第36話 幸せにしたくなる
「でも、驚きました。本当にいるんですねえ」
なにが、と問うのは野暮だろう。
私と大君は記憶に新しい失態を思い出して顔を歪めた。例え、三鷹さんが信頼できる人間だったとしても不祥事は不祥事である。
「紫峰さんは知ってたんですか?」
「まさか。私も研究所でお手伝いするようになってから知りました」
現実逃避しがちではあるが、さすがに夢想との区別はつく。世の中の常識の通り、人魚なんて存在しないものだと思っていた。
私は残り少なくなったジョッキを傾け、最後の一滴までを喉に流し込む。三鷹さんの人魚と初遭遇の話は耳に痛いのだ。流せるものなら、全部流してしまいたい。
私にならってか、頭に浮かんだ思考を消し去るためか、大君も杯を乾かしていた。間髪入れずに、おかわりを頼むために注文用のタブレットを抱える彼の気持ちはよく分かる。
「大君、私の分も一緒に―ー、誰かの電話鳴ってる」
テーブルを揺らす振動。全員が自分のスマホに目をやる。あたりは大君だ。着信を訴えて光るディスプレイ、見えてしまった相手は知らぬ名前だった。
大君は無言で私に注文用タブレットを押しつける。ちゃんと私の分も入れてくれていた。さすが。
「出てくる」
「うん」
「省吾、灯に変なことすんなよ」
「大君さあ……」
スマホを手にするなり、大君は三鷹さんに無意味な忠告をした。
大君はどんな立場で、どんなつもりで、そんな発言をするんだ。私からすれば恐れ慄くことはあっても、可愛いなあなんてほっこりすることはない。私のせいで大君の何かが歪むようなら、私は流星さんに殺される。もうカウントダウンは始まっているかもしれない。。
不遜な態度で独占欲を語る大君が個室から出たところで、私は三鷹さんへ「本当にすみません」と謝罪していた。彼は少し情緒不安定の時期なんです。
「大河君は本当に紫峰さんが大好きなんですね。慕っているのが隠せていないですもん」
「親友であって弟みたいな感じではあるんですけど」
「じゃあ、大河君はシスコンさんですね」
シスコン……。潮木の血を想えば納得の判定である。
ただ、私の意見は違った。大君のはどちらかと言えば、思春期特有の友愛の拗らせだと思っている。友達との距離感が分からず、近づき過ぎてぶつかったり、どこまで離れていいかの距離感が分からない。きっとそのうち適応するはずだ。多分。
「三鷹さんはさすが営業というか。コミュ力高いですよね」
「いやいや、俺なんて好きにしゃべってるだけで」
「私にはそれができないときがあるので、とても羨ましいです」
「あは、そうなんですか」
肯定の返事をしてるだけなのに可愛いなんて、やはり人柄と愛嬌は大事だ。この年齢だと意識し続けないと矯正も上手くいかないからなあ。
お兄ちゃんに「お前はどうしてそう一言多いのか、だから話か拗れるんだ」と言われたことがつい昨日のことのように思える。お兄ちゃんとしては軽口のつもりだったのだろうが、私の心にはこの台詞が強く根づいていた。
余計な一言というのは口を出てから気づくのだ。余計だと分かっていて、わざわざ口にするほど愚かではない。
「三鷹さんは人当たりが良いし、知らない人とも話せるし」
「俺は紫峰さんの方が羨ましいですけどね」
私のいいところなんて何があるんだか。
「流星さんに聞きましたよ。女性が苦手な大河君の唯一の女友達だって」
「私のは出会いが出会いだったからで」
三鷹さんはしゅんと悲しそうな表情で「大河君に聞きました。お二人とも大変でしたね」と口をへの字に曲げた。
「助けられたことに感謝することと、友達になりたいと思うことは別の話ですよ。大河君が紫峰さんと交友をもったのは、あなたにその魅力があったからですよ」
魅力――、なんて馴染みのない言葉。ここのところ、出会う人が魅力的な人ばかりだからさらにそう思える。
