第47話 帰れない
「あ、灯ちゃんっ!!」
「わっ――!?」
激しい水音――、愛と美の化身が現れた。いや、見まごうことなくネルちゃんなんだけれど。湖から現れると女神みたいだな。金の斧、銀の斧的な。
「びっくりした。ネルちゃん、帰ったんじゃなかったの?」
湖に顔を出した彼の元へ向かえば、肩で息をしているのが分かる。どうやら、急いでここまで戻ってきたらしい。
シア君もアロマナちゃんもいないということは、家に帰ってから来てくれたのだろうか。ここから海底都市までどれくらいあるのか分からないが、人魚の住処が近くにあるとは思えない。
「海が荒れるから、帰るなら早めに帰った方がいいわ……!」
「え!? ほんと!?」
勢いのまま後ろに振り向けば、私の言いたいことを先取りした流星さんが「今、連絡してる」とスマホ片手に立ち上がっていた。まあ、この距離なら筒抜けですよね。
そちらを急かしても仕方がない。未だに荒れた息を整えながら、ばちゃばちゃと騒がしいネルちゃんに向き直れば、澄んだ瞳が「間に合うといいけど」と柔らかく細められた。
「……ネルちゃん、携帯は?」
「あっ――、アタシったら」
恥ずかしそうに照れ笑いをする友人は本当に優しい。海が荒れると聞いて、一も二もなく駆けつけてくれたのだろう。この子、こんなに情け深くて荒んだ世を生きていけるんだろうか。
「わざわざ伝えに来てくれてありがとうね」
「ううん。灯ちゃんだって、アタシたちのために島まできて来てくれたんだから。これくらい当然よォ」
私が十八のときってどんなだっただろう。少なくとも、彼ほど人間はできていなかった。どんな環境で生きてきたら、こんなに献身的になれるのだろう。なりたいわけじゃない、ただ、彼のことが少し心配になる。
ようやく呼吸が落ち着いたネルちゃんは「アタシも帰るけど、大丈夫?」と小首を傾げた。
「うん。教えに来てくれてありがとう。荒れる前に気をつけて帰って。今日は本当にお疲れさま」
「ええ、お疲れさま。何かあったら連絡してねェ」
「そっちこそ」
ネルちゃんはちらりと流星さんを一瞥し、また私に視線を戻すと小さく手を振ってから水中へと潜っていった。
彼の消えた水面の波紋を見ていると、流星さんの話声も遠くになっていくような錯覚を覚える。この島の――、というか、美しいものというのは、強制的に目も心も奪っていく。思考が奪われる。
美しさと同時に恐怖も感じた。
いくら水が澄んでいても、ここから湖底までは見えない。人魚がいるのだから、他の知らない生き物だっているかも。この水面からぱっと顔を出して、あっという間に私を丸呑みする怪物がいたら――。
「紫峰」
「っはぃ!」
声はひっくり返り、背筋がびしりと伸びた。
情けない返事をしてしまったことに羞恥を覚えながら振り返れば、珍しい表情を浮かべた上司の姿があった。悪い予感しかしない。
「帰れなくなった」
「……はい?」
潰しそうな勢いでスマホを握り締めているのに反して、流星さんは平坦で穏やかな声で「帰れなくなった」と繰り返した。
声色こそいつも通りだが、表情は絶望そのものである。
「……流星さん、今、なんて」
「帰れなくなった」
三回目。流星さんはまったく同じ台詞を繰り返した。
何もない宙を見つめ、遠い目をした彼は「今日はもう船が出せないから、迎えは早くて明日の早朝だって」と宣告を下す。流星さんでも取り乱したりするんだな、なんて感心する余裕もなかった。
「…………?」
帰れない? ここから?
ちょっと待ってくださいよ。確かに、家に私を待ってくれている人はいないし、絶対に帰らなければならない用事もないけれど。それでも、この島から帰れないって。そんな馬鹿な話が。
「言っておくけど、僕だって嫌だからね」
「でしょうね」
端正な顔の眉間に深いしわが刻まれる。きっと、私の表情も鏡のように同じだろう。美しさの度合いについては言及しない。
「え、どうしようもないんですか? まだ間に合うんじゃ?」
私はぴっと空を指さした。晴天である。これから荒れるとは思えない陽気さだ。ネルちゃんの忠告だから信じているけれど、そうじゃなかったら何を馬鹿な冗談をと笑い飛ばしているところである。
「…………」
「…………」
流星さんは目を逸らし、緩く俯いた。
そんな。嫌だ。小さな頃にキャンプをした思い出はあるが、死ぬほど怖かった。先の見えない暗闇も、テントという簡素な宿場の頼りなさも、幼い私にはすべてが恐ろしかった。足が山ほど生えた虫も出るし、何の生き物か分からない声がするし。
そのテントもないとなれば、野宿――、無理、絶対無理。
「仕方ない」
仕方なくねえ。
「ここで騒いでも仕方ないし、施設に移動しよう。雨に濡れるのは嫌だ」
「し、施設?」
「異保管の施設」
「……この島、建物あるんですか?」
「あるよ」
そうなら早く言ってくれよ……!
