第40話 ようこそ無人島へ
ずぶ濡れでべしょべしょに汚れた私に研究所からタオルを持ってきてくれたのは、なんと流星さんだった。彼はネルちゃんと少年人魚を見るなり、小さくため息を漏らしていたが、視線は優しかったから呆れではなく安堵のものだったと思う。
「無理してくれてありがとう」
頭から大判のタオルをかけられてしまったから顔は見れなかったけれど、声色は随分と柔らかかった。普段、口を開けば殺伐としたことしか言わないのに。
「いえ、何事もなくてよかったです」
「すっかり頼りになる補助員だね」
流星さんに褒められるのは素直に嬉しい。思わずにやけそうになって唇を噛み締めた。浮かれている場合ではない。問題は解決していないのだから。
「風邪ひかれたら困るし、先に戻ってて」
「ネルちゃんたちは……」
「落ち着いたら移動させる。僕がついてるから」
この研究所ではフィールドワークに出ると私のようになるのはよくあることだ、と流星さんに教えられた。だからこそ、対処する設備も完璧なのだ、とも。
普段、出入りしている研究棟の向かいの棟がそうらしい。シャワールーム、温度調節が自在の保管庫に大小さまざまな水槽とさまざまな設備があり、白衣やジャージ、採取用の器具などの備品が用意されたフィールドワーク拠点。
流星さんに促されるまま、私は一足先に入り江をあとにした。
流星さんの城である研究棟には慣れたものだが、別の施設には近寄りもしないから、足を踏み入れるだけで少しそわそわとしてしまう。シャワーを浴び、流星さんの研究室名義で購入したジャージに着替え、汚れた服ともらったばかりの白衣は併設の洗濯機に投げ入れてきた。必要な設備が全部そろっているとの談に嘘はなく、研究員さんたちが海に入って汚れても困ることは何もなさそうである。
私はふらふらとに重く鈍い足取りで研究室へと戻った。海に入るなんて大学生以来、独特の疲労感が懐かしくもわずらわしい。
「お疲れさまです、戻りました」
「おかえり、紫峰」
広い研究室には流星さんの姿しかなかった。
きょろきょろと室内を見回す私に、察しのよい上司は「三鷹は帰らせたよ」と回答をくれた。そうなんだ。まあ、夏休みだもんな。タオルを取りに行ってくれたお礼は次に顔を合わせたとき言おう。
すっと音もたてずに立ち上がった流星さんは淡々とした口調で「ネルとシアに事情聴取しないといけない」と話し始めた。
「はい。海中展望室ですか?」
ネルちゃんはともかく、少年人魚、もとい、シア君は自分にどんなことが起こっているか分かっていないようだったが、有益な話は聞けるだろうか。
録音機とバインダーと――、ネルちゃんの定期報告の聞き取り業務と同じ用具を揃えていると、細々とした声が「紫峰……」と私を呼んだ。一瞬、誰の声か分からなかった。でも、ここには私と流星さんしかいない。つまり――。
恐る恐ると顔をあげれば、声の主はばつが悪そうに目を逸らした。珍しい。いつもなら、無理難題でもしれっと押し通すのに。
「はい」
「シアを展望室に招いたとして、安全な場所だからと今後、気軽に遊びに来るようなことになったら仕事の邪魔だ。だから、聴取は違う場所でやることにした」
「……? 入り江でもないんですよね?」
「ああ。無人島でやるつもり」
「無人島?」
「異保管の保有している島で、本来なら人魚との対話はその島で行うことになってる。ネルが特別なだけで、人魚は人間と関わるのを嫌ってるし、浅瀬に近づくこともないからね。妥協点が無人島」
異保管についての資料はしっかり読んだけれど、私にはいまだに現実味がない組織だった。国立研究所の一角を好きにしてるうえに、無人島まで保有しているのか。壮大過ぎて驚きに達する前に呆けるところで止まってしまう。人魚――異人の保護と管理のためにやれる手立てはすべて揃えています、といった感じだ。
「……ということは、今から、無人島に行くんですか?」
「うん。いつもは大河を連れて行くんだけど、撮影で北海道なのは君も知ってるだろ」
「ええ。ものすごく心配です」
「……一応、護衛はついてる」
護衛、なんて物々しい響きだろうか。でも、その護衛がいなければ、もっと物々しい事件が勃発する可能性があるのが大君である。
大君自身が温厚であるのは不幸中の幸いだと思う。もしも短気だったら、逮捕の一度や二度待ったなしだっただろう。
まあ、護衛はいて当然か、――いや、当然か? どうしよう。流星さんの弟への過保護は狂気の愛執だと思っていたのに、私も同レベルで考えている。そんな馬鹿な。毒されている。
「ついてくるかは強制じゃない。君が決めていい。さすがに疲れただろ?」
「いえ。私もネルちゃんとシア君の話を聞きたいので、流星さんがよければ連れて行ってください」
検討の時間なんて必要なかった。
異保管の機構員として正しいかはさておき、ネルちゃんに対してはすっかり情が移ってしまっている。そのネルちゃんが同族のためにと頑張っているのだから、私だって力になれることは力になりたい。知っていることが多ければ、助けてあげられることが増えるかもしれない。もしかしたら、多発している誘拐事件解決の糸口になるかもしれないし。
