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有斗くんと桐須さん

作者: 愛鷹

 会話の邪魔をしない、心地良いBGM。

 最小限の動作と声量で統一された、規律正しきウェイター達。

 お連れ様をお待ちの間に。と出された、良い香りがすることだけが解る、温かなハーブティー。


 どれもが初めて出会う体験。そして、その全てが僕と彼女の差を示しているようだった。



 ティーカップに口をつけたところで、ひとまず落ち着こうと首を回す。ついでに周りも見渡すが、他のお客さんはいないようだ。

 彼女は電車に乗り過ごしてしまったらしく一時間ほど遅れるらしい。注文も好きにしていいから待っていて欲しい。とハーブティーを持って来たウェイターから告げられた。

 思い出に浸るくらいの時間はありそうだ。他人の目を気にする事も今はないし、しばらくネクタイを緩めてゆっくりさせてもらおう。

 鞄は隣の椅子の上に置いてもマナー違反にならない、よな。


 《新進気鋭の天才ヴァイオリニスト》《神の左手》《彼女の音楽は寿命を伸ばす》などなど。

 待ち合わせ相手こと、桐須織鶴がこの五年で得てきた評価は、日本音楽界の歴史を変えた。近年では左利き用のヴァイオリンを愛用するなど、ヴァイオリニストとしての常識すらもぶち壊してきた。


 今や、世界の〜と言えばクロザワでもミトリでもなく《Orizuru》であることは間違いない。

 これでヴァイオリニストとしての経歴は十年に満たないのだから、天才と形容するより他はないだろう。

 そんな訳だから活躍は至る所で目にする。しかし会うのは彼女が海外に飛び出してから初めてだ。

 いくら旧知の中であるとは言え、緊張しない訳がない。

 

「ごめんね、遅くなっちゃって」


 意識的に伸ばした背すじが崩れ、本来の猫背が顔を出した頃。ここ何年かは今日のお天気ニュースが如くメディアから流れ続けてきた声に慌てて振り向く。


 そこにいたのは、気品ある大人なパーティドレスに、登山用リュックを合わせる不可思議な女性。

 あぁ、間違いない。久しぶりでもそう思えるのは、彼女の声を聞くたびにテレビに齧り付くせいか。それとも、未だ彼女と過ごした思い出を忘れられないからか。


 「おっそいわ」


 緩む頬を隠すように、視線を外すのが僕の精一杯だった。しまった。ネクタイを解いたままじゃないか。




「本当ごめんね。昨日日本に帰ってきたんだけど、時差ボケかなぁ。まいったまいった。あ、マトリョーシカ買ってきたよ。あとで渡すね!しかし久しぶりだねぇ。ふふ。カークジェラー?

 あれ、まだ何にも頼んでないじゃん。先に頼んでて良かったのに。そういうワンコっぽいところ、付き合ってた頃から」


「まてまて、ちょっと落ち着け。ツッコミどころが多すぎて処理が追いつかねぇよ。

 久しぶりに会ったんだからさ。もっとこう、あるだろうがよ!」

 

 話を遮られたのが気に入らなかったのか、期待した反応じゃなかったのか。

 彼女はぷいっと、そんな擬音が聞こえるかのように――いや、本当にそう言っていたかもしれないが――そっぽを向く。

 ちょっと強めの口調で話すとすぐこうだ。変わらない。


「お前本当にOrizuru 、なんだよな?」


「何よそれ。あ、バカにしてる? ちゃーんと本人ですっ!」


「いやだってさ。雑誌に、これぞ大和撫子。これぞクールビューティーって書いてあったからさ。」


「へっへーん。演技も上手になったでしょ!

