蹲踞(そんきょ)正座(せいざ)座禅(ざぜん)【2021/04/06】
明治時代を描いた漫画『ちよこやちよこ』という作品には『日本人はあまりにも正座に慣れ過ぎていて、明治時代の日本人は西洋式の椅子に座ると脚が痺れた』という描写が存在する。
慣れると人間、正座も蹲踞もまるで苦にならない。
少なくとも筆者は本稿を書くために丸一日正座したままパソコンを使っている。
筆者はアカ中学時代なんらかの罰で正座させられたが、『こいつは膝を踏まないと罰にならない』と教師に言わしめたことがある。
正座のコツはこまめにすわりなおす。尻の骨を踵の骨のへこみに乗せるなどがある。
つまり、脱力してなお、体のバランスをうまくとって分散させることが肝要である。
筆者が椅子に座ると『ピシッ』とした、明らかにリラックスしているように見えない姿勢になるが、これは脚の重さを脚側にし全身の重さを両手から膝に伝えて椅子と足で全身の重さを調整しているからである。別に姿勢をよくしているわけではない。
たまに『もっと楽にして良いよ』と呼ばれるが筆者にとってはその『正しい(苦しい)姿勢』のほうが『身体が楽』なのである。
だって体重は垂直に落ちるもの。ある程度健康的に筋骨がそろっているならば全身で適切に支えれば自然『正しい姿勢』になるし、力を完全に抜いてなおその姿勢になる。
まあその筆者でも色々鍛えていないため時々姿勢がおかしくなる。
警備員はビシッと立って一人前というが、これを脱力して尚できればまぁ及第点だろう。話によると3年はかかるらしい。
筆者にとっての警備員は『年間通して立つ練習ができる環境』であり、運動をする人間にとって『止まる』訓練は得難いものではないかと愚考している。少なくとも立つ練習は体幹が整う。
基本、人間が行う『武術』とか運動は外部の情報を間違いがあるという前提をもって適切に処理し、正確に脳や神経をコントロールして行う『断続的に途切れず止まる』動きを適切に処理して発動する身体操作や精神や言語をツールとした総合的なコミュニケーション的なものを後世に伝えていくものであると本稿では定義する。
これは適切に『弱くなる』ことを後世に伝えることである。『負け方』とでもいうべきか。
『は?! 武術をやると強くなるだろ』
そう思われる方はとりあえずそう思って頂いていたほうが筆者としては助かるのでそのままでいてください。
何故このように定義して本稿を書いているのかというと、そうしないとドラゴンに刀で立ち向かうとかバカバカしくて書いていられないからだ。
実に恥ずべきことだが、本稿において武術の経験も能力のないくせに思い込みを語る筆者を含め、武術を統計学や力学で数学的に解明しようとする試みは極めて少数派と言わざるを得ない。少なくとも国内ではだが。
面白おかしく書くために筆者は色々調べているのだ。
それ以上でもそれ以下でもない。自分は武術家でも研究者でも数学者でもないのだから。
巷にあふれるインターネットテキストを読んでいる限りでは、武術の使い手や関係者は思い込みで語る以上、だれも査読や科学的ツッコミを行うことはないと理解できる。
挙句、師匠の技にかかってあげないとひどい目に遭うので念力を受けたら『無意識に』空を飛ぶことを習得する。
こんな世界を科学的に査読して原稿を書くなんてできるはずがない。
筆者は娯楽小説を書くのだが、娯楽小説よりバカバカしい世界を真面目に考えるほうがおかしいのだ。
まともに格闘技の知識を語られても困る。
だって呼吸一つ、ググってわかる腹式呼吸一つとっても師範以上が間違っているのだ。
また、優秀な術者は優秀ゆえにその成功が認知を歪める。(『ファスト&スロー』)
筆者のような素人がみても『それは絶対おかしい』オカルトな記述がインターネット上には如何に溢れかえっているか読者の皆様にも想像に難くないだろう。
改めて参考資料の査読を行う必要を痛切に感じる。
というか、本稿はドラゴンをぶった斬るようなフィクションを面白おかしく語るのが本来の目的なのになんでこうなったのだろう(棒)。
