第4話 親しき仲にも思いやり
非日常な一幕に強制参加することになった次の日、私は赤く腫れた頬に湿布を貼って出社した。そのままでは目立つのが必至だったため、マスクの装着も忘れていない。
しかし、今は六月末、季節は夏の始まり。暑くて息苦しいうえに、まあまあ目を引くことには変わりなかった。いいや、ひよってはいけない。どうにか誤魔化せているはずだ。大丈夫、大丈夫。
休むという選択肢もあったわけだが、顧客への納品を控えた今、導入準備は死んでも終わらせなければならない急務だった。システムエンジニア二年生。まだまだ新人ではあるけれど、任せられた仕事はこなしたい。それに私の場合は精神衛生上、働いている方が落ち着くというのもある。
「おはようございます」
執務室に入ると早々に「うわ、なんだよその暑苦しいの」と訝しげな声に迎えらえた。
「おはようはどうした、おはようは」
「おはよう、紫峰。ほんで?」
うるさいのに捕まった。湿布とマスクで顔の半分を隠している私を見つけ、怪訝な顔で絡んできたのは同期で営業部の谷田。
うちの会社の執務室は、だだっ広い部屋を部門ごとの島で分けているだけ。このフロアでは営業部とシステム部が同居している。つまり、別の部である谷田でもシステム部の私の異常は簡単に見つけられる。
「なんそれ、腫れてる? 叩かれた? 嘘、修羅場?」
「修羅場では断じてない」
「でも、叩かれはしたん?」
谷田は気のいい素直な奴で、人付き合いの上手な奴である。同期であり友人だ。根っからの社交的な人間でいつもにこにことしている彼は営業としても優秀らしい。だからというか、私の偏見も混ざっているが、彼はよく言えば元気、悪く言えばうるさい。それから、声が大きい。これは事実。
彼の声はよく通る。山頂で叫んでみて欲しい。綺麗なこだまが返ってきそうだから。
しかし、今はそんな彼の特性が憎らしかった。
同期同士のささやかな始業前の雑談は、彼のその元気な声のおかげでフロアに筒抜けである。そう、私が誰かに頬を叩かれたという事実が瞬く間に職場に広まったのだ。
一瞬、空気が冷えたように思えたのは勘違いではない。
確かに、誰かに会うたびに説明する手間は省けたのだろう。ただ、それが一体何だというのだ。面白おかしく、いらない尾ひれがつけられ、噂話は勝手に泳ぎ回るに決まっている。最悪だ。明日には親友の恋人を寝取った性悪女に成り下がっているかもしれない。
「うわ、目の下までいってんじゃん。相手、男?」
「谷田は拡声器の生まれ変わりなの?」
「拡声器は死なないだろお」
「紫峰は嫌味で言ってんのよ。私の席まで聞こえてる」
今や執務室の大半が聞き耳を立てているであろう震源地に現れたのは、私のもう一人の同期、尾野である。
私と同期に入社した同僚はこのフロアに限っては、もうこの二人しか残っていない。入社時点では六人いたはずだが、研修期間中に無断欠席のまま一人、心を病んで仕事ができなくなって一人、寿退社で一人、と様々な理由で去っていった。
中途で入ってくる人も多いし、特に転職に対しては何も思うことはない。ただ、残された同期の繋がりは人が減れば減るほど強くなっていった。別フロアの同期たちとも仲良しではあるけれど、谷田と尾野は別格である。
「で、一体何があったのよ?」
「結局、尾野も野次馬なの」
「あの男っ気も女っ気もない紫峰が、頬に一発食らうなんて何事かと思うじゃない」
「それそれ。お前は友達も少ないのに――」
谷田の無礼な意見は始業十分前のチャイムに制された。
「仕方ない。続きは昼に聞くかね」
「そうね」
私の意見を聞くこともなく、谷田と尾野はさっさと自席へと帰っていく。尾野も営業部の人間なので去っていく方向は一緒だ。……こざっぱりしている。頬をぶたれた理由より先に、ちょっとくらい具合を心配してくれてもいいのでは。あなたたちの同期はいたたまれない気持ちでいっぱいだよ。
昼休みに私から昨日の出来事の一部始終を聞いた二人は、憐みの表情で「紫峰って貧乏くじ引くタイプだもんなあ」と声を揃えた。貧乏くじ。あれは貧乏くじか?
あんまり危ないことに首を突っ込むなよ、と私にはどうしようもなかった忠告をもらい、同情されるままにランチを奢られて話は収束した。そうだ、事件に巻き込まれはしたものの、もう終わったこと。さっさと忘れてしまおう――そう思っていられたのは帰路につくまでのことだった。