その1
朝方、やっと空気が暗闇から青っぽくなったころ合いのころ、どこかで蝉が鳴いていた。ヒグラシだ。甲高いキキキキという鳴き声がサインカーブのように大きくなり、それからひっそりと消えていく。鳴いているのは、一匹だけのようだ。鳴き声が静かな朝に響いている。鳴き声が世界中に広がっていくような響きの良さである。暗闇は鳴き声とともにやがて消えていく。はずであった。
ふと、小道に入った。大通りと同じ石畳の、建物と建物の間の細い道。そこから風が流れてきていた。ゆるゆると夜の冷たさを残した風。
建物に囲まれて大通りより暗い道。空を見上げれば真っ黒な建物の間に青黒い空。ヒグラシが一匹鳴いている。
キキキキ――――。
世界は暗闇に包まれている。誰かはそれを暗闇の地平線と言った。暗闇が晴れたとき、そこにあるのは、知らない世界であった。
闇の帝国
腕のない嘆いた表情の石像が目の前にいた。
「ここは、暗闇の帝国。ようこそ、ようこそ、歓迎いたしますわ」
真っ白の石像の両目から血が流れてきた。
「なんだ、ここは一体?」
戻ろうとしたが、振り返った道は、石畳の建物と建物の間の小道を、進んでみても、戻ることができなかった。その先になったのは、さっきの像のある広場。
「ようこそ、歓迎いたしますわ!」
像の目と口から黒い液体が流れていく。
気味が悪い。これは、現実か? エドワードは後ずさり、周囲を見渡した。この広場にはほかにも道があった。心臓が苦しく鳴った。
エドワードは駆け出した。右手奥の道へかけて進んだ。
道は、石畳、まっすぐ、両側は石の壁。走る。走る。走った。
やがて広場についた。先ほどの彫像はなかった。そこで一度足を止めた。肩で息をし、手をひざにつく。自身の呼吸が音はいっぱいだ。しかし、かすかにそこに別の音が混じる。
「ほーら、やってくるよ……」
「風が、季節を伝えるよ……明日がどんな日かわかるかい?」
声は、泣いた男性のような声で、エドワードは、しばらくそれを聞いていた。どこから聞こえるのか。音はだんだん近づいてくる。こんなのまともじゃない。
音は左の道から聞こえている。すぐにエドワードは戻り、元来た道の角に潜んだ。ちょうど道の隅に木箱があったので、その陰に隠れて様子をうかがった。
音は近づいていくる。音の外れた奇妙な歌。泣いているような歌。
そしてそれがやってきた。エドワードは息ができなくなった。
それは、大きな顔であった。ギリシャ神話に出てくる彫像の男性――ひげが豊かで写実的な――の顔が宙に浮いていて、髭をなびかせながら、するすると、広場にやってきたのだ。その顔の大きさはゆうにエドワードの背丈ほどはあろうか。
巨大な顔はするすると宙をすべりながら別の小道へ去っていった。
「きっと明日には花が咲くんだよ……」
去っていったのを確認し、エドワードはその場にへたり込んだ。
あれは、なんだったんだ。化け物じゃないか。どうなってしまったんだ。ここは、どこなんだ。考えていると足元から冷たく恐怖が募っていった。冷静さは異常を分析する。理解の及ばないものは、恐怖を与える。ぞくりと体が冷えていく。
おもむろに空を見上げた。欧州の町中にあるように、所せましと並んだ石造りの建物のその向こうにはどんより灰色の、黒い灰色の空があった。明るさなど感じられない憂鬱な空だ。
じっと見えていると雲がゆっくりと流れていた。
「さあ、行こう」
泣きそうな男性の声、それがすぐ背後から。
体全体から血の気が引くような感覚と心臓を鷲づかみされるような恐怖、振り返ったエドワードは足をもつれさせ、その場に倒れてしまった。その目の前にいたのは、ギリシャ人の顔の化け物。
「朝がね、きっとやってくるからね」
化け物はゆっくりと口を開いた。そしてそこから黒い水がたらたらと流れてできた。
「やめろ。なんだよっ」
黒い水が滴り、地面を濡らす。ぬるぬると油のように広がってくる。直感できる。それに触れてはいけない。