流星さんのお気遣いは心底有難いけれど、お気持ちだけ頂いておこう。
「……助かるよ。ネルは君に心を許してるし、シアも僕よりは紫峰相手の方が口を開くだろうし」
今日の流星さんはやっぱりちょっとおかしい。こんなに私のことを褒めてくれるなんて。大嵐になるか、槍が降ってくるか、災害的な異常気象になる前触れかもしれない。
無人島まではクルーザーで移動する、と聞かされてから、実際に乗るまで十分もかからなかった。私が身綺麗にしている間に準備は万端だったようだ。
研究所の桟橋に泊っていた小型クルーザーも異保管のものらしく、運転手さんも機構員の方だった。流星さんなら自分で運転しかねないと思っていたので、ちょっとだけ拍子抜けしたのは内緒である。
初めて潮木兄弟以外の機構員に会って驚いていると、流星さんの采配で誘拐事件を未然に防ぐために臨時の巡回をしに来ているのだと教えてくれた。ちょうど、海上にいたところらしい。道理でこんなに出航がスムーズなわけだ。
「紫峰、船酔いは平気?」
「船に乗る機会があまりないのであれですけど、大丈夫だと思います。乗り物酔いとかはしないので」
まさか、流星さんと一緒に船に乗って、並んで海を眺める日が来ようとは。ビンタを喰らった日の私が聞いたら、どうしてそうなったと驚くだろう。
海がどこまでも青い。太陽がきらきらと眩しい、船上の潮風が気持ちいい。
「大河とネルのこと、考えは変わった?」
「へ?」
「言っただろ。僕は大河の恋をどうにかして欲しいって」
それは覚えている。そんなこと言われても無理、と突っぱねたのも忘れていない。なんでまた急に――。
「それとも、それどころじゃない?」
深い黒の瞳が呆けた私を映す。流し目で悪戯に笑う流星さんはあまりに美しくて心臓に悪い。ただ、それに感嘆している余裕はなかった。
流星さんが何のことを言っているか、聞かなくても分かってしまう。分かりたくなかった。
三鷹さんの件だ。一目惚れだと告白されたことは、確かに私の心に引っかかり続けている。一応、誠心誠意で断ったのだけれど、全然相手にしてもらえなかった。三鷹さんは相も変わらず、こんな私を褒めちぎり、好きだと伝えてくる。
しかし、その話を流星さんにした覚えは一切ない。彼に筒抜けなのは大君のせいか、三鷹さんのせいか。どちらもか。あの人たち、なんであんなに恋愛ごとにオープンなんだろう。信じられない。
「……私、どうしたらいいんでしょうか」
シア君の迷子事件で少なからず疲れていたのだ。そうじゃなきゃ、流星さんにこんなこと口が裂けても相談していない。
三鷹さんは私にはもったいないくらいいい人だ。社交的だし、気遣いもできるし、愛嬌もある。私にないものばかり持っている。そんな人に好意を持ってもらえるなんて奇跡だと思う。
――ぐらついてる。好きと言われ、態度で示され、一緒にいる時間が増えて、私が好意を持つのも自然の流れ。だとしても、それがどうしてかおぞましい感情に思えて嫌になる。
「恋愛相談なら、僕よりも大河にしてくれ」
「いやいや、あのゆるビッチに相談したら、四の五の言わずに自分と付き合えって言われるに決まってますよ」
「誰が、なんだって?」
口が滑った。大君とは仲良くなり過ぎている。私から大君に、大君から私に、良好な関係性がなければ許されない蔑称を冗談で口にすることはお互いにままあった。
前言撤回をする前に、ぐっと両頬を摘ままれる。痛い。これは力加減してない。怒りのままをぶつけられている。
さっき思い出したばかりの初対面の記憶が再び頭に浮かんだ。あの日と違うことは私が彼にびびっていないという点と、流星さんがガチギレではないという点だ。痛いことには変わりない。
「ふみまふぇん」
「まあ否定はしないけど」
「じゃあ、ふねらなくても」
「紫峰」
「ふみまふぇんって」
解放された頬を押さえれば、じんじんとしみるような痛みがする。随分と気安い仲になったと思うが、こんなのは嬉しくない。
今日の流星さんは気分屋らしい。海を眺めながら、他人事のように「じゃあ、ネルにしてきたら」と言う声は、親しくなれたと思ったのは私の勘違いだったかと考え改めるほど素っ気ない。
「ネルちゃんに?」
「ああ。恋愛相談ついでに大河を諦めるように説得してきてくれ」
「なんと私情」
「気分転換にはいいでしょ」
冷たいんだが、優しいんだか。
確かに、ネルちゃんには気分転換をさせてあげた方が良いと思う。全面的に賛成だ。
ちらり、と流星さんを横目にみれば、潮風に髪を揺らし、視界にかかる前髪を掻き上げる姿があった。デスクワークばかりで焼けていない肌の白さと夏真っ盛りの背景とのギャップで一層のこと不健康に見えた。同じ光でも、彼には日光の下より月光の下の方が似合う。偏見。
「あの島だよ」
「……結構、大きいんですね」
流星さんが指差す先にあるのは、私の想像していた島よりも幾分も大きなものだった。ぽつん、と浮いた絶海の孤島かと思いきや、白い砂浜もあるし、岩場よりも緑が目立つ。まさに金持ちが夏を満喫するためのプライベートアイランド。




