第13話 恋愛脳のお花畑
私が今、最も恐れているのは大君を傷つけることだ。
感動的な台詞を言いたいのではない、大君との関係を壊さない一言が欲しい。顔色を窺おうにも、この暗がりと彼の俯いた姿勢ではちょっとも見ることができなかった。
このまま、様子を見ているだけではにっちもさっちも行かない。
「……大君が誰のこと好きでも軽蔑しないし、距離を置いたりしないよ」
「嘘、逃げただろ」
「い、今のはあれだよ……、お邪魔だったなと思って。引いたとかじゃない」
驚愕はしたけれど、嫌悪したわけではない。そもそも、人の恋愛に口出せるほど経験もないし、愛や性を語れるほど高尚な人間でもない。ただ、そう、ちょっとびっくりしただけなのだ。あと、少し動揺した。
猜疑心に満ちた声が「本当に……?」と尋ねてくる。
「本当。でも、今の私の態度はそう見えたかも。ごめんね」
ここから一本、道を出れば大通り。車の走行音も道行く人々の会話もそれなりの騒音であるが、ここだけは切り取られた世界だった。
私と大君だけ。
これはちょっとばっかり自意識過剰な私の想像だけれど、大君は嫌われるのを怖がっているのだと思う。同性を恋愛対象にすること異端だと思っているのだろうか。だから、私に――友達に秘密にしようとしていたのではないか。拒絶されると懸念して。
大君と知り合ってから過ぎた時間は短い。それなのに、いつの間にこんなに大事になってしまったのだろう。私にとって、大君はもはや特別な友人の一人だった。
「大君、私、言葉を選ぶの下手だから、変に伝わったらごめん」
「……」
「私、大君が誰かを好きになることを止めたりしないよ。相手がどんな人だったとしても、大君が好きになった理由があるんだろうし。そりゃあ、あからさまに怪しいのが相手だったら止めるけど。でも、大君の気持ちを傷つけたり、歪めるようなことは絶対しない。約束する」
二十三年間の人生の中で、自ら同性愛者なのだと宣言している人と会ったのはこれが初めて。もしかしたら、隠している人はいたかもしれないけれど。
素直に白状するなら、そういう人たちに対して自分がどう思うかを考えたことがなかった。私がどう思うかなんて、その人には関係ないだろうし。
実際、こうして対峙して頭に浮かんだのは大君に伝えた言葉そのままだ。
顔も知らない誰かのことは、会ってみなければ分からない。世の中の定規がどんなものか、誰がどんな”普通”を掲げていようが関係ない。
「友達、でしょ」
この年でこんなにくさい台詞を口にする機会があるとは思わなかった。それでも、ここで言葉を濁してしまったら、大君は金輪際、私の前には現れないような気がした。そして、きっとそれは間違いじゃない。
真摯に想いを伝えたことがなんだか気恥ずかしくて、顔がかっかとしている。頬を撫でる夜風を涼しい。
「紛らわしいことしてごめんね。許してくれる……?」
のろのろと緩慢に大君の顔が持ち上がった。目尻は垂れ下がり、眉間には深いしわが寄っている。揺れる瞳が人工光を受けて、一瞬だけ真っ赤に閃いて見えた。
情けない顔しちゃって……、いや、私がさせたのか。
さっきまでの慌てふためいた申し訳ない気持ちよりも、この子は本当に仕方ないなという気持ちが勝っていた。ああ、なんて可愛い友人なんだろう。不安にならなくてもいいんだよ。嫌ったりなんてしないよ。繊細な彼を守ってあげたい。
これが恋愛感情なら健全なものなのだろうが、恋愛と遠く離れてしまった私には庇護欲が爆発するばかりだ。血も繋がらない年下の男を守りたいなど、ちょっとした不健全さすらある。
「――許す」
無理やり作ったかのような引きつった笑顔。痛々しくはあれど、刺々しさはない。そんな彼の様子にようやく肩に入っていた力が抜ける。
