『棘のある美しさ』そして『希望』
週末の夜半。再び孤独を噛み締める作業に勤しむ。行きつけのバー。「いつもの」で提供されるカクテル。愛想が良い長身のマスター。私の様子を横目で伺う、雄。気づかない振りをして、カクテルを一口啜る。美味しいと呟く私に返事をするのは、隣に腰掛けたあなたではなく、眼前のマスター。
「瑠美とはもう会えない、別れよう。子供の為に妻とやり直したい。瑠美の事は本気で好きだったよ。でも、子供を捨てられない」
そんな簡単な言葉で、私と遼介の関係は終わった。3年の歳月が、30秒未満で片付けられた。去っていく背中を追いかけて、引き戻す事は出来なかった。別れ話を言い放った遼介の顔は、私が愛した人のそれではなくて、『夫』や『父』にカテゴライズされる人物だった。引き戻したい彼は死んでいたのだ。
妻と子供の代わりに捨てられた私に残されたのは、遼介との甘美な日々の記憶と、彼が大好きで、影響されてお気に入りになった、手元で輝くドライマティーニだけ。
「カクテルには、花言葉ならぬ酒言葉があるんだよ。ドライマティーニは『棘のある美しさ』で、美人でちょっと気が強い瑠美に似合うだろ?飲んでみなよ」
遼介に勧められて、初めて口にしたドライマティーニは、度数は極めて高くて、尚且つ辛口だけれども、爽やかな口当たりだった。そして添えられたオリーブをひと齧りすると、甘味さえも広がり、私はすぐに気に入った。齧ったオリーブを浮かべると、油分がドライマティーニに虹色の膜を創り出す所も、素敵だった。
「酒言葉ってお洒落で素敵だけど、あんまり嬉しくないわ。遼介は私の事、キツイ女だと思っているの?綺麗って部分は否定しないけど」
「もちろん、優しくて愛情深い女性だよ。僕は知っているさ。君は、普段それを隠しているだろ?」
隠しているのではなかった。私の優しさと愛情は、遼介と組み合わさる事で発揮されるのだ。愛すべき男性と、他の有象無象が同一な訳あるものか。
「お姉さん、綺麗ですね。一人ですか?良かったら、ご一緒させて下さい」
思い出の海を心地良く漂っていたのに、いきなり浜辺に打ち上げられた。有象無象の雄が、パーソナルスペースを無遠慮に侵略してきた。
「ドライマティーニ、美味しいですよね。俺も前は飲んでたな。ジンベースのカクテル好きなの?カクテルなら、俺詳しいから色々教えてあげるよ。マティーニなんて有名で初心者向けのより、もっと美味しくて、酔えるの知ってるからさ」
無視を決め込んでいるのに、どんどん距離を詰めようと捲し立ててくる。その軽薄さにぞわりとした。身体が拒絶反応を示し、肌が毛羽立った。何より不快で許し難いのは、遼介と私の大事なカクテルを嘲笑した事だ。黙っていたら、つけ上がるだけだと判断し、睨めつけて、「消えろ。有象無象のカス」と言ってやると決心し、顔を向けた時だった。
「お客様、申し訳ございません。私の恋人なので、お声掛けはご遠慮下さい」
私も、軽薄なカスも正面を向いた。声の発生源が、にこやかな笑みをたたえて、直立不動の姿勢を取っていた。
「マスター、そういう嘘いらないよ。魅力的な女性に声掛けてるだけだからさ。野暮な事しないでよ」
「嘘ではありません。名前はサトウルミ、28歳。職業は病院で事務職。趣味は香水集めとネイルアートとカクテルを飲む事。カクテルは私の影響ですね。職場の上司に香水の匂いとネイルアートを控えるよう注意されても、反抗して言い返す始末。しかし、本当は優しい一面のある女性です。以前、私が仕事中に指を切ってしまった時に、常日頃から持ち歩いている消毒液と絆創膏で応急処置をしてくれました。ルミ、鞄の中に入っている物を見してあげて」
私は戸惑いながら、常備している2点を取り出す。現物を認めると目を見開いて、鳩のように首を忙しなく左右に振り、私と、恋人になったらしいマスターを見比べる。その視線には疑惑の色が微かに残っていた。
「ルミ、私が君にピッタリだとオススメした、ドライマティーニの酒言葉を教えてあげて。面白がった君が、カクテルを趣味にするきっかけになったよね」
「……『棘のある美しさ』よ。本当失礼しちゃう。せっかく彼の仕事振りに見惚れながら、お気に入りのカクテルを飲んでたのに。カクテルの事は、プロからご教授して頂くので結構よ。わかって貰えたかしら?」
大袈裟に項垂れて、「マスター、自分の店で自分の女見せびらかせるの悪趣味だよ」と敗北宣言をして、私の罵詈雑言を受ける筈だった輩は去っていった。完全に気配が消えた事を確認してから、私は深呼吸をした。思いの外緊張していたようで、胸の鼓動が耳の奥から響いて、吸って吐くという当たり前のルーティンが上手に噛み合わなかった。
