第33話 秘密の露呈
大君が勝手に帰る前に連絡をつけておかなければ、と電話をかけたものの、やはりというか出てくれなかった。デジャヴ。最悪の想像が浮かび、ぶんぶんと首を横に振って悪い考えを捨てる。大丈夫、余計な心配だ。
気づいたときに返してくれるだろう――と、スマホを手放そうとした瞬間に着信した。相手は大君である。
「もしもし。大君? 今日、流星さんは用事があるらしくて、帰りは私と一緒に――」
「灯……、どうしよ……」
「大君?」
電話の向こう側、大君の声は消え入りそうに弱々しい。
「……どうしたの?」
「それが、あの三鷹さんが」
聞かされた名前に心臓がぱちゃりと潰れた。捨て去ったはずの仄暗い妄想が舞い戻ってくる。口の中はからからに乾き、舌がはりついて動かない。どうにか声を出そうものなら、声の代わりに血液が噴出しそうだった。
「…………み、三鷹さん?」
「俺とネルがいるところに、その、居合わせて――」
大君はそこまでを口にして、言葉を詰まらせた。
ぎゅっとしまった気管から肺に残った空気が外に出ようとして、ぎゅるると耳障りな音が鳴る。視界が上下反転を繰り返すようにぐらぐらと揺れた。やばい、どうしよう。やってくれたな、三鷹さん。いや、違う、三鷹さんを引き寄せてしまったの原因は私だ。なんで、どうして。
「ネルちゃんのこと、み、見られたの?」
「――ああ」
大君の返事が遠くに遠くに消えていく。私の気が遠くなったのではない。いつの間にか後ろに立っていた流星さんの手に私のスマホが握られていた。
「僕が処理する。そこで待っていて」
流星さんの表情は無だ。焦った様子もなければ、苛立った様子もない。何事もないような熱のなさで大君の名を呼ぶ。それが逆に恐ろしかった。
流星さんは通話を切った電話を無言で私に押し返す。私の口は「すみません、私のせいで」と先走るように謝罪していた。とにかく謝らなくちゃと思っていた。頭の中は真っ白である。
「モテてすみませんって?」
「違いますよ! ネルちゃんのこと軽々しく人に知られてはいいことじゃないでしょう!?」
流星さんが予定調和で私を研究所に引き込んだときとは話が違う。
三鷹さんは何も知らない、そして、私たちも三鷹さんを知らない。もしも彼が人魚のことを口外してしまったら? その結果で誰にどれだけの影響が出てしまうのか。ちょっと想像しただけでも、不安が瞬く間に膨らんでしまう。
「紫峰」
私を呼ぶ声色は泣きたくなるくらいに優しい。
私の両肩に乗せられた流星さんの手――あの日、私の頬を打ち抜いた手が今は酷く温かく思えた。ぐずぐずと涙が滲む。
「確かにきっかけは紫峰かもしれないけど、その男をここに誘ったわけじゃないんだろ。先週のこともあったのに、あそこで会っていた二人が悪い。君が謝ることないよ」
「流星さん」
「悪いけど残業ね」
それは構わない、けれど。
急ぎ足でもなく、流星さんは静かに研究室を出ていく。
――、怒ってもらえた方が楽だった。流星さんは本当にそう思っていたのか、気遣ってくれたのか分からないが、私は私に責任があると思っている。私があの秘密の場所を晒してしまったのだ。外部の人間を引き入れてしまった。もっと、大君とネルちゃんに注意すべきだった。
後悔しても遅い。
流星さんが大君と三鷹さんをつれて戻るのに時間はかからなかった。しかし、私の体感では随分と遅かったように思える。真綿で首を絞められるように、じわじわと自責の念に苦しめられていた。
いささかテンション高めである三鷹さんと真っ青の顔色で死人のような大君が並んでいる。大君の心の声が聞こえるようだった。それは私の心の声とぴったり重なる。
「紫峰さん! こんにちは!」
「……こん、にちは」