「さあ、旅に出よう」
エドワードは腰がひけてしまっていて、逃げる時間はゆうにあったのに、まともに立てず、おろおろと後ずさることしかできなかった。立ち上がれなかった。
もう黒い水は靴の先だ。
そのときだ。
黒い水が空中に持ち上がったのだ。誰かが布をつまむように、こぼれた液体の様子を逆再生するかのように、黒い水が宙に立ち上がり、それが広がり、人の姿になった。黒い液体が人の形をして、エドワードと化け物の間に立ちはだかったのだ。
それは、手を突き出し、化け物の口の上と下をつかみ、両手で化け物の口を無理やり開きだした。
「歌おう、う、うたお……では、ないか。がががあ」
黒い人型の液体はそのまま力づくに化け物の口を、めりっと引き裂いてしまった。すると、そのままめりめりと裂けていき、化け物は真っ二つになってしまった。
化け物はゆらゆらと宙をただよって、そのまま地面に落ちていく。
黒い人型がちぎれた片方に近づいて手を触れた。すると、化け物の白い色が黒く移り変わっていき、代わりに人型に色が生まれていく。しかし白くはない。黒いローブのような服には服の色、肌には肌の色、髪の毛は金色。
その姿は少女だった。美しい少女だった。
少女は、もう片方の化け物のむくろに近づき、触れた。今度は化け物にも少女にも変化はない。
「ふう、これでやっとしゃべられる」
少女は、少女らしいかわいらしい声でそう言ったのだ。そしてエドワードの方を見てにこりと笑ってみせた。
「やあ、異世界の少年」
この異様な不気味な世界においてその笑顔は全くそぐわなかった。
「君は……」
「私はマルセル。ようこそ、この暗黒の世界へ」
エドワードはまだ腰が抜けて地面にへたり込んでいた。マルセルと名乗った少女は近づいてきて手を差し出した。それは先ほどまでは黒い水であり、化け物を引き裂いた手である。
「大丈夫、私の手は君に危害を加えるものじゃない」
「僕は、こ、このよくわからないところに迷い込んでしまった。何もわからない。それで何を信じろって?」
「そうだね。ここは現実を超えた暗黒の世界なんだよ。でも、その中で私は、今、人らしい見ためをしているだろう? それに君を助けた。言葉だって通じる。そして中々綺麗なはずだ。どう、信じる気になれない?」
「最後が怪しいよ」
そうは言いながら、エドワードは彼女を信じるしかないのだろうなと思っていた。
「化け物よりは遥かに良いと思うよ」
「君はどうして僕を助けてくれたんだ?」
「異界から来た君には、手伝ってほしいことがあるんだ。話をきけば、君もうなずけると思う」
エドワードは逡巡し、意を決して少女が差し出した手をつかんだ。冷たい手だった。少女に引っ張られ、エドワードは立ち上がることができた。立ち上がったが、体は、風邪をひいたようにふらついて、力も弱弱しかったことに自分でも驚いてしまった。
「この世界には、願いの杯があるんだ。何でも願いが叶う杯なんだ。私は叶えたい願いがある。君が元の世界に帰るにはそれに願うしかないんだよ。それを一緒に探しに行こう」
「願いの杯、そんなもの……」
「信じてないね。無理もない。ここは君のいた世界とは全く違うんだから」
「それは、どこにあるわけ?」
マルセルは顎に手を当てて、思案した。
「それはね。……よくわかってない」
「じゃあ、最後にもう一つ、マルセル、君は何者?」
「この世界の住人さ、さっきまでは形もなく、幽霊のような状態だった。今はこの体を得たけども」
「見た目には人だね」
すると、マルセルがエドワードの手をつかんできた。
「見た目だけじゃないよ」
それは人の手の感触だった。しかしそれが逆に違和感でもあった。
「助けてくれてありがとう。信じさせてくれ」
今、現在、そうするしか道はなさそうだった。
「ありがとう。恩に着るよ」
なぜか、少女が礼を述べてきた。
彼女は改めて、名を名乗った。エドワードも名を名乗った。そしてまた、握手をした。