第3話 叩きつけられた濡れ衣
「っすみません! ここで男の人が襲われたって聞いたんですが!!」
唐突に聞こえてきた訴えはこの世の終わりを嘆くような迫真さだった。私の視線は吸い寄せられるように声の方へと向く。とはいえ、パーテーションの向こう側の出来事を透視することはできなかった。声色から男性だということは分かる。
「それって、潮木大河って男性じゃありませんか!?」
今にも突入してきそうな勢いで聞こえてきた言葉に、私はフクロウのようにぐいと首をひねって潮木さんの顔を見やった。見ずにはいられなかった。
おい、まさか次のストーカーじゃあるまいな。
私の心配をよそに、きょとんとした潮木さんは椅子から立ち上がって綺麗な顔を窓口の方へと覗かせた。それから、控えめな声で「兄貴」と小さく呟く。兄貴……、兄貴?
内緒話をするかのような小さな声であったが、潮木さんのお兄さん(仮)にはそれが聞こえたようで、終焉を想わせる絶叫で「大河っ!!」と空気を震わせた。強い喉をお持ちのようだ。残響が消えるのも待たずに、転びそうな慌てっぷりの足音が聞こえてくる。すごい、激情型のお兄さん(仮)だな。いや、弟があんな目に遭っていたら心配に決まっているか。それも日常的に。
蝶番が甲高い悲鳴をあげる音は、関係者以外立ち入り禁止のドアが力任せに開けられた証明。鍵、かかっていなかったっけ。私には入室を許可する声は聞こえなかったけれど、開いたものは開いたのだから誰かが入ってくるのは道理だった。
「大河……っ!! 怪我は!? 体調が悪くなったりはしてないね!?」
そうして、私たちの前に現れたのは一人の男性――、(仮)の称号は簡単に消え去る。
彼こそ潮木さんのお兄さんだと説明されなくても分かった。なぜなら、あっという間に私たちの前に現れた彼の顔が、これまた恐ろしいまでに整っていたから。彼が潮木さんのお兄さんでなければ、この空間に傾国の美丈夫が二人いる奇跡が起こっていることになる。奇跡っていうのはそう簡単に起こらないから奇跡なのだ。
お兄さんは潮木さんとタイプが違う端整な顔をしている。潮木さんは今時のイケメンという感じだが、お兄さんは芸術品みたいな美人だ。
つり目がちな潮木さんと違い、少したれた黒目。真っ黒な髪は艶やかで、肌の白さとのコントラストが尋常じゃない。耽美。宗教画から飛び出してきたような神聖さすら感じられて、逆に目に悪い気がしてくる。
「大丈夫だから。落ち着けよ」
「ああ、よかった……!」
弟の無事に歓喜しているお兄さんは、潮木さんの両肩に手を置いて安堵のため息を吐いたあと、射殺さんばかりに視線を尖らせて私を睨みつけた。
やっぱり、人間の中身を容姿で判断するって浅はかなことなんだなあ、と謎の所感が頭に浮かぶ。彼のことはすでに騒がしい人だと認識しているけれど、黙っているところを遠巻きに見ていたなら感情の起伏が薄そうな人だと想像しただろう。こうやって睨んでくるとは微塵も思わない。
しかし、なぜ、私は睨まれているのだろうか。なんで、お兄さんはこんなに怒っているんだろう。
怒気が色で見えるなら今のお兄さんは真っ赤だろうな、と変なことを考えてしまうのは現実逃避なのかもしれない。
「あ、おい、兄貴?」
ずかずかと近づいてくるお兄さんを前に私は何のリアクションもできなかった。ぽかんとしたまま、目玉だけを動かして彼の一挙一動を追うだけ。
やばい、と思ったときにはもう遅かった。
痛い――、そう気づく前に乾いた打撃音が驚き、骨と肉が痺れて視界が揺れる。涼やかな美人はなぜか、本当になぜか振りかぶった手で力一杯に私の頬を叩いていた。
無意識に叩かれた頬に手が伸びる。痛い。一瞬にして流血しているのでは、と錯覚するほど苛烈な熱を持った肌。痛い、痛い、痛い。涙の膜で目が覆われて視界が歪む。
