第27話 一人のお留守番
三度目の副業のお仕事。
三度目にして、流星さんは不在である。まさかの。
本業の学会らしく広島まで出張だそうだ。午後には帰ってくるらしい。そのまま家に帰らず研究所に来るというのだから、熱心なものだ。お土産楽しみだなあ。
流星さんがいないからといって仕事がなくなるわけでもない。引き続き、異保管関連の勉強中であるし、ネルちゃんから月次報告を聞き、報告書をまとめることを言いつけられている。
「ネールちゃーん」
研究棟の海中展望室からの景色は、本当に心躍るものである。初来訪のときの恐怖はすっかり消え失せていた。
海中を眺望できる部屋で人魚が一人、上機嫌に鼻歌を歌っていた。映画のワンシーンか。
「こんにちは、灯ちゃん」
「こんにちは。お待たせしました」
手にしたバインダーには、報告書の記入項目が書かれた紙が挟まっている。流星さんが用意してくれたものであるが、彼からの付箋にはたった一つだけ。それも「聞き取りよろしくね」と昨日の夜にかかってきた電話の内容と一字一句、同じである。何と放任。もうちょっと気の利いたアドバイスあったのでは。
「ごめんね、私じゃ至らないこと多いかも」
「最初は皆そんなものよォ」
「えっと、状況聞き取り、を行います」
「ふふ、よろしくね」
この右も左も分からない新人感覚はちょっと懐かしい。新しい仕事をするときは気楽だ。間違っても仕方がないという余裕がある。まあ、だからといって積極的に間違えていいわけじゃないが。
聞き取りは対人アンケートのようなもので、何も難しいことではない。最初こそ無責任に仕事を投げつけられた気はしたが、流星さんがいると緊張するし、大君がいると気が散るし、むしろネルちゃんと二人で気楽なものだ。
大君も本業のお仕事らしい。ここに来るかは知らない。
「え、じゃあまた誘拐未遂があったんだ!?」
「ええ。海岸には近づかないように、って警告は出しているんだけど、強制力があるわけじゃないから。子供たちは度胸試しにって近寄っているみたいなのよォ」
人魚も人間も、思春期には非行に心ときめくのだろうか。
「その話は直接、流星さんにしてもらった方がいいかな。あとの件はこっちでまとめて報告しておくね」
他に異常がなくても、誘拐事件の多発はそれを無に帰してしまうほどの大事件である。流星さんも気がかりにしていたし、何か有効な対策が出てくればいいけど。唯一、不幸中の幸いは誘拐した人魚を利益に換えるルートが限られていること。最悪の最悪だけれど、誘拐されたあとでも保護できる可能性は高い。
バインダーを見つめてうんうんと私が呻っている間、ネルちゃんはじっとこちらを見つめていた。
宝石のような紫の瞳に水面の揺れが映り込み、静かに煌めいている。
不細工だったら緊張しない、とか失礼なことは言わないが、美人に近距離で顔を突き合わされたら一層に照れるものだ。ネルちゃんには自分の顔面がどんなものか、今一度再考して欲しい。
「――ネルちゃん、他にも何か気になることがある?」
「えっ――あ、ううん! ごめんね、違うの」
無言の訴えかと思いきや違うらしい。
「ただ、灯ちゃんって、ちゃんと仕事してるなあって」
「お給金出てるんだから、そりゃちゃんとやるよ」
こんな好待遇の仕事、求人情報として世に出ていないと思う。しかも、仕事の難易度も高くないと来たら、与えられた業務はまっとうして当然のことだ。
「ふふ、灯ちゃんが来てくれて良かったわァ」
「そう? 私じゃなくても変わらないんじゃない?」
「ううん。そもそも、流星ちゃんから許可が出る人間なんていないもの」
どんだけ許容範囲が狭いんだ、あの人。
多分、大君がすべての判断基準なんだろうけど。そのたった一つの基準がエベレスト級に高いハードルであるのを私は知っている。
「流星ちゃん、アタシのことあんまりよく思ってないから。間に入ってもらえると、ほっとするわ」
流星さんがネルちゃんのことをよく思っていないのは、大君との関係性の話だけだと思うが、態度にも出ているのだろうか――、ネルちゃんがこんなに明確に口にするくらいなのだから、出ているんだろうな。それでは確かに仕事がしにくい。
流星さん、ぱっと見は落ち着ていててたおやかな印象なんだけどな。動作も丁寧で綺麗だし、声も丁度いい低さで耳に心地よいし、外向けの言葉遣いは柔らかく優しい。こうして考えてみると完璧超人だな、皮一枚剥いたら悪魔だけど。
「……流星さん、大君のこと好き過ぎるから」
「そうねェ」
これ以上のフォローはできない。
ネルちゃんも同意なのだろう。頬に手を当てて笑う姿は、潮木兄弟がその実、残念兄弟であることを良く分かっているようだった。
「灯ちゃんは兄弟いる?」
「いるよ。兄と姉が一人ずつ」
「仲はいい?」
「うん。仲良し、仲良し。私、実家はもっと北なんだけど、両親よりも二人と連絡とってるし」
私に結婚をしろと迫る両親に対し、兄と姉は私の自由にしたらいいと理解を示してくれている。むしろ、逃げろと背中を押してくれたくらいだ。
お兄ちゃんは地元で就職、高校の頃の同級生と結婚し、実家の近くで幸せを謳歌している。結果的に親の勧める田舎の習慣に逆らわないことになっただけで自分の選択だ、と言っていた。その通りだと思う。必要があれば、実家を出ていく行動力も決断力もある。
お姉ちゃんは私と同じく家を出て、都内就職して出会った人と結婚、子育てしながらもバリバリ働いている。両親とお姉ちゃんは不仲で私以上に連絡を取っていない。長女と二女の違いなのか、両親はお姉ちゃんにお見合いだ、実家に戻ってこいと騒いだことは一度もなかった。
二人とも自慢の兄姉だ。いつも私の味方でいてくれる。
「ネルちゃんは?」
「お姉ちゃんと二人姉弟よ。今度紹介するわねェ」
「うん、楽しみにしてるね」
ネルちゃんのお姉さんかあ、どんな人だろうか。
十八とは思えないほどしっかりしている彼の姉ならば、同じように自立した子だったりして。いや、逆にとんでもないぽんこつの可能性だってある。その分、弟がしっかりしてしまったとか。
「いったん解散にしようか。十五時に流星さん戻ってくるから、それくらいにもう一度来てもらってもいい?」
「分かったわァ。また後でね」
「うん。ネルちゃんも行き来の道中気をつけてね」
「ありがとう、気をつけるわ」
可愛らしく両手で手を振り、ネルちゃんは静かに海中へと潜っていった。
それからすぐに、こつん、と窓が叩かれる。
光差す海の中に漂う彼は本当に神秘的で芸術的だ。エメラルド色の尾ひれはうねり、肌に散りばめられている鱗が光を受けて輝いている。海上では目立たないえらがくっきりと見え、やはり本当に人間とは違うのだなと再確認させられた。
「ばいばい」
厚い壁の向こう、声は聞こえないが唇の動きは伝わる。手を振る私へ、ネルちゃんはちゅ、と投げキスとウインクをして青の中に消えていった。
私は心臓を抑えてその場にうずくまる。経っていられなかった。可愛い。なんて、可愛いんだろう。推しにファンサしてもらったような幸福感。見えない矢がぶっすりと心を射抜いていた。