三鷹さんは私を見つけるや否や、ばたばたと駆け寄ってくる。
彼は空気が読めないのだろうか、よく。ぎすぎすとした殺伐の雰囲気。針千本が降り注ぐような緊張感。呼吸のたびに肺に穴が開いていくようで、苦しくて仕方がない。
怯える大君と痛みに揺れる私とが視線を向けるのは、部外者である三鷹さんではなく流星さんだった。
部屋を出て行ったときに私を気遣ってくれていてた様子は微塵もない。しかし、今は不機嫌を煮詰めたような刺々しさを感じられる。まさしく、私を大君のストーカーだと勘違いしたときと同じ。
その矛先は間違いなく三鷹さんだった。流星さんは大君の害になる人間には容赦ない。
しかし、その威圧に一番当てられているのは守られているはずの大君だった。
「会えて嬉しいです」
「ど、どうも」
「前にこの辺で見かけたので、偶然でも会えるかなって」
「……」
「紫峰さんは人魚をご存じだったんですか!?」
少年のように幼い笑顔。ちらりと見えた八重歯に、糸のように細められた目。なんて純真な反応だろうか。気持ちは分からないでない。あの美しい人魚を目にしたとき、私の心を支配したのも驚きと感動だった。
彼の眩しさを真正面から受け止めることはできなくて、どうしたらいいか分からないまま誤魔化すための笑顔を浮かべるしかできない。それで何が解決するわけでもないのに。
「紫峰」
まるで地獄からの呼び声。底冷えする声は三鷹さんのはしゃぎっぷりを制すように響いた。不思議な感覚だった。私の名前が呼ばれたはずなのに、私を咎める響きは欠片も感じられないのだから。
「君はネルに説教してきて」
……説教? そんなの出来る立場ではない。
断ろうと口を開いたが声は出なかった。流星さんはちらりと展望室へ目配せをする。ああ、この部屋から離れていろという意味か。
了承をして席を立ったものの、動揺は全身を支配していて転ばずに歩くのが精一杯だった。
「君の行動は拘束させてもらうようになるけど」
「はい! 紫峰さんと一緒にお仕事できるなら!」
海中展望室に向かう背後で聞こえた会話に喚き散らしてしまいたかった。三鷹さんの言い分を聞けば聞くほど、この事態はお前が引き起こしたんだぞ、と責められている気分だ。
重い足で階段を下がり、海中を沈んでいく。空調管理はされているはずなのに凍てつくほど寒い、息苦しい。
展望室に入るための扉を開けば、背中を丸めて足場に座るネルちゃんがいた。扉の開閉音に顔を上げた彼は血の気の引いた顔で私の名前を呼ぶ。かすれた声に悲痛さが滲んでいた。
「ネルちゃん」
この部屋に向かうまでの鈍足さは何だったのか、というくらいに早足になる。階段を駆け下り、ネルちゃんの傍に膝をつけば、ただでさえ白い肌が青く染まっているのが分かった。
「ごめん、ごめんね」
「なんで灯ちゃんが謝るのよォ」
「私がここに来なければ、こんなことになってなかった」
だって、大君が片想いしているという一年間、あの入り江での逢引きはずっと秘密のものだった。流星さんが懸念していたとしても、実際には露見していなかったのだから。二人だけのものだったのに。
「……アタシが悪いのよ。入り江で会うくらいなら、ここにしなさいって流星ちゃんには口酸っぱく言われてたのに」
「ううん、公私混同したくないのは分かるから」
ネルちゃんと大君が入り江を選んで会っていたことは、推奨はできないが理解はできる。仕事じゃないのだからこの場所を使うことは気が引ける、というのは良し悪しはともかく同意できた。
だからこそ、後悔が募る。流星さんの助言を聞いておくべきだった、と。
私はもはや自分の存在の責任と、大君とネルちゃんへの同情で疲弊しきっていた。脆弱なメンタル。自己嫌悪の渦に呑まれていく。




