第9話 漠然とした不安
「俺らみたいな薄給サラリーマンには夢の向こう側の話そう」
「ね」
「なんで? 別に特別なんかあるわけじゃねぇけど」
きょとんとした大君は仕事はお金を稼ぐ手段でしかなく、職種による違いなんて得にないとでも言いたげだった。この鈍感さというか、天然具合にはようやく慣れてきたところだ。
谷田はにこにことしながら「そのまま、すくすく育ってな」と二十歳の青年に向けるのに適しているとは思えない言葉を送っていた。ファン心理なんだろうか。
「祝いごとって何度あってもいいけど、ラッシュはちょっときついよなあ。ここのところの出費も多いし」
「結婚祝いも出産祝いも本当に馬鹿にならない。本当に」
「うちのもよろしくね、紫峰ちゃん」
「はいはい」
谷田の結婚式は今秋。写真でしか見たことはない奥さんは、二つ年下の大学の後輩だそうだ。四年近く恋人を続けていての恋愛結婚。羨ましい。
この年齢になり、みんな意外と手堅く生きているんだな、というところを知らしめられた気がする。結婚、子供、結婚、結婚、果ては離婚も越えて再婚までしている友人もいる。
恋人もなく、仕事に生きるのも悪くはないのだが、やはりふとした時に寂しさは覚える。まあ、恋人を作る努力はしていないので我慢する以前の問題であるけれど。私が考えなさすぎるんだろうか。
「紫峰はもういっそのこと開き直って仕事詰めれば? 紫峰ならすぐ昇格試験の話くるだろ。出生街道まっしぐら~」
「出世ねえ」
「だって、仕送りできなくなったら、実家に強制連行されてお見合いしょ?」
「そうだけど」
私は大学合格を機にド田舎の実家を十八で出てから、ずっと一人暮らしで自由気ままな生活を送っている。両親は私が独り身で仕事にかまけているのをよく思っていない。
実家を出るのも一筋縄ではいかなかった。結婚が遅くなるから進学はさせたくないと嫌な顔をされ、私は必死に説得して自由を勝ち取ったのだ。自分で稼いだお金と奨学金で学費も生活費もどうにかする、どうにかできなくなったら学校をやめて実家に戻る、と。
世間知らずの田舎娘は早々に困窮するだろうと踏んで、両親は渋々と私を社会の荒波に送り出した。今はその選択が間違いだったと悔いていることだろう。
あれから、私は一度も実家に帰っていなかった。電話で連絡をすることはあるし、あちらがこちらに来ることもある。顔を合わせれば会話もするし、ぎすぎすとした空気になることもない。ただ、私が実家を出た理由を想像することもない両親に、飽きもせずに早く帰ってこいと言われるのは苦痛でしかなかった。
社会人になり、現在は”仕送りができなくなったら実家に戻る”という条件に変わっている。相変わらずの時代錯誤なことに、実家に戻るイコールお見合いだ。
両親はお金に困っているわけじゃない。欲しいのはお金ではなく、私が私の決断で実家に戻ったという結果。
仕送りは年を重ねるごとに値段があげられていくが、私の給料の上り幅はそんなに大きくないのだ。この先、苦しくなっていくのは目に見えている。それでも、実家に戻りたくない。
「ま、意外といい縁談かもよ? 実家に帰れとは言わないけど、見合いの一回くらいしてきたらいいじゃん」
「いやあ、ちょっと」
谷田にも尾野にも言えていないけれど、両親がお見合いだ結婚だと騒ぎ始めたのは今に始まったことではない。
両親は私が幼少の頃からできるだけ早くに結婚をさせたがっていた。高校生になると同時に始まった定期的なお見合い。それが一般高校生のよくある家庭イベントでないと知ったのは、お見合いがあるからと遊びの誘いを断ったとき、友達の冷ややかな視線に刺された瞬間だった。あの目は一生忘れられそうにない。
両親が私に結婚をさせようとするのは、風習が、ご近所が、世間体がという閉鎖的な田舎らしい理由ではなく、私の将来を心配してのことでもなく、もっと別の理由があるらしい。らしい、というのも私はそれを詳しく知らない。
