第21話 麗しの人魚
「ま、あまり構えないでよ。紫峰さんは適性があるよ。この仕事」
「大君と友達だからですか?」
「それを除いても」
「本気で言ってます? どの辺がですか?」
「疑い深いな。僕の言葉が信じられないなら、大河に聞くといい」
彼と関わったのはトータルでもせいぜい一時間そこらだ。それでどんな適正が判別できるのだろうか。
流星さんはくすくすと口元に手を当てて控えめに笑声をあげた。カメラでも回ってるのかと勘違いするほど所作が美しい。こんなに綺麗な容姿に生まれたなら人生も楽しいだろうな。不躾な視線も向けたくなるものだ。
「不明点がなければサインをもらえる?」
「大君のあれこれは冗談として、業務としては流星さんのお手伝いなんですよね? 試用の試用期間の前に、具体的には何をすればいいかを先に聞かせてもらえませんか?」
契約書の業務内容には雑務としか書かれていない。
これで本当に大君の恋をどうにかするのが仕事なら、申し訳ないがお断りである。そんなことでお金を貰うなんて、大君との友情も私の自尊心も傷がつく。やってられない。
「基本は僕とネルの中継係かな。僕もずっと研究室にいられるわけじゃないからね。ネルからの報告を報告書にまとめて僕に提出。あとは細々とした手伝いだね。環境の計測結果を例年と比較したり、過去書類のデータ化――」
まず頭に浮かんだ単語は雑用。ようやく出てきたこの内容こそ、大君からも聞いていた業務内容である。
「他に任せたいのは、対人魚の業務。僕は嫌われてるし、大河を出していいことがあるとは思えないし」
そんなの私を出したって同じでは、と思ったが、すぐに言外の意味は違うと悟った。
得心がいった。話の軸を自分に置いていたから、流星さんの説明にしっくりこない違和感があったのだ。この話の軸は大君だ。大君を取り巻く環境の話だというなら全貌が陰りなくくっきり見える。
大君に人魚が群がるようなことがあるくらいなら、誰か別な人間を差し出しておこうという危機回避の対策のために人手が必要だったのだ。
ここにいるのは私じゃなくてもいい。私が人魚に好かれようが、嫌われようが関係ない。大君に懸想しない人間の女なら誰でもいい。
「嫌になったらやめたらいいよ。違約金をとったりもしない」
「……そんな無責任はできません。試用の試用でも、ただの試用でも、きちんと決められた規約に則ります」
人手が足りないという割には、流星さんは是が非でも私に仕事に就いて欲しい、少しでも業務量を軽くしたい、という雰囲気でいないのも私の推測が正しい証拠のように思えた。契約書もゆるゆるだし。
「紫峰さんは真面目だね」
「契約する以上、不明点はなくしておくものだと思いますが」
「ああ、ごめん。嫌みで言ったんじゃないよ。大河の友達なのにまともだなって」
この人、苛烈なブラコンの割には大君を全肯定してるわけじゃないんだよな。駄目なところは駄目で可愛いってことなのかな。
「悪いようにはしないよ」
そう言って、流星さんは白衣の胸ポケットに差さっていたボールペンを私に差し出した。
流星さんは詐欺師になれる。複雑な事情があっての雑務は絶対に大変だと思う。けれど、断る理由を探す気にならなかった。
……もういいや、困ったときには大君に頼ろう。他力本願だが、彼の説得があってこそ決めた選択でもあるから、面倒は見てもらうしかない。
「ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、任された仕事は頑張ります」
「助かるよ」
私はボールペンを受け取り、雇用契約書に名前を書いた。考えなしな感も否めないが、至れり尽くせりの条件だし、やめてもいい前提があるなら、まずはやってみようと思えた。
「改めて、これからよろしく」
「よろしくお願いします」
これで流星さんが提示していた本日の最低限の業務は終わりである。あとはどうするのだろう。引き続き、この資料たちと激戦を繰り広げなければならないのか。いつかは戦わねばならない敵だけれど、今日はもう新しい情報を詰め込める気がしない。
「小難しい話は次からにしようね」
彼は何度、私の心の声を聞き取るのだろうか。
流星さんは回収した契約書を眺めたあと、ゆっくりと席から立ち上がった。
「あと、もう一部屋だけ案内させて」
まだ何か飛び出すんですか。
先ゆく白衣に促されるまま、この研究室内を進んだ先には一枚の扉。流星さんのデスクの斜め後ろの壁に設置されたそれは、何の変哲もない扉。掲げられたプレートを指さし、流星さんは「こっちが海中展望室」といって扉を押し開けた。
開けた途端に降下を誘う階段。煌々とした電灯に照らされた段差を沈むように降りていく。そして、行き止まり。入ってきた扉とは違い、重厚そうな鉄扉が構えていた。