「怖い思いをさせてしまい、申し訳ございません。あと、お客様の情報を使用し、恋人を名乗ってしまい、重ねてお詫びします」
私を落ち着かせる為にか、水と謝罪が差し出された。半分程を一息に飲むと、心拍数が徐々に整い、身体が呼吸の仕方を取り戻した。
「助けてくれて、ありがとうございます。遼介とのやり取りを見ていたからですよね。私のプライベートに詳しかったのは」
「その通りです。いつもセンター席で、お連れ様とだけの世界を拝見していましたから。他に場を納める方法を、思いつきませんでした」
遼介と、必ず週に1回はこの店で逢瀬を楽しんでいた。職場でのエピソードは、職場の上司である遼介にこの店で咎められたのだ。少し、控えるようにと。他の女性職員から、苦情が出ているらしかった。私は、そんな奴らの意見を優先するのかと憤慨して、聞く耳を持たなかった。出会った頃に、遼介が褒めてくれたのに。爪が綺麗で、良い匂いがすると。だから、夢中になって整えたし、集めたのに。もっと褒めて欲しくて。
消毒液と絆創膏は、以前職場で遼介が書類で指を切った事があった。それに気づいた他の女性職員が、常備していたそれらを用いて、処置をした。私はその様子を、指をくわえて傍観するしかなかった。それが腹立たしくて、忘れられなかった。
「私も用意しました。これを毎日持ち続けます。さぁ、いつでも遠慮なく、怪我をして下さい。今度はこの、佐藤瑠美が治療しますから」
「怒らないでくれよ。仕方なかったんだから。でも、ありがとう、瑠美。これ、瑠美の手で貼り直して下さい」
いつもマスターの眼前で、こんなじゃれあいをしていた。マスターが、自ら私達の世界に踏み込んだ事は1度もなかった。遼介が水を向けた時に、数回会話をした程度だった。
「こちら、お詫びの気持ちを込めて、サービスさせて頂きます。たまには、違うカクテルもお試し下さい」
飲みかけのドライマティーニに並列して登場したのは、白濁色の液体と、爽やかな印象を演出する、カットされたライムが添えられたカクテルだった。
「綺麗なカクテルですね。でも、結構です。助けてもらったのはこちらですから。盗み聞きしてたとか、個人情報を漏らされたとか、まったく思ってないですし」
「お作りしてしまったので、召し上がって下さい。カクテルのプロがご教授致しますから」
先程の台詞を流用されて、鼻頭周辺が火照るのを感じた。それを悟られたくなくて、カクテルに手を伸ばした。口当たりはドライマティーニのように辛くはなくて、さっぱりとした酸味が口内を占領し、舌で転がすと甘味が顔を覗かせた。恐らく砂糖を使用しているのだろう。飲みやすさは、段違いでこちらのカクテルだ。私は3口でグラスを空にした。
「すごく飲みやすくて、美味しかったです。砂糖を使用していますか?カクテルって一括りにしているけど、最早別のお酒ですね。名前は?」
マスターは、コホンとわざとらしく咳払いをして、両手をお尻の辺りで組み直した。
「そちら、カクテル名を『ダイキリ』と呼びます。ホワイトラムとライムジュース、おっしゃる通り、砂糖を一匙入れているので、ドライマティーニよりは幾分飲みやすいですが、度数は決して低めではないので、飲み過ぎには注意が必要です」
カクテルは、遼介が教えてくれた1杯しか知らなかった。他は眼中になかった。1番好きだった人が1番好きなお酒だったから、私もそれが1番好きでいるのが幸せだった。私を連想してくれたカクテル。遼介がどこかで、ドライマティーニを口にする時、私を思い出せば良い。私が同じ時にドライマティーニを口にすれば、遼介と繋がっている。そしたら、彼から連絡があるかもしれない。そんな夢想を現実にしたくて、この店に足繁く通っていた。叶うはずないとわかっているのに。
「お客様、『ダイキリ』にも酒言葉、いわゆるカクテル言葉がございます」
丸みを帯びた、一見すると可愛らしくも映るシェイカーを振りながら、マスターは言葉を紡ぐ。オールバックでまとめられた黒髪の毛先が、僅かに揺れる。
「それは『希望』でございます。カクテル言葉は、どのカクテルにもありますし、その由来も私は熟知しております。どうか、お気に入りの1杯だけでなく、他のカクテル達もご賞味下さい。ドライマティーニを超える出会いが、待っているかもしれませんよ」
マスターの手元を眺めながら、言葉を反芻する。シェイカーが止まり、新たなカクテルが注がれる。視線を動かすと、目尻から雫がこぼれ落ちた。グラスを手にして、微笑むマスターに向かって、乾杯と呟いた。