第1話 青天の霹靂
階段、影、美しい男の人――、落ちてくる。
「え――?」
人間、心底から驚いたときは、まともに声も出せないものらしい。少なくとも、私は陸にあげられた魚のように口をぱくぱくと開閉するしかできなかった。
世界がここだけ切り取られる。周囲の音が遠くに離れていき、目の前に迫ってくる男の動きがスローモーションに見えた。
――やばい、ぶつかる……!
脳から全身へと伝わる警鐘。このままでは衝突すると理解していても、想像していないことが起こった現実に動揺する私の足はぴくりとも動かなかった。
仕事の帰り道、改札から駅のホームへ向かうべく階段を下っていただけ。後方がどうにも騒がしくて何の気なしに振り返えれば、男の人が降ってくるところだった。自分でも何を言っているのかよく分からない。
混乱している脳内では、なぜか走馬灯が駆け巡っていた。これから怪我をするかも、という予感だけで先走った行為ではあるが、走り出してしまったものを自意識で止めることはできなかった。
紫峰灯、齢二十三。今年で二十四、社会人二年目。
短い人生の後悔が、片っ端からあれもこれもと浮かぶ。
回想のメインは自由気ままに育った幼少期でも、輝かしい青春の日々だった中高生時代でもなく、実家を出て大学に入学してから今日までの苦々しい日々だった。
私にとっての転機は間違いなく、実家を出たことである。いい意味でも、悪い意味でも。
両親からの援助を受けず、自分だけの力で生活をする――、その条件の元で実家を出ることを許された私は、社会人になった今もまだその鎖に縛られていた。学生時代は自分のことだけをなんとかすればよかったが、社会人になってからは自由の代償に仕送りという名の枷が増えている。
両親はお金に困っているわけじゃない。仕送りが言い渡された理由は私を実家に連れ戻すためだけのものだ。両親は私が私の意思で家に戻った、という事実を作りあげようとしている。
稼ぐほど搾取されていく給料。連絡を取る友達はみるみると減っていき、時間が合わずにすれ違いと喧嘩が増えた彼氏と別れたのはいつのことだったか。日々の疲労から外出することが億劫になって在宅時間は増加の一途。
今や枯れ切った現実から目を背けるように、一心不乱で仕事に打ち込んでいた。仕事は嫌いじゃないし、やりがいもある。
しかし、自分に嘘はつけない。
楽しそうにはしゃいでいる同年代の姿を見ると、思わず目を背けてしまうことがままある。本音を言えば、寂しい。こんな日々を過ごすことになるなんて思ってもみなかった。でも、絶対に実家には戻りたくない。
――どこで間違えてしまったのだろう。
苦い味しかしない走馬灯が急に途切れる。
顔に影がかかる。手遅れの影。
私のつまらなく中身の薄い人生を振り返っている間に、美しい男は私の元に辿り着いていた。というか、現在進行形で落下中だ。
「……!」
視界の端で動いた何かが自分の左腕だと気づいたのは、大きく腕を広げきったあと。
なんでそういう行動をしようと思ったのか分からないけれど、私は彼を受け止めなければと構えていた。本当に謎である。どうしたって、衝突と怪我の未来しか待っていないだろうに。
予定していた軌道でぶつかるように落下してきた男を左腕で受け止め、右手で階段の手すりを強く握り締める。
「うおっ!」
飛び出した野太い叫びは、自分の声なのにまったく聞き覚えがない。
ぎゅぎゅぎゅぎゅっ、と皮膚と手すりとの間で乾いた摩擦音が鳴った。受け止めた重さに右手が滑った分、苛烈な痛みが走る。発火。絶対に今、手から火花が散った。
さらなる追い打ちとばかりに、右肩にかけていた鞄がずり落ち、手首にずしりと負担をかけた。踏んだり蹴ったりとはこのことである。
そして、何よりも負担なのは降ってきた人間が重すぎたこと。力が尽きかけの握力は彼の救出を諦めようとしていたけれど、何とか気持ちで持ち直した。手を離すことは簡単、しかし、それをしてしまえば二人で転落待ったなしである。
「あの、だいじょ――痛っ!?」
私の混乱と動揺に配慮してくれる人は誰もいないらしい。
腕の中の男は私を道連れにするかのごとく、がっしりとしがみついてきた。可動の限界で悲鳴をあげている肩にぶつかった男の額が、ごつんと鈍い音を立てる。彼の赤みがかった髪の毛が首筋をくすぐった。