あらゆる学びに言えることだが、本来つっ込むべきお弟子さんたちにとっても基本『絶対師匠に勝てないよう』武術や戦術は構成されていることを忘れてはいけない。
孫子の兵法の要は『使える』ことである。
つまり、人間はそれを『学ぼう』とする。
果てはビジネスに使うとか、自分の得意分野に翻案しようとしだす。
そうすると相手の行動が予測できるようになる。
孫子も目論見通りと大笑いしていることだろう。
というか、誤用ではあるが論語読みの論語知らずとは先人もよくいったものである。筆者のことでもある。
オウム真理教のテロをいかに防ぐかという話になったとき、当時の軍事専門家が『テロリストはなんも考えない軍事の素人であり、戦術とか無縁で動くので長期的行動予測は極めて難しい』と発言している。
実に誠実な態度である。『ファスト&スロー』ではこのような専門家は今後呼んでもらえなくなると指摘している。
大嘘でも自信満々な輩のほうがコメンテーターや経営者は尊ばれるからだ。
それは現在蔓延る自称インフルエンサーどもにも言える。
彼らが時として言い放つ評価経済は学問でも何でもない造語である。そしてそれに該当する貴族主義や社会主義は銀行と金によって『嫌われ者でも金があれば偏見や利害を超えて事業ができる』現在すでに否定されている。金というものはいいものだ。犯罪者にも偏見なく接してくれる。やり直しのチャンスを与えてくれる。
筆者は間違っても自分の娘をレイプした輩には物を売ったり助けてやろうとは思わない。実際信用スコアを貨幣にしていく動きが現実化すると犯罪者には実に生きにくい世の中になる。しかし金は『暗号財産』(仮想通貨)ではない。そういう輩も金さえあれば物を買い、人間の社会で生存することを許される。歎異抄の極楽世界は手元の一円玉一枚に既にあるのではないかね。
金とは利害や時間を調整してくれるし貧乏人が銀行に預けたお金で事業ができるようになることで貴族主義は壊滅した。
さて、資本主義を礼賛しているようにとられても困るので本題に戻っていく。
合気道を習っているのになんか師匠に睨まれただけで飛ぶ身体になっている事はよくある。これは本人達も『飛ばされている』と思い込んでいるがそういうように学習したからだ。
まぁ中には本物もいるかもしれないが少なくとも筆者は物理法則と関係なく触れずに誰かが飛んでいくのは催眠術や洗脳や教育、地域コミュニティによる文化であると考える。
人体構造上、純粋かつ正確に打撃を対象に叩き込むのは難しい。
だいたい人間の背骨は三メートル以上の自重に耐えることが出来ないらしい。意外とモロいし弱いし使いにくい。
武術に限らない。
力学的、生理的、数学的、あるいは失敗。ありとあらゆる環境要因。
それらを含めたありとあらゆる学びがあなたの未来を左右する。
師匠とあなたとの関係すらである。
名著『銃・病原菌・鉄』にて著者はポリネシア原住民のほうが一般的な白人より頭がいいと評している。ではなぜ彼らは征服されたか。
断じておくが文化には優劣などない。ものが『ない』ことは『無限に』あることである。
コロナで家にいたとき、あなたは音楽を聴かなかっただろうか。
小説を読まなかっただろうか。
料理や勉強などを始めた方もいたはずだ。
文化とは『隙間』にこそある。
ないものが『ある』ことが肝要でそれは武術に通じる。
その文化文明はその地域や環境に応じて最適化されたりそのようにメンバーが思い込んでいるだけである。少なくとも筆者はそのように解釈する。何故蹲踞の話で文化論になるのかは後述するとしてこのままお願いしたい。
我が国最古の戦術書『闘戦経』は孫子の兵法を踏まえたうえで『狭い日本でこんな卑怯卑劣な戦いをしたら自滅するぞ』ととくとともに『やられたら全力で卑怯だろうがなんだろうが最も相手が嫌がる方法(※もちろん孫子の兵法の使用を厭わない)で嫌がらせしろ!』としっぺ返し戦術を説く。
一見ダブルスタンダードだが理にかなっているのだ。
さて、休憩だ。
この間にコミュニケーションの要素と表現をまとめてみよう。
基礎表現として言語メッセージは。
言語音声メッセージ→話し言葉
言語非音声メッセージ→書き言葉・手話
読書き計算武術など ←?!