 実は大道芸人やってた時の君のキャラ設定、使わせてもらってるんだよ。光栄に思いたまえ!」


 ケタケタと笑いながら、彼女は背負っていたリュックを肩だけで脱ぎ捨てる。次いで、ステップを踏むように足で椅子を引き、スカートで穏やかな波をつくりながら優雅に座る。

 所作の美しさに、これが正しい作法かと一瞬錯覚してしまった。


 これこそが一雁高空の、いやこの場合は一鶴高空の極地とでも言うべきか。

 普通であれば許されない行為が認められる、喜ばれる人間は間違いなくいる。

 そしてその資質は芸術家にとって必須条件なのだ。

 彼女のとの出会いがそれを教えてくれた。そして今、改めて痛感した。


 大きく息を吐く。

 久しぶりの再会だからって、何を話そうかあれこれ考えていた僕は、やっぱりどこまで行っても普通で。これが本物との差なんだろう。

 しかしまぁ。一方的に別れを告げた彼女が、無惨にも振られた僕に気を遣ってくれた事もまた事実だ。

 さらにお世辞まで言ってもらったんだ。これ以上突っかかるのも野暮だろう。

 僕も一つくらい喜ばせてあげなきゃ、筋が通らないはずだ。


「おかえり。あと、ハラショーだよ」


 彼女は一瞬だけ目を見開くと、屈託のない、満面の笑みを浮かべた。

 それは五年ぶりに見る、とても可愛らしい、絶対に守りたいと思わせるような笑顔だった。




「そう言えばさ。織鶴は結局、なんでロシアの楽団にしたの?

 オーストリアからも声かかってたんだろ。そっちなら英語も通じて楽だっただろうに」


 食事をしながら、何気なく聞いてみる。


「有斗がそれを聞く? 誰かさんが、海外には僕はついていけないって言ったからじゃない。

 私と別れる原因になったことなんて忘れちゃったのね。過去の女は辛いわぁ。

 そんなわけで、傷心の私は出来るだけ日本語が聞こえないところにしたいなって思ったんですー」


「……あー、なるほどね。なんか、こう、悪かったな」


 言葉以上に重みを感じさせる彼女の言葉に、反射的に謝ってしまう。

 いや、よく考えたら『海外で戦いたい。ついて来てくれないなら別れたい』って言ってたのは彼女で、僕は振られた側だったはずだ。

 分かってはいる。こういう事は思うだけに留めておくのが男の甲斐性だということくらい。

 僕も社会の歯車として成長した大人なのだから、それくらいの判別はある。


「……まぁ、でも結果的には良かったかな。珍しがってくれて、注目してもらえたし。

 それに、意外と英語も通じたしね。おかげさまで今やトリリンガルの美人演奏家。男なんて、選びたい放題だからね」


 織鶴は含みを持たせて話すと、反応を伺うように僕をじっと見つめる。

 両手で支えるように持ったミルクティーで口元を隠してはいるが、目元を見る限り、からかわれているんだろう。


 ひそめた眉を誤魔化すように目をこする。バレないように深呼吸を一度。よし、大丈夫。


「そりゃ良かったな、安心したよ。

 しかしトリリンガルね。そりゃあ、素晴らしいことで。でもやっぱり僕は日本人の誇りとして、ひらがなが至高の言語だと思ってるからね。三つどころか、これ一つで充分だとすら思ってるよ」


「ほう、それはそれは興味深い。して、理由は?」


 会話を続けたくなくて、舌が赴くままに話題を切り替える。彼女もそれを察したのか、それとも面白がったのか。ミルクティーを置くと、続きを促すように座り直す。


「僕も全部がそうかは知らないけどさ。外国語って、子音を発音しない場合が結構あるだろ。

 例えば、《twenty》は《トウェニィ》で《night》にいたっては《ナイッ》じゃないか。

 語尾の《T》や《G》はどこ行ったんだっての。無駄が多いんだよ、無駄が。

 それに対して平仮名は、50音を覚えればどんな言葉だって書き表せるし、その日のうちに読むことが出来るんだぜ?文字の形も簡単だしな。

 世界が平仮名だけになればどれだけ言語教育が楽になるか」


「なるほどね。確かに面白いかも。同音異義語の問題を乗り越えられるなら、だけど」


 む。確かに平仮名じゃ、文字単体では《あめ》が《雨》と《飴》どちらを差しているのかが分からない。


「そもそも、同音異義語にならないように、単語数を増やせば良いんじゃないか?百年計画くらいで単語を増やしていけば」


「その文字の確立まではどうするのよ。みんな、今まで通りに話してていいの?」


 たしかに、そりゃそうだ。

 織鶴が興味を失っていくのが、表情から見て取れる。

 そんな顔するなよ。僕だって何を話してるかよく判らなくなってきたんだから。


「じゃあ、平仮名の数を3000個くらい作れば!」


「それ、もはや漢字やカタカナを併用した日本語を拡めた方が早いんじゃない?