妙な緊張感に無意識に体が縮こまっていたらしい。安堵しきったため息も一緒に漏れた。場所が場所なら、そのまま膝をついていたことだろう。
「……」
「……」
しかし、妙な空気は未だ払拭しきれていなかった。
この場を和ます気の利いた会話、何かを絞り出さなければ。大君はもじもじとしているばかりで、いつもの無礼で不躾な態度からはかけ離れている。借りてきた猫。
恋愛志向のカミングアウトから、どんな話題につなげればいいのだろう。この空気ではどんな奴がタイプなんだよ、なんて軽はずみは口が裂けても言えない。私も女の人が好きかもって思ったことあるよ、なんて気遣いの同調も不要だろう。でも、大君は恋のお話大好きの恋愛脳だからなあ。案外――、あれ。
「ちょっと待った」
「何?」
「大君のよく言ってる”好きな人”って、あの人じゃないよね?」
大君には愛して恋して止まない想い人がいる。
その存在については、私が大君の言葉の先を横取りできるほど聞かされているのだ。好き、可愛い、綺麗、結婚したい、優しい、愛情深い執着が呪いのように耳に届けられていた。
しかし、それがあのさっきのホストもどきでないことは断言できる。だって、どう見たってあれは行きずりのナンパ男だった。
大君は柔らかく歪めていた顔を無にすると、そっと目を右下に泳がせた。おい。
「大君……?」
「えっと」
浮気現場を目撃した恋人よろしく「さっきの誰?」と問えば、大君は体感数十分の沈黙を貫いたたあとで「しらないひと」と幼子のような発音で自供した。
「嘘じゃん。貞操観念、緩すぎない?」
これは考えなしに零れた本音である。
数分前の私だったらこんな責めるような言葉のセレクトはなかっただろうが、今や言葉を選ぶ立場にあるのは私ではなく彼だ。あんなに熱烈な愛を訴えていたくせに、ばったり会った男に甘く口説かれたらころっといってしまうの? 潮木大河の愛や恋はそれでいいの?
「好きだと思ったら行動しないと。誰かのもんになってからじゃ遅いだろ」
「はあ? あの人が誰のものになろうと、どうでもいいでしょうが」
何言いだしてんだこいつ。
必死に大君のことを考えた気持ちを返して欲しい。
「別に好きな人がいるんだよね?」
もはや、私は事態の真偽を追及する弁護士のような気分だった。被告人席に立つ男はもごもごとしながら「そうなんだけど」と反論にもならない呟きを漏らす。潮木氏、証言は大きな声で正確に。
この話を深堀りする必要性はまったくない。一切ない。私は大君を誠実な男だと思っていたが、その想いが裏切られたというだけだ。男が好きなことよりもこっちの方がよっぽどショックである。
なんだか上手く処理できなくて、憎まれ口で「恋してないと死んじゃうの?」と責めれば、大君は困ったように小首を傾げた。
「……死ぬかも」
本気の返答だった。嘘をついてるわけでも、誤魔化しているわけでもない。
常々、恋愛脳だとは思っていたが、まさか生死彷徨うレベルとは。そんな馬鹿なとは思いつつも、声を大にして批判をできないのは、私も心の底でそんな気がしていたからなのだろう。
「え? そんなんで恋人出来る?」
「灯よりは」
「この減らず口が」
悔しいことに、反論できる要素がない。
大君は目じりを下げて優しく笑っている。いつも通りの調子を取り戻し、空気が和やかになるのは歓迎だが、私はちょっとだけ傷ついた。恨めしい視線を向けたところで、震える声で「灯に言えてよかった」と言われてしまえば押し黙るほかない。
良いことは良い、悪いことは悪い。駄目ことは駄目だとしても、それをしたのが誰かというのは主観で物事を判断するのには重要な要素である。同性愛かつ複数恋愛の志向持ちなのが大君だから理解しようと思えるだけで、他人だったら難しくて理解できないと突っぱねていたかもな、と当然のことを考えた。




