第14話 甘い罠
いともたやすく人の心をかどわかす人間は現実に存在する。計算で相手の心理を測るのではなく、そこにいるだけで気が向いてしまうのだ。魔性。その性質について、ここ最近で十二分に思い知らされていた。
「灯、こっちこっち」
仕事の帰り道、改札の前で私を待っている大君はもはや見慣れたものだ。目が潰れると錯覚するほど眩しい笑顔を振りまきながら、ぱたぱたとこちらへと走り寄ってくる。
悪い気はしないな、と思っていたのは最初の頃だけだった。私はこのイケメンと待ち合わせていたんですよ、なんて優越感もあったものだが、今となってはこの子はこんなに周囲の目を気にしなくて大丈夫なんだろうかという心配が勝っている。
「お疲れ」
大君の呼びかけに手を上げ、声を発そうと開けた口をすぐに閉じた。急に心臓の底が痛みを訴える。古傷なんてないのに、奥歯がじりじりと痺れ出した。
――あの顔、忘れもしない。
輝く笑顔の背後から少し離れた通路の端、澄ました様子で佇んでいるのは、勘違いで私を叩いた男に間違いなかった。
「あの、あそこにいらっしゃるのは……」
「兄貴があの日のこと謝りたいって」
今更? なんでまた急に。
「全然そんな雰囲気には見えないけど」
「不機嫌そうに見えるかもしんねえけど、別に怒ってねえから」
怒られる筋合いはない、と思う。むしろ、怒る権利があるとしたら私だ。さすがにあの日の怒りは薄れてどこかに行ってしまったが、心の根深いところにはしっかり恨みの杭が打たれている。
俗物は目に映すのも嫌とでも言いたげな表情で立っているお兄さんは、私と目が合うとぺこりと会釈して見せた。遠目にも美人。
「じゃあ、あとでな。先に店行ってるから、終わったら連絡して」
「は!? 大君、一緒にいてくれないの!?」
「おう」
おう、じゃないから。置いてかないで。
大君はぽんと私の肩を叩くと、さっさと人混みに流れて消えていった。無情。非情。
心臓と歯だけじゃなくて、おなかも痛いかもしれない。背中を冷や汗が流れていく。被害者側であるはずなのに、なぜ私の方が苦しまなければならないのか。
胸中で大君に恨み言を連ねているうちに、お兄さんは目の前まで来ていた。大君よりは少し背が低いが、それでも平均身長は軽く越えているんじゃないだろうか。成人男性の平均身長なんて心得ていないので想像の話だけれども。
艶やかで柔らかそうな短い黒の髪、わずかに下がった目尻、真一文字の薄い唇。世の中、こんなにも夏であるのにどうしてそうも涼しげにしていられるのか。冷たさすら感じる瞳には困惑する私が映っている。デジャヴ。
「こんばんは。お仕事、お疲れ様です」
「……こんばんは」
「ご挨拶に来るのが遅くなってすみません。この前は本当に申し訳ありませんでした。怪我の具合はいいかがですか?」
「い、いえ。もう大丈夫です。あの、治療費、ありがとうございました」
「私の不始末ですから、紫峰さんにお礼を言われることではありません。私が出向かなければならないところを、弟を代理にしたことも大変失礼しました」
「そんなことないです」
私の素っ気ない返事にお兄さんは「嫌われたな」と乾いた笑い声をあげた。口ではそう言っているものの、全然気にしていないのが丸分かりである。
久しぶりにそのご尊顔を拝見したが、相変わらず絵画の中の人のようだ。大君よりも中性的で、イケメンと言うより美人。私の語彙力では讃えきれない容姿。羨ましいというか、生きていてくれてありがとうございますの域である。
「改めて、大河の兄で潮木流星です。紫峰さん、あなたのことは弟からよく聞いてる」
「……、恐縮です」
「座れるところに移動しようか」
「えっ――?」
謝りに来ただけなら、もうこれで終了では……?
お兄さんは「少し、時間をもらうよ」と決定事項を通達する口ぶりで言い放ち、私の返事も待たずに歩き出した。一体、どういうつもりなのか。追いたくない、でも、追わないわけにもいかない。重い足取りで彼の後に続いた。
辿り着いたのはいつぞやに大君と入ったコーヒーショップ。どうやら、お兄さんが奢ってくれるらしい。私はあの日と同じく、注文だけを伝えて空いている席に座った。そわそわが止まらない。
「改めて、弟を助けてくれて本当にありがとう」
「偶然だっただけなので」
「それでも助けてくれたことには違いないだろう?」
あれもヤスさんの教えの賜物だ。最近は大君と飲み歩いているから、家で録画した再放送を見る時間もとれていない。たまに通勤時間に配信サービスで視聴している。秋には劇場版も控えていて、ただただ楽しみで心いっぱいだ。
……現実逃避してみたところで、目前の彼がいなくなったりはしなかった。
「……僕が君を叩いてしまったのが原因なのは分かっているけど、そんなに構えないで」
構えているのは、叩かれたことに恐怖しているのもあるけれど、お兄さんの視線が私を値踏みしているかのようだからだ。居心地が悪い。
「あなたと話してみたかったんだ」
「……は、あ」
「大河と仲良くしているんだってね」
「そう、ですね」
お兄さんはこう、なんというか、言葉が悪いかもしれないが威圧感がある。美人の凄み的な。いかついイメージとはかけ離れているが、雰囲気が独特だ。私の人生で出会ったことのないタイプ。
ヤスさん的に言うならば、「陰ですべてを操っていた真の黒幕は、あなただと分かっていましたよ」といった具合である。
この人は本当に謝るのが目的で私に会いに来たのだろうか。それにしては時間が経ち過ぎている。おそらく、嘘。何か他の理由があるはずだ。
「大河ってあれであんまり人に懐かないからね。珍しくて」
「懐かない?」
そんな馬鹿な。人に懐かない人間が初対面の人がいる飲み会に乱入してくるわけがない。ナンパしてきた行きずりの男と道端でキスするわけがない。
お兄さんの口で語られているのは本当に友人のことなのか、と首を傾げたくなる。
「そう。女の人には、の話だけど」
納得した。