 というか。冷静に考えたら、そもそも同じ表音文字であるアルファベットでいいじゃない」


 こちらを見ることもなく言い放った一言によって、何気なく思いついた平仮名至高言語説は脆くも崩れ去った。

 話題を切り替えた代償としては大きすぎる敗北感と羞恥心を味わったせいか、この後の食事の味はよく覚えていない。

 決して高級品の味が判らない、味音痴の言い訳ではないことをここに追記しておく。

 


 

 食事を堪能し、今日何杯目かのハーブティーをゆるりと飲む。

 

「なぁ、本当に何も食べなくて良かったのか?」


「うん。やっぱり時差ボケかなぁ。あんまりお腹空いてなくて」


 未だ最初に注文したミルクティーをちびりちびり口にする彼女は、曖昧な笑顔を浮かべてそう言った。

 話していても、体調不良という感じはしなかったけど。いやでも、女性は、免疫力や体調不良の時に活動出来る幅が男性に比べて圧倒的に優れているって聞いた事もある。

 ならば、そろそろ聞いておいた方が良いだろう。


「それで、今日は何の話をしに来たんだ?」


「ん? いや、久しぶりに日本に帰ることになったから、昔馴染みに会おうと思っただけだよ。

 もしかして復縁とか期待してた? いやーん、それはまた考えさせて!」


 おどけているが、目線がいまいち合わない。

 ティーカップをテーブルの隅に置く。身体を少し乗り出し、彼女の目をしっかりと見つめる。


「織鶴」


「……」


「僕はお前みたいに特別な人間じゃないけどさ。普通のサラリーマンだからこそ出せる解決策もあると思うぜ。」


 ずるい言い方だとは思う。言いながら、胸の奥がジクジク痛むのがわかる。それでも彼女の悩みが少しでも楽になるなら、これくらいなんてことはない。

 この時は、本当にそう思っていた。恋の相談だって平然と聞いてやろうって、軽く考えていたんだ。


「特別だなんて言わないでよ。私だって、普通に悩んだり苦しんだりするんだから。

 ……あのね。私、ヴァイオリン、おしまいにしようと思ってるの」


――その言葉を聞くまでは。




 え、なんて言った?

 辞める?

 ヴァイオリンを?


「ほら。有斗と別れてから、ヴァイオリンに全てをかけてやってきたと思うの。それで、ありがたいことに評価もしてもらって」


「あぁ」


 だって、言ってたじゃないか。ヴァイオリンは私が人生をかけるって決めたものだからって。それだけは譲れないからって。

 僕と一緒に日本でやろうって言ったのを断ったのもお前じゃないか。


「なんていうのかな。表現したいものは、やりたい事は全部やり切ったと思うのよね。

 だから、その。そろそろ女性としての幸せを考えてもいいと思うのよ」


「うん」


 やりきった?だから次の幸せを?

 そんな簡単に終えられることのために、僕は苦悩を重ねてきたっていうのか。


「だから、その……有斗?」


「……駄目だよ。それはだめだ。」


「え?」


「そんな勝手は許さない。お前が言ったんだ、ヴァイオリンで生きていきたい。それも、世界で戦ってみたいって。

 全てを捨ててでも、そこで生活していくんだって。カッコいいよな。すごいよ。

 僕にはとても、そんな事をする勇気は持てなかった。それが選択出来る才能もなかったしな」


 僕はきっと今、引き攣ったような笑顔になっているんだろう。さっきまでは縋るような、媚びるような笑顔だった彼女の表情が消えていく。

 

