第53話 たった一つの選択肢
「紫峰? しっかりして、紫峰?」
「え、あ、う、うん――」
恐怖よりも動揺が勝っていた。
自分のことよりも、ネルちゃんのことが心配である。私のデスクに散らかっている写真の中に、彼が人魚だと分かるものが混ざっていたらどうしよう。私のせいで、私が至らないから、私の不注意――。
「あの、写真。写真に誰が映ってるか――」
「は?」
「だから、写真見たいの、全部」
尾野は目を見開いたあと、鋭い視線で私を射抜いた。これは怒っている。でも、引き下がるわけにはいかない。
私の手に握っていた写真が奪い取られ、他の写真も尾野の手の中に納まっていく。慌てて取り戻そうにも、伸ばした手は届かなかった。
「あんた、自分じゃなくて、写ってる人たちのこと心配してるでしょ」
「そりゃあ――」
「そんなの当然じゃないから! あんたなんで自分のこと大事にできないの!!」
そんなこと言われたって。
私は一生懸命に尾野の言葉を理解しようと努めたが、上手く処理ができなかった。だって、自分が間違っていると思わない。この場で一番に心配されるべきは人魚の存在が露見していないか、その次は大君に危害が及んでいないかだ。私にストーカーがいる可能性より、大君のストーカーが私に悪意を向けたという可能性の方が高い。
私の心の声が透けていたのか、尾野は悔しそうに涙を浮かべている。
同期の涙を前に、心臓が嫌な鼓動を打ち始めた。何が正しくて、何が誤っているのか。混迷していく。
「とにかく、紫峰は自分の心配して! しばらく会社は休みなさい。その話はすぐに部長から正式な連絡がくるから。警察にも連絡してるし、事情聴取があるまで私とここで待つわよ」
「しゃ、写真を――!」
「だから! 人の心配じゃなくて自分の心配をしなさい! あんたどうすんの? 一人にするの心配だし、しばらくうちで寝泊まりする? それとも実家に戻る?」
「いや、えっと――」
「いえ、彼女は僕が引き受けます」
びくり、と肩が跳ねる。乱入してきた声に驚いたのは私だけでなく、尾野も同じだった。
「驚かせてしまってすみません。潮木流星、彼女の友人です。大河の兄って言った方が伝わりますかね?」
介入してきた人物に警戒する尾野に対して、私は安堵と恐縮の間で揺れ動く。彼がいてくれればすべてをいい方向に導いてくれる確信と、人魚の存在を世間にバラしてしまったかもしれない後ろめたさに挟まれて圧死しそうだ。
「彼女から連絡があってきました」
尾野に名刺を差し出した流星さんは、当然のように嘘をつき、当然のように隣の席に座った。
いつの間にか、帆座さんの姿はいつの間にか消えている。よかった。もしかしたら、大君との写真を見つけた彼女が乱心して、話しがこんがらがっていたかもしれない。
――それも大事な話ではあるけれど、それよりも、なぜ、流星さんがここに。私から連絡なんてしていないのに。
「事情聴取まで僕が彼女に付き添いますから、会社に紫峰が安全だったことをお伝えしてください」
尾野は私と流星さんの顔を忙しなく見比べた。長い付き合いの同僚の顔色は簡単に察しがつく。
彼が信用できるかどうか迷っている。
私のデスクにある写真に写っている一人であるから、知り合いであることは分かっているはず。尾野と谷田に大君の話はよくしているが、流星さんの話はほとんどしていない。尾野からしてみれば、得体の知れない青年でしかないだろう。
しかし、流星さんがここに来てくれたのは私には希望の光以外の何物でもなかった。
私は大きく頷いて、尾野に会社へ戻ることを勧めた。心配してくれている尾野に失礼な話だが、彼女がいなければ今の状況を流星さんに相談できる。
「可能であれば、その写真も見せてもらえませんか。写っている知り合いに注意喚起したいので」
「……」
「彼女の自己肯定感の低さへの説教も任されますよ」
「……分かりました。彼女をよろしくお願いします。紫峰、事情聴取の時間になったら迎えにくるから」
「え、あ、うん」
写真の束をテーブルの上に残し、しぶしぶと会社へ戻っていく尾野を見送った。その間、私は疑問符を抱えるしかできなかった。傍目から見て自己肯定感が低い、のか? いや、違う。今はそんな話はどうだっていいんだ。
「流星さん、なんでここに?」
「偶然」
そんなことあるわけないだろう。ここから美湊までどれだけ離れていると思っているんだ。
否定の言葉は声にはならない。理由は何でもいい、現れてくれたことに感謝しかなかった。
私が口を開こうとすると「まずは僕が話してもいい?」と、彼は強制的に話の流れを自分のものにした。
「いや、私の話を先に――」
