第54話 研究所暮らし
警察に所属する異保管機構員からの事情聴取のあと、私は流星さんに付き添ってもらって自宅に荷物を取りに帰った。そして、向かうは美湊海洋生物研究所。何から何まで申し訳ない気持ちだったが、そのたびに流星さんが励ましの言葉をかけてくれて、さらに申し訳ない気持ちになる。あまり卑屈になっているのもウザがられそうで、素直に甘えることにした。
感謝は働いて返す。採取も計測も掃除もなんでもする。それ以上のことをしてもらっている。
「そっちの階段から二階に上がれるから」
流星さんはぴっと休憩スペースの奥を指さした。そっちと言われた先にあるのは壁。ふらふらと示された方に進んでいけば、壁だと思っていた一部は引き戸だったらしい。開けた扉の先には螺旋階段が隠れていた。
「……こんなところに階段があったんですか」
「二階は仕事に関係ないからね。ネームプレートがない部屋が空き部屋だから。荷ほどきしておいで」
「はい」
研究室の高い天井分の階段を上へ上へと上っていく。辿り着いたそこはまるでホテルの廊下だった。扉は全部で三つ。うち二つには潮木兄弟の名前が掲げられている。
一番奥、誰のものでもない最後の部屋に入れば、大きな窓から美湊の美しい景色が見えた。昼の高い位置にある燦々とした太陽に、どこまでも続く真っ青の大海原。これがただの宿泊だったら大はしゃぎしているところだ。
家具はベッドと机とテレビと収納。他の建物にある施設と一階の設備を踏まえれば、生活するのに不自由はない。おそらくは仮眠とかに使っているのだろうけれど、これは中長期の生活も想定している気がする。
……研究所生活、か。
未だに自分の置かれている状況が信じられないが、一人きりになるといろいろと考えてしまう。私なんかに固執しても楽しいことなんてないのに。一体、どこの誰がそんなもの好きな行動をしているのだろうか。
なんで、なにが、どうなって――、何も考えないように努力するほど余計に気が散った。荷ほどきの手を止めては、重苦しい溜息を吐き出すことを繰り返してしまう。
ネルちゃんに何かあったらどうしよう。大君がまた刃物を持ったストーカーに追いかけられることになったら。ああ、ああ、ああ。流星さんはうまいことやってくれるかもしれない、でも、迷惑をかけていることには違いない。三鷹さんは? 私のせいで異保管に関わることになってしまった彼をさらにややこしいことに巻き込んでしまった。ああ、ああ、ああ。
「灯っ!!」
「わあっ――!?」
横から飛びかかってきた衝撃に、私の口から心臓が飛び出ていった。慌てて口元に手を当てて押し戻そうとしたけれど、何も飛び出していなかった。よかった、錯覚だ。
ほっとする間もない。傾いた体がどしんと床に倒れ、鈍い痛みが背中を襲った。
「怪我は!? 大丈夫か!?」
私を床に押し倒した青年は至近距離で顔を覗き込んでくる。近い。重い。覆いかぶさってくる巨体を押しのけようにも、ちっとも離れていかなかった。いつ部屋に入ってきたんだ。
「だ、大丈夫だから、大君、離れて……!」
「~~っ無事でよかった!」
がばりと私を抱き締める青年は、しばらく顔を合わせていなかった友人である。
北海道での撮影から無事に帰ってきていたようだ。一週間以上も顔を合わせていなかったが、出会ってから最長の空白期間だった。冷静に考えなくても顔を合わせ過ぎている。
安堵に騒ぐ大君を前に少しだけ肩の力が抜けた。尾野や流星さんが心配してくれたように、大君も私のことを心配してくれている。人の優しさはかくも温かい。
「灯」
大君は腕を伸ばして私から距離をとったものの、押し倒す姿勢は変えずに「兄貴に聞いた」と声を絞った。珍しく真摯な物言いだった。
「なんかあったら俺に言って。俺、ストーカー被害はプロだから、助けられることがあるかも」
……そうだろうけども。自虐もいいところだ。
鋭い目を細め、心配そうに顔を歪める友人に心から感謝した。自分が独りぼっちじゃないことがこんなに心強いなんて。瞬きを我慢し、涙腺から溢れる涙が零れないように我慢する。
今後の人生、潮木兄弟に足を向けて寝れないかもしれない。