「だからこの五年間、Orizuruをメディアで見るたびに複雑な気持ちを抱いたよ。

 友人としての誇らしさと憧れ。それに自分が隣で一緒に笑ってられない屈辱と劣等感。

 見れば見るほど辛いのに、目が、耳が、釘付けになるんだ」


 ずっと思っていた。

 どうしてあの時、挑戦しなかったんだろう。

 どうしてあの時、才能の上限を自分で決めたんだろう。


 口から出る言葉は全て、八つ当たりだ。でも、感情の吐露を止めることが出来ない。

 だめだ。こんな事を言いたいんじゃないんだ。こんな事を言うつもりじゃないんだ。

 しかし僕の感情は理性を押し倒し、簡単に飛び出してしまった。


「やりたい演奏はやりきった? 知ったことか。じゃあ次は踊りでも踊ればいいじゃねぇか。歌でも歌えば良いじゃねぇか」


 織鶴の顔が歪む。

 最低だ。本当に最悪だ。


「…ごめん。八つ当たりだった。話を聞くって言ったの、俺の方なのに」


 こんなにも薄っぺらい謝罪があるだろうか。開き直りにすらなっていない。


 でも、これ以上かける言葉がない。

 今にも泣き出しそうな顔をしている彼女に。

 自分から切り出させといて、こんな顔をさせてしまう自分にすらも。

 

 後悔と苛立ちだけが膨れ上がっていく。

 口から言葉を吐き出せば、また傷つけてしまうだろう。頭の中が真っ白で、指先がピリピリする。


「ごめん。本当に、ごめん。会計は済ませとくから」


 もうここにはいられない。もう彼女には会えない。


 せっかく久しぶりに会えたのに。

 せっかく楽しく話せたのに。

 せっかく、また一緒にいられたかもしれないのに。

 

 全部、全部僕がぶち壊したんだ。


 とにかくここから逃げ出したい一心で、鞄を掴んで立ち上がった。どう思われても仕方ない。


「待って! 行かないで!」


 織鶴も追うように立ち上がると僕の腕を弱々しく掴む。今更何を話すというのだ。もう、僕は全てを曝け出してしまったのに。

 ささくれ立った気持ちのまま強引に手を振り払おうとした。が、その時ふと違和感に気づいた。


……おかしい。いくらなんでも弱すぎる。


 動きを止めた僕を見て、織鶴は慌てて手をひいた。

 

「織鶴、お前」

 

 違和感を探るうちに、急に頭が冷えていった。いやそれどころか、至った仮説に全身が粟立った。


 よく考えたら、おかしかったんだ。

 いくら芸術家って言ったって、いかにもなお店でドレスにリュックを合わせたり、足で椅子を引くだろうか。

 食事に誘っておいて、ミルクティーしか飲まないなんてあり得るだろうか。

 そもそも、公演で世界中を飛び回っている彼女が、時差ボケを考慮せずに1時間も遅刻する時間に待ち合わせの予定を入れるだろうか。


「お前、まさか」


 彼女は観念したように息を吐くと、崩れるように椅子に座り、言った。


――指がね、両手とも駄目になっちゃったの。


 力なく言うその表情は、すでに哀しみを通り越し諦観の域に陥っていた。




 指が動かなくなる。ヴァイオリンに人生を賭けると誓った彼女にとって、それは死刑宣告と同義だった。

 

「向こうについて1年くらい経った頃かな。左手の指が思うように動かなくなってさ。

 最初は腱鞘炎かと思ってたんだけど、だんだんと曲げ伸ばしが上手くできなくなってきて。

 バレる前に左利き用のヴァイオリンに持ち替えたりもしたんだけど…負担がかかったのかな。右手も結局。それでもう、隠せないところまで来ちゃった」


 織鶴の言葉が上手く入ってこない。

 自分の感情が上手く整理できない。


「なんで、なんで最初からそれを」

 

