第50話 眠れない夜
インスタントラーメンで夕飯を済ませ、備品として収納されていた服からタオルから何からを引っ張り出し、シャワーを浴びて開いている部屋へと飛び込んだ。ふかふかのベッドはこの施設が定期的に整備されていることを教えてくれる。
雨は未だに止まない。やることもないし、寝る選択しかなかった。
――紫峰みたいな人間って本当に損だと思うよ。
「あ、あぁぁぁあ」
情けない呻き声が漏れ出る口を枕で抑え込む。派手に騒いで流星さんに怒られるのは絶対に避けなければ。どんな顔で会えばいいのか分からない。
流星さんが部屋にこもってから、私がベッドに寝そべるまでの間、何をしているときも、脳裏ではあの一連のやり取りを何度も思い返していた。
情け深く慈しむような視線、甘く囁く柔らかな声――――寝れない。寝られるわけがない。
心臓の奥がぐずぐずに焼け焦げて溶けていくようだった。胸が苦しくて仕方がない。名前もよく分からない感情を持て余している。
「……うう」
流星さんらしくなかった、と思う。丸かったというか、毒気がなかったというか。
額をすり合わせたり、頬を撫でられたり、距離感こそ近すぎたけれど、いわゆる、恋愛ごとのいい雰囲気とは違った。下心なんてもってのほか。ちょっとおこがましいかもしれないけれど、さっきのは大君に対する態度に近かったと思う。
ただただ、特別扱いされていることが身に染みた。大事にされている――は自信過剰過ぎるか。でも、心配されていた。あのビンタからよくここまで辿り着いたものだ。
――紫峰みたいな人間って本当に損だと思うよ。
「うぐ……」
悶々とする思考は晴れることなく、私はごろごろと寝返りをうっては、心に収まりきらなかった分の感情をかっすかすの声に変換して吐き出し続けた。
ぱちん、と音がするほどしっかりと目が開く。いつの間に寝たのか、今は何時――、窓の外はまだ薄暗い。雨は止んだようだ。枕元に転がったスマホを手にすれば、早朝も早朝だった。
あまり眠った気がしない。脳はずっと起きていたように昨日の夜から続く時間を引きずっている。なんだこれ。
部屋の扉を開くまでは変に緊張していたけれど、いざリビングで顔を合わせた流星さんに「おはよう」と爽やかに挨拶されてすべてが吹っ飛んでいった。ザ・寝起きでしかない私に反して、彼はどんな時間でも麗しい。すごい。
「もう出るよ。迎えは頼んでるから」
「あの、汚れた服とか掃除とかはどうしましょう?」
「持って帰るものは持って帰って。掃除は大河にさせるからそのままでいいよ」
「えっ、大君にやらせるんですか……?」
「あの子だって異保管の機構員だからね。できる範囲で仕事は振らないと」
意外――、でもないか。この施設の掃除だったら、大君が一人か、もしくは流星さんが手伝いに入って二人か。他の人間が関わらない仕事の方が安心して任せられるだろう。流星さんもさもない様子だし、何なら私が手伝いを申し出ればいいんだし。
ささっと身支度を整え、太陽とともに家を出る。そして、目前の水路から顔を出している人魚と目が合った。
「っ!? わあ!?」
子供みたいな驚きの声が出て、慌てて口を押える。恥ずかしい。
静かな島に間抜けな響きが轟く。私たちの存在ではなく、私の驚き方に驚いたらしい人魚は紫水晶の瞳を見開いていた。朝焼けよりも色濃い赤の髪。つるりとした翡翠の鱗。
「あ、アロマナちゃん……?」
昨日、出会った人魚。彼女はたっぷり驚き終わったようで、今度はじっとりとした視線でこちらをねめつけている。
……このホテルから出たところを知り合いに目撃されてしまった感はなんだろうか。やましいことは何もないのにやらかした感がある。
「君、流星と付き合ってたの?」
「いえ、付き合ってません」
考えるより先に返答していた。何を言い出すんだこの人魚は。
「アロマナ、ちょうどよかった。昨日、顔を合わせているだろうけど、改めて紹介しておくよ。この子は僕の補助員の紫峰。今後、君たち人魚との連絡には主に彼女に担ってもらうようになるから」
私とアロマナちゃんの間に流れる刺激的な空気など、流星さんの前には凪である。彼は平然とした様子で、朝の挨拶もせずに私を紹介した。私もつられて、ほとんど無意識で深々と頭を下げていた。
「改めて、よろしくお願いします。おはようございます。紫峰灯です」
しっちゃかめっちゃかな挨拶になってしまったけれど、それを指摘する人は誰もいない。
「ふうん」
アロマナちゃんは目力が強い。普通に見上げられているだけなのだが、どうにも射抜かれてる気がしてしまう。紫の瞳の色こそネルちゃんと同じであるが、受け取る印象は似て非なるものだ。
アロマナちゃんは不意に私から視線を外したかと思えば、そのまま、ぽちゃんと静かな音だけを残して姿を消してしまった。素っ気ない。昨日もこんな感じでいなくなってたな。
「ご機嫌斜めだったんですかね?」
「アロマナというか、人魚は大体あんなものだよ」
本当に? シア君はどちらかといえばネルちゃんみたいな感じだったけれども。
というか、アロマナちゃんがわざわざコテージの前にいたということは、何か用事だったのではないだろうか。流星さんに要件だったのに、私がいるから帰ってしまったのかな。申し訳ないことをしたかもしれない。
「アロマナちゃんも機構員なんですか?」
「いいや」
流星さんはおざなりに返事をした後に「待たせているから急ぐよ」と続けた。ようやく帰れる。そんなに不便な思いはしていないが、やはり家が一番である。
先を歩く流星さんの背中を見ていると、また終わりのない問答が襲いかかってきた。
昨日の流星さんは一体何だったのだろうか、と。
私の幸せについて説いてくれたのはいいが、分かりましたとすぐに変わることもできない。妙に距離が近くても照れるより、感服が勝ってしまっていた。
彼の持つ雰囲気は独特だ。
孤高っぽくて、人が関わってくることを嫌っているようなのに、他人への配慮は深い。人が近寄ってくるには一線を引いているようだが、自分が寄っていく分には無遠慮。