「君の心配事なら大丈夫。今、君のデスクを調べている警察って、全員が機構員だから」
「――――え?」
「機構員が狙われたら、まずは機構員が調査に出る。被害者が異人だろうと人間だろうとね」
流星さんはさも当然のようにそう言い放つと、隣の席から私の向かいの席に移動する。尾野が置いていった写真を拾い上げ、ぱらぱらとめくっては「大河は隠し撮りでも写りが綺麗だ」ととんでもなく意味不明な感想を述べた。それ、今、関係ありますかね。
しかし、私の心配が無用と知れただけでも有難い。
先ほどまで身体を支配していた緊張と後悔が薄れ、私はようやく呼吸を取り戻した気分だった。深呼吸をすれば、コーヒーの香りと冷房に冷やされすぎた乾いた空気が肺に入ってくる。
「にしても、君は本当に頑固というか」
「え?」
「君の同僚も言っていたけど、もう少し自分を大事にできないの?」
「私よりも人魚の――」
「ちっぽけな君一人の失態でどうこうなるわけないだろ。それで今日までずっと守られていた秘密が暴かれるほど、異保管は無能で頼りない機関ではないよ」
それは――、そうかもしれない。
でも、私が自分の責任を追及していたのは、異保管が信用できないからじゃなくて、その状況を自分が作り出してしまったことへの自己嫌悪なのだ。言い訳がましいことを訴えようとした矢先、「君の責任じゃない。責任があるなら上司の僕にある」と優しすぎる言葉が私を制した。
「一度、余計なものを排除して考え直してごらん。他人を自分の生きる目的や指標に置くべきじゃない」
流星さんの言葉は重い。自分の心の柔らかい部分をぐさぐさとめった刺しにされている気分になる。
分かっています、とは嘘でも言えなかった。流星さんはどうしてか私の本質をよく分かっている。彼の観察眼が素晴らしいのか、私が単純すぎるのか。
正論だけを連ねる流星さんを前に、私は口を噤むしかなかった。
「と、説教はここまでにするとして。僕は今回の件について、単純に紫峰がストーカー被害に遭ってるんだと思うよ」
「は、はあ……?」
「僕がここに来れたのは、警察――というか、警察に所属してる機構員から僕の方に連絡が来たから。君が被害に遭ってるから保護してくれってね」
やっぱり、偶然じゃないじゃないか。
「君はまず、自分が狙われてこんなことが起こっているってことを自覚して」
これっぽっちも状況が呑み込めない私に、流星さんは無言で写真を押しつけてきた。いつ撮られたのか分からない写真。誰かの目に自分が晒されている証拠。
自分に起こっていることとしては想像しにくいが、自分が大君の立場にいるかもしれないと思うと足場が崩れるような不安が湧き出た。知らない人間が勝手に私を想像し、その理想を押しつけてくる恐怖は何度も目にしている。
「事情聴取が終わったら、研究所に行くよ」
「研究所に?」
「君は今、一人で放っておける状況じゃないってこと。分かった?」
大君を一人にしておけないのと同じと思えば、素直に頷くこともできた。
「寝泊まりも研究所でしたらどう? セキュリティは万全だし、生活する施設は整ってる。友達の家に行って迷惑をかけるのは嫌だろ?」
「でも、私用で使わせていただくのは」
「構わないよ。あそこは僕の研究室、僕が仕事をするために使う部屋。君が不調でいる方が僕の仕事に影響がある」
やはり、流星さんは優しい。こう言えば私が肯定しやすいと分かっているのだろう。気遣いが痛いほど心に染みる。
異保管の仕事の一環かもしれないが、流星さんはここまで私を迎えに来てくれたのだ。面倒なことは面倒だと切り捨てる人が、私を切り捨てる選択をしなかった。
自分が一人じゃないと分かって、なんだか泣けてくる。
「大河も酷いときにはあそこに逃げ込んできているし」
「そう、なんですか」
「帰れる場所があるなら帰るのもいいと思う。実家に帰るっていうなら――、いや、悪い。君の事情を知っているのにこういう言い方はよくないね」
実家に帰るなんてはなから頭にない。友達の家に迷惑をかけるつもりもない。そうなると、私の選択肢は一人暮らしの家に帰るか、研究室でお世話になるかの二択。前者を選んだ未来では、最終的に研究所に転がり込んでいる自分が容易に想像できた。
つまるところ、私に選べる道は一つしかないのだ。
私の思考を読み取ったように、頼りになる麗しの上司は「できれば、僕の目の届く範囲にいて欲しい」と手を差し伸べてくれた。
「……すみません。お言葉に甘えて、お世話になります」
「大丈夫。ちゃんと働いてもらうから」
今後、流星さんには一生、頭が上がらないかもしれない。誠心誠意、一生懸命、働こうと思います。




