第51話 悪夢の続き
昨日ぶりに見たクルーザーに乗り込めば、研究所を目指して晴れた朝の海上を進み出す。運転手の機構員さんにはアロマナちゃんよろしく変な疑惑をかけれれたけれど、流星さんがそんなことする訳ないなと一人で結論を出して楽しんでいたので、私から口を挟むことはしなかった。
朝の海で吸い込む空気は陸地で吸う空気とは違う。
太陽の位置のせいか海の色が濃く見えた。このゆらゆらと揺れる青と泡立つ白を見ているだけで永遠に時間が潰せそうだ。
「ただいま陸地」
「さっきも陸地だっただろ」
流星さんには慣れ親しんだ陸地に戻る感動が分からないらしい。
今になってみれば、”超絶イケメンと二人きり、無人島のコテージで一晩を明かす”という字面こそ夏の火遊びみたいな一日だったが、やはり身の丈に合わないものは合わない。流星さんもいつも通りつんけんしている方が落ち着く。
爽やかな挨拶と共に去っていくクルーザーを見送り、桟橋から研究所へ戻ろうとした背後――、ばちゃばちゃと騒がしい波の音が聞こえた。水しぶきが足にかかり、水の冷たさに全身で飛び跳ねる。
「流星ちゃん! 灯ちゃん!」
海から聞こえた叫び声に振り返れば、早朝の無人島で見た紫と同じ色。びびびと視線が交わる。
「ネル、こんなところで姿を――」
「シアがいないの!」
流星さんの苦言は、最悪の言葉に喰われる。
金槌で頭を殴られるような衝撃。体の力が抜けていくのが自分でも分かった。鞄が手を離れて重力のままに落ち、中身が桟橋の上に散らばる。急に喉の奥が乾き、内臓までもが干からびたような気持ち悪さ。締まった気管からひゅうとか細い音が鳴った。
シア君が、いない――?
流星さんはネルちゃんと顔を近づけるように桟橋の端で膝をつく。焦燥に駆られるネルちゃんと対照的に、ゆっくりと諭すような口調で「ネル、こっちを見て」と不安に揺れる人魚の視線を固定した。
「ネル、とにかく展望室に移動して。こういうときだからこそ、不用意に顔を出しちゃいけない」
ぐうの音も出ない正論である。
その言葉にネルちゃんはすぐ海の中へと消えた。同時に流星さんも「先に行くよ」と言うが早いか早急に走り出す。普段の悠々自適な姿はそこにない。緊急事態を肌で感じる。
頭では急がなければと分かっていたのに、震える手では上手く荷物を拾えなかった。早くネルちゃんの元へ行かなければと思えば思うほど枷が増えていくように動けなくなる。
――ど、どうしよう、シア君が、まさか昨日の今日でこんなことに。駄目だ。私が動揺したって何にもならない。
できる限りの早さで荷物をまとめ、懸命に研究室までの道を走る。あの建物はこんなに遠かっただろうか。
走っている間も私の心は不安で千切れそうだった。
急ぎのあまりに覚束ない手元でカードキーを使い、研究所の扉をくぐり、海中展望室へ続く階段を段飛ばしで下りる。押し開けた扉の先、流星さんの張りあげた激励が響いていた。
「ネル、落ち着け! 話にならないだろ!」
「どうしましょう、だって、だって――」
「ネルちゃん!」
もつれそうな足で残りの階段を飛び降り、そのまま海へと転がり落ちてしまうのではないかという勢いでネルちゃんの元へ駆け寄った。
震える肩に手を置き、ネルちゃんの意識をこちらに向ける。虚ろな目は揺れていて、私が映っているかは怪しい。
濡れた手を取れば、その冷たさに体の芯から震えた。水温のせいではないだろう。血の気のない手を強く握れば、もっと強い力で握り返される。
「ま、まだ迷子の可能性もありますよね!?」
藁にも縋る思いで隣に叫べば、この中で一番に冷静である彼は「まずは状況を知りたい」と務めて静かな口調で話を切り出した。
「ネル。昨日はシアのこと家まで送ったんだろうね?」
「送り届けたわよ!」
「分かった。じゃあ、最後にシアを見たのは誰?」
「ご両親。昨日と同じで、朝、いないことに気づいたって――」
ネルちゃんの手に籠る力は段々と強くなっていく。心の不安をぶつけるように手が締めつけられ、骨と骨が擦れるような嫌な感覚がしたが、今はそれどころではない。
「どうしましょう!!」
ネルちゃんの悲痛な叫びは、私の心臓に強く響いた。音で心臓が壊れることがあるなら、今がそのときかもしれない。伝わってくる焦心と恐怖心に私の方が怖気づいてしまう。
最悪の展開が頭を過り、それを否定しても次の悪い考えが思考を占める。上手く頭が働かない。まずは落ち着かなきゃと思っても、どうしたってシア君の悲痛な顔が浮かぶ。違う、これは妄想、現実じゃない。
「ネルは海に戻って、海中で思い当たる場所を探して。海面には顔を出さないこと。何かあれば指示はこっちから出す」
「でも!」
「君にまで何かあったんじゃ、救いようがないだろう。地上はこっちで探す」
流星さんはどこまでも平静だ。とうとうとした声は、じわじわと侵食するように心に頭に沁みていく。そうだ。まずは探さないと。心を空回りさせていても仕方がない。
流星さんの言葉を聞いて、ネルちゃんの瞳にも段々と光が戻ってきた。私の手を拘束する力が緩んでいく。
「ネル。しっかりして。君が守る側なんだから」
「え、ええ」
「紫峰は入り江に。もしかしたら、本当に迷子で知っている場所に行こうとするかもしれない」
「――わ、分かりました!」
私は繋いだ手にぐっと力を込めてから、ゆっくりと離した。
私にできることをしなければ。
ネルちゃんと流星さんが言葉を交わすのを聞きながら、私は危なっかしい急ぎ足で研究所から飛び出した。入り江を目指してひた走る。岩場で転ぶし、息も上がるし、脇腹も痛いけれど、そんなの苦痛の内じゃない。
この際、迷子でもいい。心配したんだから、と怒れるなら、それだけで安心できる。
「――シア君!!」
いない。いない。いない。叫び声とともに飛び込んだ入り江には誰もいなかった。
まだ、分からない。もしかしたら、このあと、ふらりとシア君が現れるかもしれない。そうだ、諦めたらいけない。
私は薄暗い砂浜に仁王立ちし、ぽっかりと空いた穴から続く海を見つめる。続く青は穏やかなもので私の心の荒立ちとは正反対だった。
お願いします。あの子に、何事もありませんように。
――私の懇願も、流星さんの尽力も、ネルちゃんの捜索も功を成さず、結局、シア君は姿を消したまま戻らなかった。




