第18話 人魚の入り江
フィールドワーク用の出口の先は浅瀬の岩場であった。強い潮風に吹かれ、髪の毛が揺れる。
群青の海、晴れた空、輝く太陽、真っ直ぐの地平線。いい景色。開けた視界には自然しかない。私たち以外の人の姿はなく、耳に届くのもウミネコの声と波の音だけ。解放感がすごい。
「――うわっ!」
ぼけっと景色を眺めていたせいで岩のへこみに足を取られ、バランスを崩してふらふらと揺れる。体勢を戻しきれず、前に進もうとしていた意思のまま、白衣の背中に突っ込んだ――と思いきや、私の視界に映るのは黒。間抜けな悲鳴を聞いて振り返った流星さんに、正面から抱き止められていた。
「足場が悪いから、気をつけて」
「……すみません」
「いや、僕が最初に注意するように言うべきだった」
流星さんに「立てる?」と穏やかに尋ねられ、私はぶんぶんと首を縦に振った。第一印象があれだったせいか、優しさポイントが割り増しだ。心配そうな表情にぎゅっと心臓を掴まれる痛み。至近距離で見るものではない、と感嘆が半分、キレられたらどうしようという不安が半分。助けられてあれだが、手厚い対応にドメスティック・バイオレンスを感じる。
私がちゃんと自分の足で立ったのを見て、流星さんは支えていてくれた手を離した。
流星さんが向かう先は、海は海でも浜辺や岩場ではなく、洞窟だった。ごつごつした岩肌の隙間、ぽっかりと空いた穴。時間帯が時間帯なら肝試しのスポットかと思うくらいだ。
流星さんは特段の解説をせずにその中へと消えていく。
天井の高さも道の幅も、大人が通れるくらい大きさではあるが、岩に囲まれた道は繋がる先が見えにくく薄暗い。日差しの下に比べれば幾分も涼しかった。反響する波の音が洞窟の奥から聞こえてくる。一人だったら絶対に近寄らない。
洞窟の道がじぐざぐに折れていて先が見えにくく勘違いしていたが、特に長い道ではなかった。すぐに光差す出口が見え、さざ波の音に重なって話し声も聞こえてくる。聞き間違えない、一人は大君だ。
出口の先は広い空間が広がっていて、ここから見える景色だけでも秘境を期待させるものだった。
ドーム状の岩壁に囲まれた湾、裂けた天井から日が差し込んでいる。美湊では見られないと思っていた浜辺に波が寄せ、日の当たる土壌には草木が生えていた。神秘的。”秘密の入り江”というにふさわしい。
「大河、ネル」
そして、幻惑の世界の浜辺に並ぶ、二つの背中。
流星さんの呼びかけで二人は同時にこちらへと振り向いた。片一方である大君は私を見つけるなり、ぱっとした笑顔で「灯!」と歓迎を示してくれた。
「兄貴も。こっちに来たの?」
「ああ。先にネルに紫峰さんを紹介しておこうと思ってね。ネルは今日、研究所には来ないだろう」
私はぱちぱちと瞬くことしかできなかった。
潮木兄弟の顔面偏差値はとんでもない。私の人生でこれ以上の数値を見ることはないだろうと思っていたが、その認識を改める機会が早々にやってきてしまった。
太陽よりも輝かしい短い金髪、アメジストような紫の瞳。大きな目を囲う長いまつげ。海に溶けてしまいそうな白皙。かたちのいい唇は緩い弧を描いている。性別という垣根を凌駕したで美しい造形、異国の王子様かと見紛う品格。
極めつけは、エメラルドグリーンの鱗。
上半身はところどころに鱗の見られる人間の体、下半身は光の反射で七色に見える翡翠のひれ。
「ネル、紹介する。あの子は灯。俺の友達で今日から兄貴の手伝いすんだって」
本物の人魚。ぱちゃり、尾ひれが波を撫でる。
「灯、こっちはネル」
想像通りに男性。二対の紫水晶がこちらに向いた。
「初めまして、灯ちゃん。ネルよ。よろしくねェ」
まさかのオネエ言葉。少年らしい可愛らしい声。
「ネル、紫峰さんは今日、初めて異人の存在を知ったんだ。慣れないことも多い。悪いけど、君も世話を焼いてやってくれ」
「二人のお友達なら勿論よォ。仲良くしましょうね」
やばい、情報の多さに処理がついていけない。困惑のままで「よろしく、お願いします」と途切れた言葉を返すの精一杯だった。
人魚、本物? ドッキリじゃなくて?
この場の容姿端麗率がやばい。私の地味な顔でも平均値を引き下げられないくらいに美形が揃っている。
「顔合わせをさせておいてなんだけど、ネル、不要に外の海岸に顔を出すのはやめないと」
呆れたように説教する流星さんの声が聞こえる。ただし、私には聞こえてくるだけで頭には入ってこない。
私の視線は人魚の尾ひれに釘づけだった。ぱたぱたと水面を叩くように揺れるひれが作り物だとは思えない。そもそも、流星さんはともかく、大君は嘘をつくタイプじゃない。この時点で彼は本物の人魚ということなのだが、簡単には信じられない。私の常識を軽く吹っ飛ばしている。
「人魚の誘拐が多発してるのは知ってるだろ?」
「ごめんなさい」
「大河も軽率な行動は控えて」
「……悪い」
聞きたいことは山のようにあるが、あまりに深刻な説教に口を挟む隙がない。重苦しい空気の中、顔を伏せて反省状態の大君とネルさん。流星さんの舌は止まることなく叱責を繰り出している。
あまりに進退しない状況に、説教の隙間を縫って「流星さん。ちょっと状況が――」と無理やりに言葉をねじ込んだ。勇気を振り絞った行動である。
流星さんは私をじっと見た後に、並んで座る二人の方へ視線を向けた。
「顔合わせをしたかっただけだから、僕らは研究所に戻るよ」
大君とネルさんはあからさまにほっとした表情を浮かべた。つられて私も苦笑いしてしまうくらいに分かりやすい。流星さんは重々しいため息をついたあとに「何かあってからじゃ遅いんだから、気をつけること」と最後の釘を刺し、踵を返した。




