第5話 非日常の待ち伏せ
仕事帰りの私は、ぶらぶらと当てもなくふらつくことはせず、真っすぐに家に帰ることが多い。節制。稼いだお金を自由に使えない理由がある。
とはいえ、生活に困窮するほど切り詰めてはいない。ご飯を食べるのもお酒も大好きだし、仕事終わりの一杯は何よりも幸せなのだが、いかんせん、一緒に飲みに行ってくれる人がいなかった。
数少ない友人の職場は遠いし、お手軽に誘える同期は二人とも既婚者。尾野はしばらくしたら産休に入ってしまうし、谷田は今月入籍したばかりの新婚さん。わがままを言って誘おうとは思えない。
今日も今日とて直帰。まあ、この腫れた顔でどこに行くのだという話だ。
私の職場は最寄り駅から徒歩三分のオフィスビルにある。職場から改札まで、迷うこともできない簡単な道のり。普段は何も目に留まるもののない短い道であるが、今日は違った。
「灯」
日常から浮いた光景。
爽やかな赤茶の短髪、つり目がちのくっきりした目元、鼻筋の通った横顔、緩く弧を描く唇。すれ違う人々からもれなく一瞥を受ける美しい青年の顔は忘れもしない。見覚えがありすぎる。頬を叩かれた瞬間の痛みが鮮明に蘇って、口元が苦々しく歪んだ。マスクをしていてよかったかもしれない。
「……潮木さん」
「よかった、会えて」
私の脳はあの暴君を敵と判定したらしい。頭の中で響く警鐘に促されるまま、きょろきょろと周囲を警戒したけれどお兄さんの姿は見つからなかった。よかった。よくなかったのは、そちらに気を取られている隙に、改札近くの壁を背に立っていた彼が私の目前にまで歩み寄ってきていたこと。長い足で羨ましいことだ。
……なんでこの人がここに。事情聴取の続きでもあったのだろうか。でも、それならここじゃなくて警察署では。現場検証的なことか? にしたって、あんな酷いことがあった翌日に――他人のことを言えた義理ではないけれど。
「灯、頬っぺた大丈夫か?」
昨日は流したけれど、聞き間違えではなかった。この人、私のこと呼び捨てか。しかも、下の名前で。
無理にでも粗探ししている自分の矮小さを自覚し、自己嫌悪に陥る。負のスパイラル。潮木さんに非はない。頭では分かっているけれど、このもやもやとした感情は消えてはくれなかった。
無視して先を行くわけにもいかず、立ちはだかる潮木さんを見上げる。やはり迫力の美丈夫。困ったように眉を寄せる姿を見たら、手助けをしてあげなければと思ってしまう人がたくさんいそうだ。ルッキズムはびこるこの世では無敵だろうなあ――、また嫌な奴に成り下がってしまった。すぐに偏った考えをしてしまう自分が嫌になる。昨日、容姿と性格は直結していないと改めたばかりだというのに。
「結構、腫れたんだな」
何を思ったのか、彼は骨ばった指をおそるおそると伸ばしてきた。は、嘘、触る気じゃないだろうな、この人。反射的に私は二歩、その場から後ずさった。が、長い腕の前には私の足で稼いだ二歩は意味がなかったようだ。
ぴ、と彼の指先が湿布の上に触れる。瞬間、びりり、と電気が走るような痛みがした。
「いっ――」
「……やっぱり、大丈夫だ」
「いや、大丈夫じゃないですから」
「あ、悪い。そういう意味じゃなくて」
すぐに手を引っ込めた潮木さんは慌てたように言葉を濁した。私はもう二歩分の距離を作って、彼に非難の視線を向ける。じゃあ、どういう意味なんだ。その答えは返ってこないどころか、潮木さんは「あのさ、昨日のことのお礼もしたいし、晩飯食べに行かね?」とどんな理路でそうなったのかという謎の誘いを寄越した。
「え、いや、ちょっと無理です」
絶対に行きたくない。
知らない人間とご飯を食べに行って、場を盛り上げるコミュニケーションスキルを私は持ち合わせていない。人類みな友達の精神でもない。行ったところで気まずい空気の中、早く終われと願い続けるだけだ。
「本当に? 駄目?」
甘えるように顔を覗き込んでくる潮木さんに思わずのけ反ってしまう。目は星を砕き入れているかのようにきらきらだし、ふわりとホワイトムスクのいい匂いがした。
お願いの仕方が手慣れている。この手法、きっと成功率がいいんだろうな。分かる。昨日、暴君と出会っていなかったら、行きたくないことを大前提にしても、いいですよ行きましょうよと返事していたと思う。
まあ、そのお願いは聞いてあげられないけれど。
「申し訳ないけど、――」
「じゃあ、行こうぜ」
断る言葉は食われ、手首を掴まれる。ぐっと握られた拘束を剥がそうにも、潮木さんはすでに歩き始めていて私は不格好にずるずると引きずられた。少ない数の静かな足音を、雑に乱れた忙しい足音で追う。歩幅の違いが露骨すぎて苦笑いも浮かばない。
「ちょっと、潮木さん!?」
「何食べたい?」
何も食べたくない。家に、安息の地に帰りたい。
そんな心の声は音にならなかった。しようと思ったのだが、この強引さの前にはあってないような抵抗にしかならないと直感したから。そして、私の頭はこの被害を最小限に留める案を弾き出した。
私は掴まれた腕を自分の方に引きながら、「お茶! お茶なら付き合います!」と声を張った。
ぴた、と潮木さんの足が止まり、私はその背中にぶつからないように避ける。ふらふらとしたが、手首を捕える拘束が支えになって転ぶことはなかった。
「ん、お茶な」
白い歯を見せて笑う潮木さんに首肯で返せば、彼の手はすんなりと離れていった。このタイミングで離すということは、私が帰りたがっていたことは察していたようである。
やられたと思った。騙された。いや、私が勝手に騙された。
文句の一つでも言ってやりたいが、自分が代案を申し出たという現実にずっしりと心が重くなる。このパターンで自分の首を絞めるのは初めてではない。負け癖みたいなもので、反論する前に諦めがやってくる。事態をできるだけいい方向に収束させようとして失敗するのだ。
「こっち。ほら、灯。早く」
「……」
素直に潮木さんの背中を追った。追ったとはいっても、駅近くはコーヒーショップの群生地。一番近いチェーン店に入るまでほんの数分のこと。
自分が払うと言って聞かない潮木さんにアイスコーヒーをお願いし、私は数少ない空席を陣取る。ここで彼に奢られておけば、お礼はしてもらったと主張することができる。今後、何を言われても免罪符として使えるはずだ。前向きにとらえて、素直に甘えておこう。
目の間に置かれたグラスに「ありがとうございます」と頭を下げれば、爽やかな笑みとともに「いや。むしろコーヒーだけで悪いな」と返された。
そんなことはない。待ち伏せしてまで直接お礼をしようという精神は突拍子もないし、こちらの言い分を聞かずにご飯に連れていく無神経さも理解できないが、誠意だけは伝わってくる。