こんなところだろうか。
武術は読み書き計算と同じく言語非言語を交えた人間の文化である。
だが、人間だけが武術を使えると思っているならばそれは傲慢であると云わざるを得ない。
例えば犬とかは遊びながら使命感を持って敵を追い詰めて殺す。これは明らかに個体ごとに妙不妙が別れる。
猫の喧嘩を見ると投げ技を習得している猫がいることに驚くだろう。
彼らは四つの脚と見事な身体能力を駆使して空中戦すら制し飛ぶ鳥すら仕留める。
じつのところ人間が他の猿より優れる能力とされる『協力する』は淡路島のサルでも習得している。
他のサルでは食べ物に輪をつけ、二匹の猿が両端のロープを同時に引かねば取れない食べ物を易々と取ることができる。逆に他の書籍などで語られる道具を使いこなす個体がその文化を後世に伝える事例は枚挙に暇がないのでご自身で調べていただきたい。
では非言語メッセージとして武術を語ってみよう。
非言語音声メッセージ①
韻律素性・周辺言語(表情音声・声の性質など)は雄たけび、表情などで相手をだましたりだまされたりしている。
非言語非音声メッセージ②
外見的特徴(体つき・髪・肌の色・付加物など)ファッション
見た目は大事だ。ドイツのランツクネヒトは滅茶苦茶股間をデカく飾った。
威嚇をこめてデカい兜をつけたりもする。
他にも裸の女に見える甲冑とかも現存している。
筆者は化粧して女の服を着ると実年齢より14歳くらい若く見えるらしい。
また、16センチの高下駄を履くことで自分自身の視野や周囲の反応が『変な人』『背の高い個体』になることを確認済みだ。
他にも非言語音声メッセージは多々ある。
身体接触(本能的接触・儀礼的接触) 挨拶
身体動作(表情・身振り・姿勢・まなざしなど)アイコンタクト
※蹲踞や正座、胡坐などは単純な『体重を分散させるための楽な姿勢』であると共にこの項目に属する。
社会学者アーヴィング・ゴフマンはありふれた人間のコミュニケーションを研究対象とした。人々のコミュニケーションを「社会的相互行為」とよび、今でいう場の「空気」を「相互行為秩序」と呼んだらしい。彼に言わせれば身体接触やパーソナルスペースの侵略の他に視線を送ることはプライバシーの侵害になるという。
この空間、空気を我々は奪い合い共有しあう。
そのために人間は武術や戦術などを学ぶ。
電車の中でエロいおねーちゃんに視線をやるとこっちを見ていなくても易々と胸を隠されたりするのは読者諸兄も経験したことがあるだろうし被害に遭われた方もいらっしゃるだろう。ご愁傷様。
非言語メッセージはまだまだある。
におい・香り(香水・デオドラント)……ファッションとして。
異世界の敵が相手だと敵のウンコを身体に塗りたくって隠れたり、女の香水をつけて相手を誘ったり、現代なら女子高生の匂いになるボディソープ『DEOCO』を用いたり、あるいは日本では香水を媚薬として用いることを認めていないがトムフォード社は『ファッキンファビュラス』という製品を男女双方に使えるものとして販売しているようだ。
ゲイがつける香水はワキガ臭がする。そうしないとゲイにモテないらしい。
さて、ここからが重要な項目だ。
空間(対人距離・対人角度・空間使用)距離感
時間(時間の観念・時間に対する志向)習慣
これは武術にはものすごく重要だが、日本語の構造を見ると『心理的な距離感』が大きく特徴に現れる。敬語五表現があるのは伊達ではない。
読者諸兄は『あっち』と『こっち』の区別がつくだろうか。
同じ距離でも『あっち』と『こっち』は無意識レベルで我々は使いこなしている。
『あっちに来て』というが『こっちにいって』とはあまり言わない。『あっちに行け』『こっちに来て』だ。
これは日本語に身分の概念、その儀礼の為に『距離』を取る、頭を下げる、それができないときは心理的に『離れる』構造があることの証左ではないだろうか。余談だがこれを『こそあど(か)』とし、言語学的には指示語という。
なろう主人公は易々と人様の奴隷にも、時として王族にすら『敬語なんて堅苦しいからなし』という。