「言ったら有斗、許しちゃうでしょ。貴方を捨てて、一人で飛び出しちゃったこと。判るもん」


「それは…」


「本当は会うつもりも無かったんだ。日本に帰るつもりも。

 これまでの私を全部捨てて、どこかで一人で過ごそうって思ってた。仕事はまぁ、コネで何か探そうって。

 それで最後に携帯の整理してて……おかしいよね、気づいたら、電話してたんだ」


 彼女の痛みが伝わってくる。

 天才と言われ続ける彼女の重責と葛藤、苦悩。

 理解はきっと出来ていないだろう。それでも痛みだけははっきりと伝わってくる。


 「今日だって楽しく過ごしてそれで終わるつもりだった。いい思い出になるはずだった。

 だけど有斗が変わらず接してくれるから、期待しちゃったんじゃない。

 私だって皆みたいに、幸せな女の子になったっていいのかなって思ったんじゃない!」


 ポロポロと涙を流しながらうなだれる織鶴。本当はここで抱きしめて、頑張ったなって言えばハッピーエンドなんだろう。

 実際これまで本当に頑張ったんだ。あとは結婚して、出来たら子どもも産んで、家族一緒に穏やかな日常を過ごしたって良いはずなんだ。

 曲がらない指だってプロのヴァイオリニストとしてはダメでも、日常生活を送るくらいまでは治るかもしれない。

 僕も愛した女性のために、これからも誠心誠意働こう。そして普通の幸せってやつを築いていけば良いじゃないか。

 

 別れる前であれば、そう言ってあげられた。でも今は出来ない。その先に何が待っているかは、僕が過ごして来た日々を振り返れば想像に容易いから。

 だから伝えよう。悔恨の日々は、今日、この時のためにあったはずだから。


「織鶴、よく聞いてくれ。」


 返事はない。


「一度舞台で喝采を浴びた人間は呪われる。

 降り注ぐ歓声。鳴り止まない拍手。圧倒的万能感と満たされる自己肯定感。あれ以上の幸福を感じることは本当に難しい。

だから満足せずに、何かしらの理由をつけて舞台を降りた人間は必ず後悔する。

 なんであそこで辞めたんだ。辞めてなかったら、どうなっていたんだろう。ってな」


「…それは、有斗のことでしょう?

 私はもういいの。もう、いっぱい頑張ったもん」


 そうだ。彼女の言う通りだ。


「そう、その通り。

 だからこれはお前を励ます言葉でも、慰めることでもないんだ。

 僕の為に。あくまで僕自身を救う為の話なんだ」


「有斗のため?」


 ようやくこっちを見てくれたな。

 

「あぁ。ずっと気付かないふりをしてきたけどな。

 僕、本当は織鶴みたいになりたかったんだ。どんな結果になっても、自分の力をもっと試してみたかった。

 でも凡人だから、才能ある人達みたいにはなれないって決めつけてたんだよ。

 ただ知らない土地でお前の隣にいて、ちっぽけな自分を突き付けられるのが怖かっただけなんだ」


 幻滅されたかな。失望されたかな。

 それでも彼女に言わなければならない。


「あの時はちゃんと向き合えなくて悪かった。

 その上で頼む。もう一度、チャンスをくれないか?

 分かるんだよ。織鶴も今舞台から降りたら俺と同じになっちまう。

 表現者ってのは、他の人間を喰らい続けてでも舞台に立ち続けなきゃダメなんだ。降りたらそこで死んじまうんだよ。

 だから頼む。僕と一緒に足掻いてくれないか?」


 頭を下げる。

 一人で出来ないから力を貸してくれ。なんて恥ずかしいし、情けない。

 それでもこれは僕にとって最後のチャンスなんだ。なりふり構っていられない。

 それにきっと彼女にとっても悪くない話、だと思う。同じ後悔はさせたくないって気持ちは間違いなく本音だから。

 あとは織鶴が乗ってくれるかどうか。


「……酷いよ。それに遅いよ。そもそも、今から何をどう形にするって言うのよ」


「ヴァイオリンは僕が弾く。今は無理でも、必ず織鶴の出したい音を出してみせる。そんでお前は歌え。

 なにもプロのヴァイオリ二ストになるわけじゃない。天才、桐須織鶴の奏でたい音だけを出す、指の代わりになれればいい。その上でお前は声で伝えたい事をぶつければ良い。

 そうすればOrizuruはもっと多くの人の元まで飛べるはずだろう?言わばこれは、そのチャンスなんだよ!」


「Orizuruをさらに多くの人に届けるチャンス……この怪我が……ばか。そんな無茶苦茶な話……」


 そうだよな。まぁ、こんな提案、信じてくれってのが無理だよな。

 呆気に取られ空笑いをしている織鶴を見て、急に自分の発言に恥ずかしさが押し寄せてきた。


「めっちゃくちゃ燃えるじゃん!!」


……え?