「あ、そうだ……!」
はっとした顔で立ち上がった大君は、慌てたように部屋の入口の方へと向かっていく。何事かと構えたけれど、不要の警戒だった。入口の近くに投げ捨てられていた紙袋を拾った彼は「これ北海道の土産」と軽い足取りで戻ってくる。自由人というか、気ままというか。本当にポメラニアンにしか見えない瞬間があるんだよなあ。
「ありがとう。いつ帰ってきたの?」
「昨日の夜」
渡された紙袋の中身はすべてお菓子だった。私一人で消費するには量が多すぎるが、有難くいただいておこう。研究所でみんなと食べればいいんだし。
大君は我が物顔でベッドに腰を落ち着けると「なんか手伝うか?」と首を傾げた。
「ううん。そんな大荷物でもないから」
「そっか」
「大君、お仕事は?」
「とりあえず、明後日まではお休み」
「家に帰らなくていいの?」
「いいのいいの。灯の顔見たかったし、この時間に家に帰っても誰もいねえから」
私は自分の気の回らなさに驚いた。何が、家に帰らなくていいの、だ。大君だって私という懸念がなければ、今頃、家でゆっくり休んでいたことだろう。
自覚はないけれど、私は考えが顔に出やすいらしい。大君は「余計なこと考えんなよ。いつも俺のこと助けてくれてんのは灯じゃん」とけらけら笑って見せた。優しい。どこか曖昧なまま心細くなっていた私には体の芯まで染みる言葉である。
「なんかあったら、俺が守ってやるからな!」
「……、ありがとう。でも、大君は私じゃなくて、ネルちゃんを気にかけてあげて」
今、精神的に不安定なのは私だけではない。
ネルちゃんも大君が傍にいてくれば、少しは安心できるかもしれない。私にはできなかったことが大君にはできるはずだ。ちょっとだけ悔しい気もするが、そこは張り合うところではないと分かっている。
「ああ、それはもちろん!」
任せろと胸を張った大君の頼もしさといったらない。いつもは恋愛脳のちゃらんぽらんのくせに、やっぱり愛とは偉大なのだなと感心した。
ほっこりとした気分にさせられ、つられて笑ってしまう。なんだか、久しぶりに笑った気がする。
底抜けの明るい笑顔といい、人を巻き込む朗らな空気感といい、本当に太陽みたいな子だ。
結局、大君は私が荷物を片付け終えるまで部屋に居座った。いてもらえてよかった。
ベッドの上を占領したまま、北海道の思い出話をあれこれと話す彼は、私の気が滅入るのをせき止めてくれる存在だったから。
やはり、向こう側でも女の人にちょっかいを出されて大変だったらしい。相変わらず、難儀な星の下に生まれている。行きずりの男との恋物語が出てこなかっただけマシと思うことにしよう。
荷ほどきが終わり、大君とともに研究室に降りれば、彼はそのまま海中展望室に足を向けた。シア君の件でネルちゃんが落ち込み気味なのを考慮し、接近禁止令が解かれたらしい。よかった。
私は私で流星さんに呼ばれ、彼から眼鏡ケースほどの黒い箱を手渡された。続けて「開けていいよ」と言われて素直に従う。中身はネックストラップがついた黒のボールペンだった。
「ボールペン?」
「防犯ブザー。肌身離さず持ち歩くこと。使い方は分かるよね?」
「え、ええ。分かります、けど――」
私が知っている防犯ブザーとは形状がちょっと違う。
まじまじと観察してみたが、よく見れば外装こそボールペンだがただの筒だ。キャップもないし、ノックもできない。芯が出るはずの穴は塞がれている。グリップの部分が動くようになっていて、ここを引っ張れば音が鳴るようだ。
「それが鳴ると機構の警備局と僕の携帯に連絡が来るようになってるから。不測の事態が起こったらすぐに鳴らすこと」
「え、機構の警備局にも連絡行くんですか?」
「そうだよ。ネルの写真を撮った誰かを放置するなんて、君だってしないだろ?」
それはそうだ。絶対に野放しになんかできない。
流星さんは「ま、使うような危険がない方がいいんとけど」と一言を添えた。ごもっとも。
「ただし、一番悪いのは、危ない状況なのに慣らさないことだからね」
真っ黒の瞳は私の自己肯定感の低さを咎めているようだった。