ぶっちゃけ敬語五表現などを真面目に使っていると主人公が不敬罪で簡単に首が飛ぶからだが(※物理的に)、作者としてもいちいち敬語など直していたら毎日更新ができなくなる。
また異世界に敬語五表現などあってもらっては困る。『戦乱の時代だから敬語とか発達していない』のほうが作者的に楽だ。文法的におかしい文章は読者さまによる誤字報告機能に委ねる。少なくとも筆者はそうする。
小説家になろうの作者は一日5000字以上更新する。
質より量で叩き潰すのは理にかなっている。
休憩は終わりにしよう。しかし話は休憩の話になる。日本人は古来からいろいろな座り方をしてきた。
特定非営利活動法人日本下水文化研究会(http://sinyoken.sakura.ne.jp/index.htm)によると。(以下引用)
あぐら(胡座。下腿(ひざから足首までの部分)を交差して座る。)
きざ(脆座。かかとを立て,膝を床につけて体重を支えて座る。)
かつざ(割座。膝を折り曲げ両脚を左右に開きその間から尻が直接畳につけて座る。女性 がペッタンと座る姿勢。)
たてひざ(立て膝。膝を立てて座る。)
うたひざ(歌膝。片膝だけを立てて他方はあぐらのようにして座る。朝鮮半島の人が今でも普通にする座り方。)
せいざ(正座。日本の儀礼的な座り方。朝鮮半島では犯罪人にさせる屈辱的な座り方とされている。江戸時代中期から庶民にも,儀礼として普及した。)
(引用終わり)
らしい。『楽にする』姿勢が民族によっては屈辱姿勢だったり骨格的に全く『楽にできない』姿勢だったりすることに着目してほしい。
しかし昔の日本人と今の日本人は骨格もだいぶ違う。
日本人には小指の関節が生来一部欠損している者がいる。これは靴を履くようになったかららしい。
日本人は蹲踞面が発達している。
伊達に和式トイレが今だ残っているのは管理者にとって掃除しやすいからだけではない。
半立姿勢である蹲踞、あるいはヤンキーのしゃがみ込みについては職人でもあった父曰く、『尻の骨を踵の骨の出っ張りに引っ掛けて乗せればずっとしゃがんで作業ができる』とのことだが筆者にはできない。正座なら丸一日可能なのだが。
長々となったが読者諸兄は刮目してほしい。
骨や筋肉や関節がそのまま椅子の役割をしていた文化が、想像上の異世界などでなく。
……ここ、日本にはあったのである!
そして、この蹲踞や正座、胡坐などは明確に日本の武術に取り入れられた。
具体的に述べると筆者は冬の最中に正座させられて延々と居合の稽古をさせられた。
なぜ居合に座った姿勢の技が多いのかというと身分の低い侍は蹲踞姿勢より頭をあげてはいけないというルールがあったからで、座ったりしゃがんだまま激しく戦う術が日本では発達したからだ。
これはフランク・ハーバードの『デューン』では個人用のバリアがあるので低速射出機(銃に相当)や武術が発達しているのと同じく、独特の進化である。
同じような進化、あるいは季候に応じて激しく動いたりあまり動かないよう締め技で無力化するなど地域によって武術には違いが見受けられる。
前述のオウム真理教では座禅を組んだままジャンプしてその写真を撮って『空中浮遊だ』と喧伝して信者を集めた。バカバカしいが似たようなことは現在もっと組織的かつ体系的に行われている。
筆者も当然、座ったまま『美しく』立ち上がる等ができる。
どなたか筆者をどこぞの教祖様のごとく養ってくれないだろうか。
しかしその筆者でも某パルクール教室の先生が『親指で拳を作って』正座の姿勢から立ち上がってストンと降りることで立ち上がるのを見た時は驚愕した。上には上がいる。
武術とはコミュニケーションや文化である。
それが物言わぬ石木であろうと、それを撃つとき我々はそれらと心身経験時と空間を超え一体になる。
文明や文化はコミュニティの思い込みにすぎないかもしれない。
また、異種族ならば精神構造も体構造も文化文明が当然異なり、それに合わせた心体操法が確立されていても何もおかしくない。
だからこそ、異世界に花開く武術は興味深いと思わないだろうか。
筆者はただ座ってパソコンを叩いているだけだ。
その基本である『座る』『立つ』から、武術の素人である筆者は本稿にて武術を今後も語っていきたい。