「技術を失った私と、技術を知らない貴方で業界に殴り込み。まずは、私の技術を徹底的に教え込んで……ふふふ。想像するだけでワクワクする。

 あ、すいませーん! ミルクティーおかわりくださーい! あと、さっきまで彼が食べてたもの、ちょっとずつ盛り合わせにして持ってきてくださーい!」


 さっきまでの涙はどこに行ったのか。立ったり座ったり、あっちこっちに視線をやりながら何かを考える彼女。

 あまりの豹変ぶりに、今度はこっちが呆気に取られてしまう。

 

「自分で提案してなんだけどさ。いいのか?」


 俺がどれだけ無茶な事を提案したのか、伝わっているだろうか。

 自暴自棄になっているだけじゃないか不安になり、ついそう聞いてしまった。


「なに? 今更無しなんて言わせないんだから。

 言っとくけど厳しいわよ、私の指導は」


「お、おう、任しとけ。もう絶対に後悔したくないってのは本気だ」


 お待たせいたしました。こちら、ミルクティーのおかわりと、各種プレート盛り合わせでございます。

 お連れさまにはこちら。サービスのダイキリでございます。


「あ、はい。ありがとうございます。

 ん? もしかして」


 ウェイターの態度に若干の気安さを感じる。

ふと周りを見回すが、食事を楽しんでいる声はどのテープルからも聞こえない。

 自分が如何に視野が狭くなっていたかに気づき、頭を抱える。


「そうだよ。今日は貸し切り。こんな手の状態じゃ迷惑かけちゃうしね、先に話は通してあるに決まってるじゃない。

 知らずにあんな大声出してたの? うわぁ、それはないわ。」


 舞い上がって、盛り上がって、落ち込んで、懇願して。自分の発言、行動を思い返す。

 もうウェイターさんの方を見られないじゃないか!

 声にならない声をあげて頭を抱える僕は、なおさら滑稽だろう。

 

「まぁいいじゃない。

それより名前を決めましょうよ!」


 悶える僕を無視して、織鶴が足をぷらぷらさせながら言う。

 ご機嫌になったのは分かったが、時折ヒールのつま先をスネに当てるのはやめてほしい。行儀も悪い。


「名前か……そのままOrizuruでいいんじゃないの?俺はあくまで織鶴の指の代わりだしな」


「駄目だよ!有斗がそうであるように、私も変わりたい。

 Orizuruは、今日で、おしまいなの。明日からはそうだなぁ。うん。ただの、桐須としてやっていくことにする」


 一人で考え、一人で決断し、一人で前に進める。これが織鶴の強さだ。

 たった一つのきっかけでここまで前向きになれる彼女を、僕はとても尊敬している。海外に飛び出して行った時も、そこで成功を収めた事を知った時もその気持ちに変わりはない。

 だけどそれは危うさでもあるはずだ。即断即決が必ずとも最善とは限らない。パートナーを称するなら、僕がそれを教えてあげねばなるまい。



「なるほど……わかった。

 でもな。極寒のロシアの地で、怪我や文化の違いとも戦ってきた事を全て否定するのは違うとおもうぜ。Orizuruとしての時間があったから、これから桐須としてやっていけるんだろう?