帰れないのは心底から嫌だけれど、屋根のある場所があるというだけでここまで心強いなんて。あからさまにほっとしている私に、流星さんは不思議そうな顔をしたが口を出すまではしなかった。
スタートの合図もなく、歩き始めた背中を追う。
視界に入る景色は悠々とした自然。確かに観賞をするならいいものだが、生活環境としては考えられない。単に私にサバイバル力がないからかもしれないが、インドアに急な注文をつけられても困るというものだ。
「……こういうことって、よくあることなんですか?」
「よくはないけど、初めてではない」
少なくとも、生きて帰れることは保証されたな。
流星さんはずんずんと島の奥へ奥へと進んでいく。男女の違い以上に、恵まれた体躯のせいで随分と歩幅の広さが違う。羨ましいを通り越して憎い。
空を隠すように重なっていた木々が、段々と日差しの侵入を許していく。緑がわずかに減ったなと思える先、明らかに人工的に建設されたそれが現れた。
異保管の施設と聞いて、この島の中に異質なものが建っていると思っていた私は目を剥いた。目を疑った。
てっきり、コンクリート打ちっぱなしの壁をした巨塔だったり、素材も分からないような正四面体の建物があるかと思いきや――。
「バカンス感ありますね」
これが私の感想である。
木造の立派な二階建てのコテージ。一か所だけ石造りになっている壁は屋根まで伸びていて、それが煙突なのは一目瞭然だ。
必要のない趣向を凝らしたのでは、と疑いたくなる外観。
玄関の扉の前には必要があるのか分からない短い階段。玄関横にはウッドデッキが併設されていて、二脚のウッドチェアが対面で置かれている。その椅子に座ってコーヒー啜ったりし始めたら、それはあまりに創作的な休日だ。
ウッドデッキに出るための大きな窓から、室内の様子が少しだけうかがえる。壁には石膏らしい鹿の首が飾られていた。そんなものいる? いらないよね?
「研究施設じゃなくて、休憩施設だからね」
「そうなんですか?」
「無人島に研究施設が置かれてたら危ない機関みたいだろ」
そんな子供の言い訳みたいな理由なんですか。
しかし、知れば知るほど異保管って未知だ。こんな無人島にこんなに手入れの行き届いた施設があるなんて。
流星さんは玄関までの階段を上がると、鍵穴があるべき場所に研究所で使っているカードキーをかざした。開錠音。ここまで雰囲気に沿った造りが徹底されているのに、急に現実を見せつけられた。
「……、降ってきたね」
その言葉とともに雨音が耳に届く。それも、ぽつぽつとしたまばらなものではなく、騒音に違いない豪雨の音である。
いつのまにか空は薄暗く色を変えていて、雨の幕が視界を奪っていた。
「埃っぽいことはないと思うけど」
埃っぽいどころか、これは金持ちの道楽かと疑うレベルである。
流星さんの口振りからすれば、ほとんど使っていないようであるのに、部屋の中は必要最低限以上の家電と家具が揃っていた。溢れかえるほどの装飾品がこのコテージを無駄に彩っている。
「水も出るし、ガスと電気も使えるから。寝室は二階に個室が三部屋」
至れり尽くせりか。
流星さんは「明日の朝まで勝手にしていいよ」と一番困る指示を出し、リビングのソファーへと向かっていく。
流星さんと一晩、この建物に二人だけ。
急にこの状況に緊張が生まれる――なんてことはない。相手が流星さんだから、というのが一番大きい。最近の大君は気が動転して既成事実をとか言い出しそうで嫌だし、三鷹さんとはぎくしゃくして笑えないくらい生々しい状況になりそうで嫌だ。それに比べたら、麗しい上司は頼もしいうえに安心感すらある。
これで緊張もすれば可愛げがあるのかもしれないが、流星さんはそういう人はあまり好かないだろうなあ。苛立ちのままに盛大な舌打ちをする姿が易々と想像できる。