「ネル用、というか、人魚用の施設への入り口だよ」
軋む蝶番の音。次の扉が開かれ、私は目の前の光景に嘆息を漏らした。
青。
部屋の窓から見える景色は海中だ。海の中に届いたわずかな光が波に合わせてゆらゆらと揺れている。
部屋は縦に長く、床から天井まで高さがある。私たちが立っているのは部屋の入口の前であるが、最終地点から逆算すると階段の途中、柵のある踊り場である。この部屋の床に立つにはここから更に階段で降りる必要があった。
この部屋の床は半分だけ。もう半分は海水に満ちている。
「はあ、すごい」
「ネットは張ってるけど、海に直接繋がっているから落ちないようにね」
なるほど、人魚用の入り口とはそういうことか。
階段を降り、海面が近づくにつれ段々とテンションが上がっていく。これは何とも研究所っぽい。B級のサメ映画でよく見るやつだ。ふらりとここに近寄った研究員がまず初めに食い殺される展開のやつ。
……ネットがあるとはいえ、海に直接繋がっているなら、そういうこともあり得てしまうのでは。
私の不安を煽るように電子音が響く。
びくり、と肩を揺らす私の横で、流星さんは「紫峰さん、悪いけどちょっと待ってて」と断りを入れて電話に出た。なんだ電話か。吃驚した。
電話片手に部屋を出て行く流星さんと反するように、私は階段を下りて海へと近づいた。
当然だが潮のにおいがする。ちゃぷちゃぷと静かに波立つ水面。等間隔で並ぶ窓を見れば、たまに魚影が見えた。早すぎるそれにどんな魚かは判別できなかったが、ここが海の中だと改めて感じられ、ちょっとだけ恐怖を覚える。
すいいっと素早く大きな影が外を過る。
「……び、びっくりした」
驚愕と恐怖に生み出された独り言が声になるのを止められなかった。本当にサメだったどうしようか。どくどくと心音が早足になっていく。
底の見えない水面を見つめるのが怖くて、一歩、二歩と後ずさった。
水音以外は静かなものだ。壁に囲まれて凪であるし、音を立てるものがない――――水の中、展望室内の水面に影。大きくなる影を見つけて呼吸が止まった瞬間、じゃぶんという大きな音とともに波が壁のようにそそり立つ。
「――ひっ!?」
突然だった。影はあっという間に大きくなり、物体が水面から飛び出す。蠢く影、水しぶき、水の打つ音。
「わあっ!?」
足が竦み、その場で盛大に転倒した。ごずんと鈍い衝撃が背中に走る。痛い。
「はァい、灯ちゃん」
可愛らしい声が高い天井を昇っていくように響いた。
恐怖と混乱に支配された心臓に手を当てる。早すぎる鼓動。それが必要ないことだと分かった後でもドキドキは止まらない。
金髪紫目、エメラルド色の尾ヒレ。ぺらぺらと振られた手は透けるほど白い。鱗が散りばめられた肌は、日焼けなど知らぬようだ。
「ね、ネルさん!?」
心臓飛び出るかと思った。いやこれはちょっと出た。戻れ、戻れ。
「ネルでいいわよォ。どうしてもっていうなら、ネルちゃんって呼んでね」
海面から顔を出したネルさんは慣れた様子で足場に座ると、水面をぱたぱた尾ヒレで叩く。水に濡れたエメラルドの鱗はきらきらとして、造形の見慣れなさ以上に美しさで目を奪われた。
「じゃあ、ネルちゃん」
「やだ、嬉しい」
あ、可愛い。
言葉通りに破顔した彼を見て、それしか言葉が浮かばなかった。
「改めまして、アタシはネル。異保管の機構員で、流星ちゃんと一緒に人魚の生息区域の保護と安全を守ってるの」
「紫峰灯です。今日から流星さんのお手伝いをすることになりました。よろしくお願いします」
「ふふ、堅苦しくしなくていいわ。よろしくねェ」
美形は潮木兄弟で頭打ちと思っていたが、上には上がいるものだ。
ネルちゃんの美貌はもはや神話である。語り継がれるべき、この世のものではない美。瞬きするたびにいいものを見せていただいている、という気分になる。
しかも、愛想までいいときた。
「灯ちゃんは異人に会うのは初めてなんでしょう?」
「うん」
「あんまり驚かないのね」
「いや、驚いてる驚いてる」
驚かないわけがない。なんなら、現在進行形でびっくりしている。まあ、今は人魚というよりも突然の登場の仕方に驚いているのだけれど。まだ心臓が暴れ続けている。
「……ネルちゃん、本当に綺麗だね」
「ふふ、褒められるのは嬉しいわァ」
好感度爆上げだった。美人の照れる姿の尊さよ。この究極の美を凝縮した顔ならば褒められ慣れているとしか思えないのに、ネルちゃんはガチで照れていた。首までを赤く染め、頬に手を当てて目を泳がせる様は庇護欲を刺激される。最近、こういうのがぐっさり心に矢を差していくんだよなあ。
ちょろいと評価されても構わない。彼女の美しさに踊らされるなら本望だ。




