惑に囚われていたら、大君の敷居の低い恋愛観に苦言を呈することなんてしていない。
流星さんは緩やかに瞬きをしてから、穏やかな口調で「僕は使わなければいいだけだからどうとでもなるけど、大河はそうはいかない。君さえよければ、これからもあの子と仲良くしてやって」と微笑んだ。流星さんは弟の話をしているときが一番綺麗だと思う。
「もちろんです」
そして、ついさっき心に生まれた疑問に立ち返る。
「なんで、私には大君の力の影響がないんでしょう」
そのおかげで大君と友達になれたのだから、影響がなくていいのだけれど、どうしてという疑問はまだ晴れていない。
人間として何か欠けている可能性が否定しきれすず、啓示を持つように黙って回答に備える。
「能力は体質に作用される、万人が同様の力量を持つわけじゃない。夢魔として大河の力が強力だったり、僕の力が無意味であるように、効きやすい人間もいれば、効きにくい人間もいる」
「私が効きにくい体質ってことですか?」
「効きにくい、なんてものじゃないよ。効かない、だ」
きっぱりとした断言だった。憶測ではない。
自分のことなのに他人事みたいだと思った。効く、効かないなんてそんなものなのだろうか。意外と探してみたらいるのだろうか。
疑問が疑問を呼んだけれど、それにかまける時間はもらえなかった。
「――紫峰。僕たちが夢魔だと知った君に相談だ」
ひりりとした緊張感。変わった声色。
流星さんは変わらずに私の目を見据えている。空気こそ引き締められたものの、表情は慈愛にみちていたから、誰の話をされるのかはすぐに分かった。長く静かに息を吐き出して、もったいぶるように唇を動かす。
「大河とネルの恋をどうにかして欲しい」
聞き飽きた台詞だった。
「大河はネルだけを愛することができない」
「なんで、そんなことを言うんですか」
確かに、大君は恋多き男かもしれない。それでも、彼はネルちゃんだけを愛そうという努力をしようとしている。その覚悟が決まったから告白をしたのだと思う。
彼らのことを、当事者以外がどうこう言う必要はないのではいか。
私の考えが分かっているかのように流星さんは首を横に振った。否定、拒絶。
「夢魔の特性だよ。夢魔は人間の精気を欲する生き物だ。特に大河は力が強いから、人間と強く惹かれ合う。夢魔の力が強いってことは、それだけ精気を欲することでもある」
天と地が反転する。視界が揺れる。
私はただ大君の貞操観念が甘いだけだと、そう考えていたが、そんな単純な問題ではなかった。
逃げるように視線を落とした先には開きっぱなしの絵本。彼は種族の本能で浮気せざるを得ない。生きるのに必要なことだから。呼吸と同じように、人間の精気を求める。
「大河はネルだけを愛せないし、ネルは人間を欲する大河を認めなきゃならない。それでも、大河はネルだけを愛したい矛盾を抱えているし、ネルだって自分だけを愛して欲しいだろう」
「……」
「そうやって矛盾と葛藤を抱えた恋愛は二人にとって幸せなこと? 大河は人間と恋する方が上手くいくと思わない? だから、僕はあの二人の恋は応援できない」
夢魔の生態とは難儀なものだ。
私には大君の心を想像するしかできない。それでも、好きな人以外に本能で心が奪われることは辛いことに思えた。特に大君は恋に夢見るロマンチストだし。
夢魔には仕方がないことなのかもしれないが、本当に好きな人ができたとき、割り切れるかどうかは別問題だろう。それを受け止める相手側がどう思うかも分からない。
「……」
大君とネルちゃんがお互いに惹かれ合っているのは、傍で見ている私にはよく分かる。分かるからこそこの現実が残酷だった。
流星さんの気持ちだって分かる。
夢魔と人魚では純愛だろうと茨の道。未来に訪れるかもしれないあれこれを思うなら、引き返せるうちに手を打っておくのが賢いだろう。
でも、それは理想論でしかない――。
「私……、大君もネルちゃんも大好きなんです」
「……」
「私はあの二人を応援したい。どれだけ互いが想い合っているか、流星さんだって知ってるじゃないですか。もう、今更、引き返せないですよ」
二人に幸せになって欲しい。
「例え二人が別れることになっても、決めるのは二人だと思います。だから、私の答えはノーです。流星さんには協力できません」
大君とネルちゃんはようやく祝福の道を歩き始めたのだ。その先に待っていたのが破局だとしても、私はあの二人に寄り添い続ける。
二人を応援するっていうことは、流星さんの依頼を断るっていうことは、そういうことだ。私ごときが騒いでも何にもならないかも知れないけれど、彼らの選択を応援し続けることはできる。




