プロローグ 障害の多い恋路
「灯、どう思う!? これで喜ぶと思うか!?」
これ、といって差し出された箱に収まっているのはシルバーのバングル。彼の腕についているものとまったく同じ装飾品だ。シンプルで格好いいな、と思ったことがあるくらいで詳細は知らなかったけれど、箱に書かれたブランド名は私でも知っている。常日頃から金欠状態である私には手が出せない代物である。
喜ぶかどうか以前に、こんな高いものをすでに購入しているのに渡さないなんて選択肢があるのか、こいつ信じられない猪突猛進だなという視線を向ければ、年下の友人は「急にお揃いとか気持ち悪い?」と不安そうに眉尻を下げた。贔屓目なしに困った顔すら恐ろしく整っている。贔屓目込みなら、目の前にいるのは愛らしくも可哀想な迷子のポメラニアンだ。可哀想な小動物を助けてあげなければ、と心に訴えかけてくる。
「ネルちゃん、大君からの贈りものなら何でも喜ぶと思うよ」
「何でもいいとかじゃなくて……!」
「いや、適当に言ってるわけじゃなくてね。大君だってネルちゃんから貰ったら海藻でも嬉しいでしょ?」
「ネルが意味もなく海藻渡してくるわけないだろ」
そういう話をしてるんじゃないんだよなあ。
大君、こと、潮木大河。付き合いこそ短いものの、私の親しい友人の一人である彼はいわゆる天然なのだと思う。ゆるふわ。彼の言動について、年下だから許している節はちょっとある。
「とにかく立って! ここで悩んでても仕方ないから! ネルちゃん待ってるんじゃないの?」
二重の意味で急いだ方がいい。それこそ拾ってきた砂だらけの海藻をプレゼントに、と悩んでいたらやめておけと止めるだろうけど、プレゼント然としたものを渡そうとしているのだから、あとは受け取ったネルちゃんの気持ち次第である。
そして、この話をこれ以上ここで続けるのは本当によくない。ここは海洋生物研究所の研究室であって、私が大君の恋愛相談に耳を傾ける場所ではないのだから。
後者の意図は大君には届かなかっただろうけれど、それが必要ないくらいに前者の想いが届いたらしい。恋する青年は「行ってくる!」と世界を救う旅に出る勇者のごとく、きりりとした凛々しい顔つきで勢いよく立ち上がった。
「ありがと、灯」
「いってらっしゃい」
「うん! いってくる!」
大君とネルちゃん、両想いなのは傍目にも明らかなのにいじらしいことだ――――、ばたばたと研究室を出ていく友人の背中を生暖かく見送っていると、こほんとわざとらしい咳払いが私の思考を遮った。この後に続く小言を察するのは呼吸をするのと同じくらい簡単なことで、ゆっくりとそちらに目を向ければ、美しい顔を般若のように歪めた上司がこちらをねめつけていた。
「君の仕事は何だったろうね?」
浮かべている表情こそ笑顔であるけれど、目の奥には奈落に繋がるどす黒い渦が見える。こういうとき、大君の能天気さが心の底から羨ましい。気づかなければ、悩む必要もないのに。
「……流星さんの助手、です」
「そんなこと聞いてると思う?」
「……」
「君が大河にすべきだったアドバイスは、プレゼントなんてやめとけだったんじゃない?」
潮木流星さん。大君のお兄さんにして、私の副業の上司である若き海洋生物学者。
弟がアイドルみたいなイケメンであるのと対照的……、いや、こういうのを対照と言うのかは分からないけれど、流星さんは耽美な芸術品を想わせる繊細な美人である。方向性は違えど、兄弟揃って男前だ。世の中は不平等、と騒ぐのも馬鹿らしいくらい別の生き物にしか見えない。
そんな芸術品らしい美丈夫は、炎天下に放置された生ごみを見るかのような視線を私に向け続けていた。大君の前では絶対にやらないくせに、二人になった途端これだ。
「そうは言いますけど、大君もネルちゃんもどう見たって――」
「上手くいくはずない」
にべもしゃしゃりもない。こうもぴしゃりと断言されてしまっては二の句が継げなかった。
心の中でしか反論できないが、私の目から見た大君とネルちゃんは両想いである。恋愛の一番楽しい時間を二人で大切にしているのは微笑ましいし、私は二人とも大好きだから応援したいと思っている。
ただ、素直に頑張れと言えない理由もあった。
「人魚との恋なんて、絵本の中だけで十分だろ」
ネルちゃんが人魚であること。
「誰が大河たちの関係を祝福する? 特に人魚は異種族と関わるのをよしとしない。彼らを蔑む声しか上がらないと断言できる。僕は大河が気を病むところなんて見たくないんだ」
流星さんが強烈なブラコンであること。それから――。
「せめて、女性の人魚だったらここまで反対しなかった。人魚たちだって同じこと思っているよ。最悪でも、相手が人間の女性だったらまだ許せたのにってね。そうやって誹謗中傷されるのが分かっていて、大河に一時の感情のまま突っ走らせるわけにはいかない」
大君もネルちゃんも体の性別が男性であること。
私の主観でものを言っていいなら、自由恋愛万歳、性別も人種も関係ないよ、と声高らかに宣言している。ただし、そこに二人の未来に対する責任は皆無である。今が幸せならいいじゃん、という単純な主張。人型異生物――異人たちのことをよく知らないから言える浅はかな見解。
二人が進んでいるのは障害の多い恋路、現実はそう甘くないらしい。
「二人が最初の例外になるかもしれないじゃないですか」
「君も飽きないね。この問答、まだするつもりなのか」
ふ、と呆れたように嘆息した流星さんは「他人の心配をする前に自分の心配したら?」と直球の正論をぶん投げてきた。あまりにも鋭いそれは目を見張る速さで心を貫通する。ぐさっときた。
「家の都合で見合いをして、よく分からない家に嫁がされるのは嫌なんだろう?」
「う……、……はい、絶対に嫌です」
私が副業としてここで働き始めた理由は、ずばりお金である。
借金があるわけじゃないし、生活に困っている――はちょっとあるけれど、本業では正社員として真面目に働いているし、最低限の生活はできている。それでも、お金が必要なのだ。自分の自由のために。
「何度も同じことを言わせないで」
大君、ネルちゃん、流星さん。それぞれの気持ちを推察することはできても、じゃあ実際にどんな行動を起こして、どんな結末になるのが理想なのか私にはさっぱり分からない。少なくとも、全員が幸せになる未来を思い描けたことは一度もない。
思ったままに「やっぱり、私でどうこうできると思わないんですけど」と申し出れば、間髪入れずに「それでもどうにかしてくれ」と跳ね返された。
友達の恋愛は応援したい、家の都合で結婚なんてしたくない、友達に嘘はつきたくない、お金が稼げなければ強制的に実家に連れ戻される――、頭も心も混迷する。ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。結局、このときの私は押し黙ることしかできなかった。