何が面白いのか、三鷹さんはこらえきれないように噴き出した。笑ったときに見える八重歯が人懐っこさを助長させている。
「紫峰さん、控え目なんですねえ。もっと自信持っていいのに」
「や、どっちかっていうと駄目で嫌な奴よりなんで」
「あんまり謙遜すると嫌われちゃいますよ?」
そんなこと言われても、厳しい自己評価は危機回避に必要なスキルだと思ってるし。謙遜しすぎる奴が苛つくのは分からないでないが、自分のこととなると話は別である。
がんがんに予防線を張りたい。そもそも、自信もないくせに人目を気にしている面倒な人種なのだ。
「……え? まさか、紫峰さん。本気で自分なんてと思ってるんですか?」
「……はあ、 まあ」
「ええ、もったいない!」
あんまりよいしょしないで欲しい。私だって多少のネガティブは自覚がある。自己評価が低いからといって鈍感ではないのだ。低く評価されてる方が生きやすい。それだけなのだ。
後ろ向きだとは思う。それもこれも過去のお見合いのせい、というのが私の推察である。親の選んだ相手と結婚するのが当然だと刷り込まれていたけれど、抑圧された心のどこかでは結婚なんてしたくないと無意識のうちに拒絶していたのだと思う。
否定的でいれば選ばれない、無関心に振るまえば断られる。
「……紫峰さん」
「はい」
「今日、ご一緒できてよかったです。紫峰さんのこと、もっと好きになりました」
「……はい?」
「幸せにしたくなるタイプですね」
熱い。絶対に顔が赤くなっている。言われ慣れていない言葉。それも私を女として好としてくれるような言葉は私のメンタルに非常によく効く。
三鷹さんの視線を回避するために、わざとらしく俯いていた。子供みたいな反応をしてしまったが、経験に乏しい私にできる対処法は多くないのだ。
「ふふ、可愛い」
あー、あー、あー、もう駄目。本当にこういうの向いてない。うぶも大概にしたい。二十代の初々しい反応なんて需要ないから。
私の心の中の叫びはどうしたって三鷹さんには届かない。普段は子犬のようなくせに、静かに笑い声を堪える音が大人の男性を感じさせ、私の体を更に熱くさせた。なんだこれ、恥ずかしい。
にこにことする三鷹さん、真っ赤になって萎縮する私。
私の無言の耐久が終わったのは、ばたばたと騒がしい足音が部屋に飛び込んできたからだった。
「わわっ、何ですか!?」
「うあぁっ!?」
三鷹さんの驚き方の方が可愛いという現実。いや、そんなのはどうでもよくて、飛び込んできたのは当然に大君だ。彼は個室に入るなり、三鷹さんを盾にするように部屋の奥へと収まった彼は何かに怯えていた。
ああ、この反応は見たことがある。
「大河クン!!」
――ほら、やっぱり。
「帆座さん、こんばんは」
もうすっかり見慣れてしまった綺麗なお人形さん。今や、すんなりと挨拶をしてしまうまでになった。勿論、返事は貰えない。
帆座さんはいつでとどこでもこんな感じだな。通常運転、通常運転。
状況を理解できていない三鷹さんはぶんぶんと大きく首を振りながら、大君と帆座さんとを見比べて、最後には私に向き直った。「え、えっと? お知り合いです?」と珍しく困ったような顔で首を傾げた。
「お知り合いというか――」
「大河クン! ゆにと一緒に飲もうよ!」
帆座さんの視界は本当に特殊だ。顔は認識されてるはずなんだけどな。
やっぱり、帆座さんは他のストーカーと違うんだよなあ。登場回数はトップクラスで愛執も強烈だけれど、大君を傷つけるようなことはしないし、引き際を分かっている、と思う。
三鷹さんは帆座さんと大君に挟まれてあわあわしている。三人の姿が微笑ましく見えたが、大君にしてみれば裏切り者もいいところだろう。ごめんよ。
結局、この集まりはここでお開きとなり、私が帆座さんを引き留めている間に三鷹さんが大君を連れて逃げ帰った。三鷹さんに自分はしばらく恋愛をするつもりはない、と伝え損ねたことだけが心残りである。