突然やってきた激痛に私は呻き声を漏らしながら悶えた。舌が動かず、意味のある言葉を発せない。階段で感じた右手の痛みの比じゃなかった。
ゾンビよろしく体を揺らしながら、顔を伏せて意味不明の唸りを続ける私に潮木さんは「大丈夫か!?」と駆け寄ってきた。心配するように肩が揺らされる。やめて、その振動すらも痛みを誘発するから――そう言ったつもりが、音になったのは「うあ、あ、ううあぁあ」という本当にゾンビみたいな引きつった声だった。
「兄貴!? 何やってんだよ!?」
「お前、なんでストーカーを庇って――」
「違うって! 灯は俺のこと助けてくれた人! ストーカーと同じ部屋でのんびり並んで座ってるわけねえだろ!?」
おっしゃる通り。もっと言ってやれ。
顔を上に向けられないけれど、途端、異様な雰囲気になったのは嫌でも分かる。潮木さんの正論を前にお兄さんは口を開かない。重い沈黙、居心地の悪い空気。パーテーションの向こう側の駅員さんたちまでしんと静まり返っている。
私は刃物を持って男の人を追いかけたことなんてない。何も悪いことをしていないのに、こんなに頬を強打されるなんて理不尽あっていいのか。いいや、いいわけがない。
「……、すみませんでした」
しおらしい謝罪の言葉を聞いても、許す気にはこれっぽっちもならなかった。勘違いじゃしょうがないですね、なんて絶対に言わない。少なくとも、今は絶対に無理。
これ以上に混沌とすることはない――見計らっていたかのようなタイミングで、さっきの謝罪とは正反対の溌剌とした「すみません! お待たせしました!」という声が響いた。私と潮木さんについてくれていた駅員さんが二人の警察官を連れ、この奇妙な集まりに参入を果たしてくれたのだ。
お兄さんの存在を不思議そうに窺いながら、駅員さんは薄汚れてしまった私の鞄を手渡してくれた。そうだ、投げっぱなしだった。鞄にくっきりと残された足跡に、我慢していた涙がぽろりと落ちる。誰にも見つからないように慌てて拭った。
形式張った挨拶とともに一人ずつ別室で事情聴取を、と話をされて私はいの一番に手を挙げた。一番といっても私か潮木さんの二択だけれど。
淀んだ空気の中、私の意見は特に跳ね除けられることなく、ではこちらへと案内される警察官の背中についていこうとすれば、ぱしり、と音がなるほどに強く手首を掴まれた。
「待って、灯!」
ささくれ立った心ではポメラニアンに構われることすら厭わしい。私はさっきまでのことなんてなかったようにくるりと手のひらを返して、随分と馴れ馴れしいなと心の中で潮木さんを批判していた。
顔がいいとこういうコミュニケーション方法になるのだろうか。なんとなくで年齢を推測しているだけであるが、彼は絶対に私より若いはずだ。年上を敬え、なんて偉ぶったことを言うつもりはないが、距離感は大事にして欲しい。
潮木さんに恨みはない。でも、お兄さんのビンタだけで彼の評価もがた落ちである。情けなくも、私は器の小さな人間だった。
「ごめん、兄貴が悪い」
「いえ……、お兄さん、潮木さんのこと心配だったんだと思いますよ」
思わず私を殴るほどにな。
台詞と態度が一致していない自覚はある。
潮木さんに申し訳なさそうな顔をされたって、お兄さんに神妙に謝られたって、やはり許す気にはならない。これについては心が狭いからではなく、暴力を振るわれたからである。決して、心が狭いからではない。
「それでは」
強引に幕を引き、逃げるように潮木さんたちに背中を向ける。私はこの場にいたくなかった。もう涙を堪えるのも限界だったから。
暴行で訴えないだけ感謝しろよ、と心の中で捨て台詞を吐いた。