私の心臓はばくばくと体内から飛び出してしまいそうなほど暴れている。見目麗しい男に力強く抱き締められているから――、ではない。
男の背中の先、階段の最上段、髪を振り乱した女が立っていた。憤怒の表情を浮かべ、刃渡りの長い包丁を握り締めて。
「は……!?」
包丁を構えた怒れる女、階段から落ちてきた美しい男。
落穂拾いのように人生の記憶を思い起こしていたときとは比べものにならない速さで、私の頭は現状を理解した。
――理由は知らないが、この男があの女に刺されそうになっている。
私が答えを弾き出したのと同時に、女は階段を駆け下り始めた。転げてしまうのではという速度でばたばたと接近してくる姿はさながら山姥で、私はたまらずに絶叫を上げた。恥も外聞もない。恐怖で頭がいっぱいになっていた。しがみついている男に逆にしがみつく。恐怖の悲鳴さえなければ、ぎりりぎりりと骨の軋む音が二人分聞こえたかもしれない。
真っ白になりそうな頭の中、再び走馬灯が駆け巡り始めた。お呼びではないが、やはり、止めようとして止められるものではない。
さっきとは違い、本気で死を予期しているせいか、走馬灯の仕事ぶりも全力である。生き延びるためのヒントを二十三年の経験の中から必死に探していた。駆け足で人生が総ざらいされていく中、ある時点でぴたりと映像が止まる。私が大好きな刑事ドラマに出てくる刑事のヤスさん。ヤスさんはしたり顔で何かを説明している。
どうして、この状況でヤスさんなんだ? いや、この際ヤスさんでも誰でもいいから、何か妙案をください。ここで死ぬなんて絶対に嫌だ。
ヤスさんは言った。足を狙え、まずは動きを止めるんだ、と。
「すっ、すみません!!」
盛大に謝罪の言葉を叫び、命綱である右手を手すりから離すと、手首までずり下がっていた鞄を女の足元に目掛けて思いっきりぶん投げた。支えを失った私の体は、男を押し倒すようにその場で転倒する。不幸中の幸いは、その場で崩れ落ちたばかりで、階段を転げ落ちていくことはなかったこと。私は男の背中に回した腕にさらに力を込め、女に道を開けるように階段の隅へ体を寄せた。
それからはまるで映画の世界を覗き見たかのよう。
鞄は女の元まで届きはしなかったが、障害物としては申し分ない位置に着地。駆け下りる女の足は階段ではなく、私の鞄を踏みつけた。そして、すぐに女の甲高い悲鳴と身体を打ちつけながら滑り落ちていく鈍い音が耳に届いた。
女が駅のホームへ突入し、刃物が空を飛ぶ。
「…………、……………………」
言葉も出ない。
身体の向きは変えられなかったので、首をひねって視線を階段下へ向ける。今は帰路につく社会人やら学生たちが溢れかえっている時間帯で、殺人未遂現場を目撃していた人々はたくさんいた。数多の目玉が遠巻きにこちらか彼女かに向けられている。
数秒の静寂、のち、大喧騒。
目撃者だった観衆たちがはっとして動き出した。倒れた女の自由を奪い、役目を果たさなかった凶器を確保する。それを確認してようやく身体から力が抜けた。
こ、怖かった……。
心臓の音は荒れたままだが、死を覚悟した恐怖心はゆっくりと安堵で薄められていく。
「助かったぁ」
間抜けな声も出るというものだ。その場にしゃがみこんでしまいたいが、腕の中でがたがたと震えている男がそれを許してくれない。
私に縋ったままの青年は、現実から目を逸らすようにずっと額を私の肩に押しつけていた。ちらりとも状況を見ていない彼は、まだ追われている最中なのだろう。そりゃあ、あんな感じで追われたら恐怖しかない。
顔を上げてくれの意でとんとんと背中を叩く。しかし、青年は一向に顔を上げようとはしなかった。返事をしてくれない彼の代わりに階段上から「通してください!」という大声が響いてくる。続く足音。怯える彼になんて声をかけようかを悩んでいる間に、異常事態を察知した駅員たちが駆けつけてきた。
「大丈夫ですか!?」
貴方が大丈夫ですか、と問い返したくなるほど顔色の悪い駅員さんは私と青年の肩を力強く掴んだ。必要性のない毛布を肩にかけられて「もう大丈夫ですからね!」と何度も励ましの言葉をかけてくれる。
不思議なもので、そうされると一気に安心感が増した。足の力も抜けて、青年の怯えが伝播したかのように震える。階段の半ば、足が上手く動かないのはとても危ない。けれど、止まらない。
私の震えに気づいたのか、駅員さんの声に安心したのか、殺されようとしていた青年はようやく顔を上げた。