 だからさ。形を変えてでも、残しておかなきゃだめだと思うんだよ。

 僕と桐須と、織鶴の三人で前に進もうよ」


 彼女はヴァイオリニストとして、どんな気持ちで、どんな風に闘ってきたんだろう。

 きっと凡人には想像も出来ないほど凄まじく、過酷であったに違いない。

 であれば、決してそれを蔑ろにしてはならないはずだ。


「そっかぁ、うん。ありがとう。でも三人でって言ったって、何か良い案はあるの?」


 人生ってわからないな。あの日言えなかった言葉を言えるチャンスが突然やってくる。今日はそんな奇跡が何度も起きる。奇跡に奇跡が重なった時、それはなんて言うんだろう。


「大学を卒業したらさ。僕、彼女にプロポーズするつもりだったんだよ。『金はないかもしれないけど、死ぬまで笑顔でいさせてやるから』って。チーム名も勝手に決めててさ。

 良かったらその名前、使ってもらえないかな。結局振られちゃったから縁起悪いかもしれないけど」


 なんだか言っててめちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。

 既に空になってるハーブティーを飲むふりをする。生唾を飲んで誤魔化してみたりもする。

 織鶴は顔を伏せており、反応が読み取れない。


 ……やばい。何か言ってくれ。


 沈黙に耐えられず、ついどうでも良い事を聞く。


「ところで織鶴。そのプレート、どうやって食べるつもりなの?」


 僕の問いに、織鶴は目元を擦り、立ち上がる勢いで顔を上げると


「そんなん決まってんじゃん。

……初めての共同作業ってやつですよ」


 顔を真っ赤にして、屈託のない満面の笑みを浮かべながらそう言った。

 それは初めて見る、とても可愛らしい、絶対に守り抜くと思わせる笑顔だった。





――騒めく観客達の声が聞こえる。それは期待の現れか。それとも嘲りの囁きか。


『大変長らくお待たせいたしました! 突然の活動休止発表から四年。

 ついに、ついにあの《Orizuru》が、ユニットとして帰ってきました!』


 地鳴りのような歓声。和太鼓を思わす、圧倒的な音の圧に、身震いする。呼吸が浅くなるのを感じる。


 「おうおう。なんかめちゃくちゃお客さん、ざわついてんな」


 「しょうがないよ、何にも説明しなかったしね。しかし、思ったより時間かかったなぁ。

 あれだけ自信ありげに言うんだから、もうちょっと生徒の出来が良いと思ってた私が悪かったよね。

 怪我をしてる私より運指が酷いのも、想定してなくちゃいけない事だったんだろうなぁ。」


 どこまでが皮肉で、どこまでが文句なのか判断に悩むような事を桐須が言う。少なくとも全部が本気で、冗談は一つもないんだろう。


 「お、やるか、こら。」


確かにそうなんだけど。僕も自分の才能のなさに驚いたけれども。それでも今日という日に漕ぎ着けたことくらいは褒めて欲しい。

 軽口ですらも声が震えるんだぞ、こっちは。


「……ふふ。でもさ、ここまで来たんだね。辿り着けたんだね。」


 確かに、ここまでは決して楽では無かった。それなりにあった二人の貯金はほとんど底をついているし、僕らの演奏や歌が、本当に観客を満足させうる出来まで上達したのかも微妙なところだ。

 それでも、だからこそ僕は胸を張る。


「そうだな。なんてったって生徒が優秀だからな」


「ばーかばーか。本当に……ありがとう」


「……おう。」


『闘病説。燃え尽き説。妊娠説。様々な憶測が飛び交いました』


「なんか、すんごい言われようだな」


「私の公式サイトもめっちゃくちゃ炎上したもんね。関係各所には頭が上がらないですわ。これからいっぱい貢献しなくてはなりませんね、有斗君。

 しかしあの司会者さんが言ってること、全部合ってるのがまた面白いね」


 私の指は、結局私にヴァイオリンを諦めさせた。

 日常生活を多少不便に生活する程度までの回復が精々。音楽家として舞台に立つのであれば、マイクを握るくらいしかやれる事はなかった。


 だからこの場に戻って来れたのは、誰がなんと言おうと彼のおかげなのだ。言ってあげないけど。

 むしろ、これからも全力で甘え倒すのだけれど。

 

『その答えが、今日、ついに明かされます!』


「まぁ、しゃあないさ。人気絶頂から突然の休止だからな。そりゃあ有る事無い事…って、え。全部って…え?」


 桐須の指は結局ほとんど治らなかった、らしい。

 日常生活もままならず、マイクすら脂汗が出るほどキツイ、らしい。心配だ。

 

 しかし、僕がこの場に立つ事が出来るのは、間違いなく彼女の力なのだ。

 織鶴の技術、Orizuruの名声、そして桐須の努力の賜物だ。今日の僕はその添え物であり、舞台装置である事を忘れてはいけない。

 でも。いずれはきっと。


『それではご登場頂きましょう!』


「さぁ。

行くよ!」


「おい、まだ話は……って、たく。

しゃあない。覚悟決めて、行きますか!」


 私達二人だからこそ、苦しい冬を耐えられた。

 僕達二人だからこそ、今日がこんなにも美しい。


有斗 quilt桐須(アリとキリギリス)のお二人です!!』


 さぁ。新しい春に、会いに行こう。

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