私に実家を出ることを勧めてくれたのは、年の離れた兄と姉、それから幼馴染の三人だった。ここに私の自由はないのだ、と教えられたとき、私は驚くよりも否定するよりも先に、ああやっぱりそうなんだなと得心がいった。
「え!? 灯、実家どこ!? いなくなっちゃうのかよ!」
「ならないならない」
「紫峰が結婚したら、ボロ泣きする自身あるわあ。でもマジな話、紫峰は誰かが世話焼かないとずっと一人で居続けんね。絶対」
私が追い込まれている状況について、大君と谷田の反応は正反対だ。片や、寂しさ混じりに驚き。片や、達観したように頷いている。
さすがに付き合いの長い谷田は私という人間をよく分かっている。対して、慌てる大君の可愛げのあること。そうやって悲しそうにしてもらえると、ちょっと安心してしまうし、嬉しいものだった。
「結婚か、出世ねえ」
「紫峰はどっちも上手くやれそうだけどな」
「ははは。嫌味も大概にしてよね」
「俺は心配してんの!」
今の私にはどちらも縁がないことだ。
今時、性別で優劣をつけることなど流行らないだろうが、男女の違いというものは確実に存在する。仕事をするにあたり、出る杭にもならず、出来損ないにもならない位置で静かにするのが私にとっての賢い選択だった。程度のよい責任、程度のよい負担。出世を考えるにしたってもっと仕事の経験を積んでからでいい。それが向上心を殺すことになっていたとしても。
「尾野も心配してんぞ」
「二人からの心配は分かってるよ。いつもお世話してもらってありがとう」
「どういたしまして。ほら、感謝のかんぱ~い」
谷田が結婚をしたことを皮切りに、同期二人が私に対してお節介を焼くようになった。多分、前から世話は焼きたかったのだろうけど、様子を見てくれていたのだと思う。
入社してすぐの頃にも、やれ合コンだ、社会人サークルだと私を外に連れ出そうとしていた。しかし、私は微塵も乗り気でなかった。その時期はあっさりと収まったが、今は長期戦になるのを分かった上で奴らは本腰を入れている。気にかけてくれるのは嬉しい話だが、私の選択肢は保留のままの平行線上だ。
「なんで灯って彼氏いねえの?」
「なんでと言われても」
大君からこの質問をされるのは初めてではない。なんなら、この問答は毎度のものである。答えは私が恋愛に向いていない、かつ、恋人を作るための努力をしていないからじゃないでしょうか。毎度、自分の口から自分を卑下する発言をするのも疲れたので、適当に笑って流し始めている。
「大河君は? 彼女いんの?」
「彼女はいねえけど、好きな人はいる」
「紫峰?」
「灯のことは好きだけど、違う人だよ」
「え、それなら、紫峰と二人で飯食い歩きしてる場合じゃなくね?」
谷田の驚きはごもっとも。
私だって大君の行動に苦言を呈したことはある。私なんかと二人で飲みに行く暇があるのなら、デートにでも行ったらどうか、と。
「そいつには、いつも会えるわけじゃねえから」
これも定型句だ。大君は私と違い、恋愛話に花咲かせるのが好きらしい。というか、こいつ恋愛脳だなというのが大君への最新の評価だ。
好きな人がいかに綺麗で優しくて素敵かを語る大君はいつも幸せそうで、私はうんうんと聞くことに徹している。
話を聞く分には、なんで付き合っていないのか不思議なくらいの距離感で、まるで恋愛小説を読んでいるかのような気持ちにさせられていた。きっと、大君が私を誘う理由はここにあると思う。
私には可愛らしいのろけ話も、他の友人には聞き飽きられてしまうのだろう。
何がきっかけだったかは分からないけれど、大君は彼と私が絶対に恋愛関係になることはないと確信しているようだった。改めて口に出したことはないけれど、私にもそのつもりはない。幸運なことに、飲み相手が欲しいだけの私の希望とも合致している。
「俺、友達少ないし、誘って捕まるの灯くらいで」
「さすが暇人代表。堂々たるスケジュールの空き」
「腹立つ」
けたけたと声をあげて笑う大君と谷田を無視し、私はぐっとジョッキを傾けた。ビールは裏切らないし、無駄口を叩かない。




