第38話 忍び寄る影
「あの、君、そこから海まで行ける?」
「なんで?」
「そこに座っていたら、悪い人が来たときに逃げられないでしょう?」
少年人魚はびくっと肩を揺らし、恐怖の視線で私を射抜く。違う。私はそんなことしない。
両手を挙げてじりじりと後ろに下がった。必死の無害アピールをしながら、ひょろひょろの声で「私ここから動かないから、ね! 約束! ここにいるから、海に行ってください!」と願い出るさまは、傍から見たら間違いなく変態だ。
きらりとした青い目が猜疑心に満ちていく。
「わ、私、ネルちゃんの友達だよ!?」
一生懸命に言い訳をすればするほど、どつぼに嵌る感覚だった。それでも、言葉を連ねることはやめられない。
結局、少年人魚はずるずると鱗に覆われた下半身を引きずりながら浜辺を移動し、数分の時間を使って濡れた砂の上に辿り着いた。
あの位置なら、電話中に最悪があっても海に押し込める。
「君、なんでここに?」
「ここどこ?」
「……迷子?」
「僕ね、遊びに来たの」
「えーっと、帰り道は分かる?」
「ううん。分かんない」
「えっ――」
身振り手振りで聞いた以上の答えを返してくれる姿は本当に愛らしいのだが、無防備かつ純粋すぎて心配を超えて戦慄した。一人じゃ帰れないところに遊びに来て、一人で陸に上がっているとはどういう了見なんだ。いや、この年の子にそんなの求める方が間違っているか。
「ちょっと待ってね」
少年人魚から目を離さないまま、自分の身体が障害物になるように入り江の入り口を塞いだ。震える手でスマホを操作するのは難しい。早く早くと焦るほど手元が覚束なくなる。
無機質なコール音に荒い呼吸とが重なった。
「はい、潮木」
「もっ、もしもし、紫峰です」
「――、何があった」
「じ、実は、入り江にっ、人魚が迷い込んでいて……!」
「人魚?」
「はい。まだ子供で――」
「子供じゃないよ! もう七歳だもん!」
「だそうです」
子供扱いされたことにご立腹のようで、少年人魚は波打ち際でわーわーと喚いている。短い手と尾ひれを一生懸命動かしている姿は、この状況じゃなければ手放しで可愛いねと嘆息していた。。
ごめん、とジェスチャーをしてみたが、全然通じなかった。
「……そのまま待機してて。ネルを行かせるから」
「分かりました」
「紫峰、人の気配があったとき、その子を連れて海に潜れる?」
「……はい。できます」
始まりは騙し討ちだったとはいえ、私も異保管の補助員だ。試用期間の見習いではあるけれど、どういった動きをしなければならないかは分かっている。
通話が終わり、私は静かに息を吐き出した。
想像でものを言うのは早計であるが、少年人魚がここにいることをよいとは思えない。どうしたって、悪い妄想が先走ってしまう。
早く来て、ネルちゃん。お願いだから、早く――。
「ネルちゃんが迎えに来るから、一緒に待ってようね」
それから、さながら酔った男に言い寄る大君のように「何もしないから」と言い訳をして、少年人魚の隣に並んで座ることに成功した。
改めて目にした少年の白い髪に青い目は異国を思わせるそれで、ネルちゃんを初めて見たときを思い出す。あんな驚き人生で何回もない、鮮麗な記憶だ。
「お名前はなんていうの?」
「知らない人間にお名前を教えちゃいけないんだよ」
「そうだね。えらいね」
「えへへ」
「じゃあ、ここにどうやってきたのか覚えてる?」
「起きたら、ここにいて――」
遊びに来て、起きたらというのは、話が繋がっていないと思うんですが、どうでしょうか。
脳裏で自問しても答えは返ってこない。嫌な創造が膨らむたびに、口の中に唾液が溜まっていく。
「ネルちゃんに海岸に近寄っちゃいけない、って言われなかった?」
「一人じゃ駄目って言われた」
じゃあ、誰と来たのという話なのだが、私がその質問を口にすることはできなかった。
物音。
それも、海からではなくて、陸からだ。
一瞬にして体に緊張が走る。私は許可も求めずに少年人魚の手を取り、ざぶん、ざぶんと冷たい海をかき分け、深いところへと足を進めた。
少年人魚はきょとんとした顔をしていたが、へらへらとしていた私が急に真面目な顔になったのを見て、何かを察してくれたのだろう。大人しく一緒に海へと沈んでくれた。
今は素直でいてくれて助かったが、私が誘拐犯だったら、こんなに簡単な誘拐はないと思う。
「こっち」
白衣が水を吸い、体に張りつく。動きにくいが、そんなの気にしている場合ではない。
初めて入り江から海に出たけれど、急に深くなっていて足はすぐにつかなくなった。目前は広大な海、背中は岩肌。僅かなくぼみに身を潜め、ゆっくりと呼吸する。どうしよう、怖い。
「静かにできる?」
少年人魚はこくこくと首を振って返事をしてくれる。繋いでいた手を握り直せば、力強く握り返された。
恐れとか焦りとか、悪い感情が伝わってしまっているのだろうか。子供を不安にさせるなんて。冷たいはずの海水の温度を感じられない。追い込まれている感覚にどうにかなってしまいそうだ。
波の音に紛れて足音がする。声はしないが人の気配がある。
横目で岩の裂け目から砂浜を見やれば、動く人影が目に入った。しかし、私の位置からではちゃんと姿は見えない。人がいるのは分かるが、誰かが分からない。
私は止めなければと頭で分かっていながらも、深々と顔を入り江に覗き込ませていた。なぜか、そこにいる奴を突き止めなければならない、という責務に追われていたのだ。
しかし、これは失敗だった。やはり、やめておかなければならなかった。
ばちり、と視線が交わる。
「あれ、紫峰さん?」
唐突な安堵は心臓に悪い。急に血の流れがよくなったように感じられ、頭がじんじんと熱を持ち、ぐらぐらと眩暈がする。
「み、たかさん……」
三鷹さんが何か声をかけてくれていたけれど、私の耳には意味のある言葉としては届かなかった。自分の心音が大きすぎて、他の音が聞こえない。ゆっくりの呼吸を繰り返し、窮地ではないことを自分に言い聞かせる。
ようやく動けるようになった私は少年人魚の手を引き、ほんの数分で老化してしまったかのような体で時間をかけて浜辺に上がった。まだ頭の中が騒がしい。




