第28話 杞憂だといい
「紫峰、進捗は?」
出張からお帰りになった流星さんの最初の一言がこれである。
手書きのメモを元に清書した報告書はすでにメールにて提出済みだ。その旨を伝えれば「所感は?」と世間話もなく、仕事の話をお続けになられた。
私は人型異生物保護管理機構の事業概要を頭に叩き込む作業を止め、流星さんへと身体ごと向き直る。スーツが大変お似合いですね。
「ネルちゃんにもう少し優しくしてあげられないんですか?」
「恋愛にかまけて仕事がおろそかになるのは、駄目な社会人だと思わない?」
「それはそう思います。でも、ネルちゃんがおろそかにしているところを見ていません」
「それは羨ましい」
流星さんは小馬鹿にしたように鼻で笑う。感じの悪い反応だと思う反面、この塩対応に喜ぶ人種も多いだろうなと思う。本当に見た目だけは文句なしなんだよなあ。
こいこいと手招きされ、素直に近寄れば、紙袋を押しつけられた。「お土産! ありがとうございます!」と心の声が声帯を突き抜けて音になる。やばい、また呆れられるかもと恐る恐る窺い見たけれど、特に気にしているようには見えなかった。セーフ。
「ネルちゃんには十五時くらいにもう一度来て欲しいとお願いしてるので、調整をよろしくお願いします」
「分かった。それまでに報告書に目を通すよ」
「まだ時間がありますし、休憩した方がいいんじゃないですか?」
「ネルからの報告が終わったらね」
休憩以前に直帰でお休みにした方がいいと思うが、そうもいかないのだろう。
流星さんの場合、生物学者も機構員どちらも本業。そのうえ、この研究室に出入りするのは彼と大君とネルちゃんと私で全員らしい。一人でどれだけ仕事をこなしているのだろうか。自分が流星さんの立場だと思うとぞっとする。
縁があって雇われたのだから、少しくらい彼の手伝いになれればいいが、自席に積まれた本たちがそれはまだまだ先のことだよと教えてくれていた。
「難しいことはなかったでしょう?」
「はい。専門用語があってもネルちゃんに教えてもらえますし」
「来週から聞き取りの作業は任せてもいい? 時間は今日と同じ」
「分かりました」
私に寄せられる仕事は寄せてもらって問題ない。働いている方が気が楽だ。ド素人の私にはお勉強も仕事の内なのは分かっているけれど、どうも机に座って本を読むだけというのは落ち着かない。
コーヒーを飲みながら、中断していた歴史書に再び目を通す。異人関連はどれもこれも私の常識の範疇になく、凝って練られた創作物のようだった。だからこそ、飽きずに読めるというのもある。
読み耽っているうちに、あっという間に時間は過ぎていた。時計はすぐにでも予定の時間を指しそうだ。
「そろそろ十五時なので、海中展望室で待ってますね」
「ここで待ってていいよ。ネル、僕とは連絡取れるから」
流星さんは机に置かれたスマホを白魚のような指でとんとんと叩く。
人魚は携帯なんて持っていないと勝手に思い込んでいたが、そんなことはないらしい。電波が届くのか甚だ謎であるが、連絡が取れているということは余計な心配なんだろう。
おとなしく再び着席した私に、流星さんは「紫峰の分は手配中。来週には渡せると思う」と続けた。確かに、ネルちゃんと連絡取れないと不便だから有り難い。
一分、五分、十分――、三十分を回ったところで、私はたまらずに「遅すぎませんか?」と流星さんの仕事に横やりを入れた。
「そうだね。社会人なら待ち合わせ時間に間に合わないと分かった時点で、一報を入れるべきだよね」
「何を悠長なこと言ってるんですか! 誘拐が頻発してるって言っていたのに! まさか、何かあったんじゃ――」
誘拐されているのは、危機を持たずに海岸に近づく幼い人魚が多いと言っていた。しかし、人のいる場所に来るという点ではネルちゃんも同様だ。大君もネルちゃんとの初対面は、彼が攫われそうになっているところと言っていたくらいである。心配過ぎて眩暈を起こしそうだ。
「出ないな」
「――――っ!?」
電話を耳に当てていた流星さんの言葉に声が詰まる。
ネルちゃん、誘拐、闇オークション……!
「……紫峰、入り江を見てきてくれる? 状況確認したら電話で報告して」
「わ、分かりました!」
何事もありませんように、すぐに連絡が取れますように、無事でありますように!
入り江までの短い道のりを私は一生懸命に走った。足場が悪くて何度も転びながら、とにかく何事もないことを祈るばかり。
ネルちゃん、大丈夫だよね、何も起こってないよね。
入り江に繋がる洞穴に入ると、小さく話声が聞こえた。――ネルちゃんの声!
「ネルちゃんっ!!」
叫びながら入り江に飛び出れば、二つの人影。
「灯ちゃん?」
「灯?」
「ネルちゃん! 大君も!」
あああ、よかった! 話し相手、大君だった! 何事もなかった!!
突然乱入してきた私の意味の分からなさに、二人は双子のように首を傾げている。きょとんとしちゃって、もう。
安心したら力も抜けるし、目も熱くなってきた。転んだときにぶつけた場所が痛みを訴え始める。
大声とともに現れ、直後に目頭を押さえて、その場で俯いた私の行動は傍から見たら随分と奇行だっただろう。言い訳させていただくなら、二十歳後を過ぎてから年々、涙腺は弱くなるばかりなのである。
「はっ? 怪我だらけじゃねぇかよ!」
「無事でよかった! 時間になっても来ないから心配で! 電話も出ないし!」
「――やだっ、もうそんな時間!?」
ネルちゃんははっとして大君の腕時計を覗き込んだ。もうすぐ十六時だよ、ネルちゃん。
「悪い、俺が――」
「こんにちは、紫峰さん!」
「えっ」
大君がネルちゃんを庇うための言葉は、謎の声にかき消された。男の声。私と大君の驚きの声が重なる。
この場に現れて許されるのは、私が知る限り流星さんしかいない。しかし、私の名前を呼んだ声は彼のものではない。
暴れ出す心臓、安堵の涙は吹っ飛んだ。現状を理解すべく頭が働き始める前に、勢いに任せて振り返った。
入り江に繋がる洞穴の道の出口に男が立っている。
「み、三鷹さん!? 何で、こんなところに――」
黒髪、眼鏡、万人に受けそうな愛嬌のある笑顔。私に一目惚れした、と理解不能な思考を披露した、あの価値観の合わない営業さんだ。




