旦那さまのお願い (前編) ニャンモナイト
長月おと様から素敵なFAを頂きました。それを見ながら書いた話です。イラストは後半で挿し絵として使わせてもらっています。また感想欄でカメラのアイデア、活動報告でニャンモナイトを教えてくださってありがとうございます。おかげでこの話が書けました。アンソニーの変態度はましましですが、笑ってもらえることを願って。
ガラスに覆われた艶のあるモノクロ写真を見た瞬間、アンソニーの胸は感動で震えた。
(絵画よりも早く、対象を写す技術が存在するとは……しかも、そのままの姿が銀板に描かれているじゃないか……なんてことだ……)
写真を撮るには、カメラと呼ばれる手で持てるサイズの四角い箱がいるそうだ。
ラッパみたいな形の突起がついた四角い箱がピカッと光ると、銀の板に対象者が写し出される。
これを写真と呼ぶ。
なぜそのようなことになるのか不明だが、高度な技術であることは間違いない。
第三王子の護衛のため、渋々きた隣国だったが、こんな感動的なものに出会えるとは。
来てよかった。
本当に来てよかった。
アンソニーはモノクロ写真を見て、感極まっていた。
彼が訪れた隣国では、すでにカメラが作られていた。
最近では、カメラのレンズが改良され、撮影時間が大幅に短くなったという。
アンソニーが暮らす国では、カメラの存在は広まっていない。
元々、絵画を尊ぶ国民性だったからだ。
ありのままの姿よりも画家によって創作された絵を慈しんでいた。
おかげで、貴族の見合いで使われる姿絵が美化されすぎて、「思っていたのと、なんか激しく違う……」という認識のすれ違いが頻発しているが、黙認されている。
美しく描かれたいという欲求はおさまることを知らず、女性の腰つきはそそるような流線を描き、男性は服の上からでも筋肉の溝がわかるように、逞しく描かれていた。
アンソニーは写真という言葉は知っていても、本物を見るのは初めてだ。
実に素晴らしい技術だと、心の中で絶賛していた。
(写真があれば、ヴィーの姿を時を止めて保存できるな。ヴィー・メモリアルを作ろう。騎士を引退したら、俺は写真家になる)
脳内で瞬時に計画を立てたが、このプランには重大な欠点があった。
そう。今のベアトリスの姿を撮らなくていいのか、という問題である。
(老後の楽しみに写真をとっておいたら、今のヴィーの姿が残せないな。くそっ……やはり、自国にカメラの技術を持ち込むのが最善だ。カメラを持ち帰り、ヴィーの愛らしさを今すぐ残そう)
そして、ベアトリスの写真を鑑賞するためだけの別館を立てよう。
もちろん自分が死んだあとは、別館を墓場とする。
花の代わりに、彼女の写真で棺を埋めてもらうのだ。
そうなれば、生涯を終えた後も、ベアトリスと一緒でいられる。
(最高のプランだな……)
描いた夢に胸を弾ませながら、アンソニーはさっそく第三王子に進言した。
「殿下、写真を我が国でも広めましょう」
「そうだね……だけど、絵画協会がやかましそうだ。彼らは絵画こそ芸術の極みと言っているし、貴族への発言権もある。
写真を見たら、芸術が爆発していないと騒ぐだろうな」
「しかし、殿下。カメラがあれば、イヴ様の成長をすべておさめられます」
イヴとは第三王子の娘の名前だ。
今、彼女は一歳。
よちよち歩きをするかしないかの可愛いさかりである。
彼は妻との待望の子供を溺愛していた。
それを象徴するエピソードとして、アンソニーとこんなやり取りをしたことがあった。
彼はアンソニーに対して塩を通りこして、ハバネロ対応をする。
アンソニーは第三王子が笑ったところを見たことがない。
そんな彼が、イヴが生まれたとき、微笑んでいたのだ。
ハバネロ対応しかしない彼が笑ったのだ。
「天使が、僕の元に来てくれたんだ」
万感の思いで呟いた第三王子に、アンソニーは心から喜んだ。
自分も嬉しくなって、天使の羽のモチーフがついたおくるみをプレゼントしたこともある。
しかし、第三王子は贈り物を喜ばなかった。
「イブにはもう羽が生えている。お前には見えていないの? アンソニー……お前……大丈夫か? 医師にかかって、目を検査してもらえ」
ハバネロ対応しかしない彼が本気でアンソニーを心配している。
親バカに進化したとしか思えない。
そんなエピソードがあったので、写真という魅惑の存在を第三王子は手に入れたいはずだと、アンソニーは見込みを立てた。
狙いどおり、第三王子は足を止めて考え込んだ。
チャンス到来。
アンソニーは畳みかけた。
「イブ様の成長は止められません。今、この瞬間にも、健気に足をプルプル震わせながら〝あんよ〟をされているかもしれません。
その場に殿下がおられたのなら〝あんよ、できたの。見て。おとうしゃま〟と満面の笑顔でいることでしょう。その一瞬のきらめきを、写真なら残せます」
アンソニーは熱弁した。
「殿下。思い出は、現実世界に残す時代がきたのです」
第三王子はアンソニーを見ずに、沈黙した。しばらくすると、ふっと、彼の口の端が持ち上がる。
「時代の波に乗るのも一興か」
「その通りです」
「……邪魔する奴は、また黙らせればいいか」
「えぇ、そうですよ。第一、第二王子のときのように」
第三王子は歩きだした。
足取りに迷いはなかった。
「絵画協会の中には、過激派がいるから、騒がしくなるだろうな」
「ご安心ください。暗殺者は残らず闇に葬りますよ」
「ま。お前がいれば、うるさいハエも叩き落とせるか」
「そうですよ」
第三王子はアンソニーに命じた。
「写真技術を我が国に広める。武器を持って暴力で邪魔する者がいたら、容赦なく叩き潰せ。救いの道は与えなくていい」
「御意」
王位継承権をかけたデスゲームを勝ち抜いた二人は、慈悲深い心は持っていない。きれいごとを言っていたら、生き残れなかったからである。
親バカとニャンデレが本気を出したら、恐ろしすぎる。……のかもしれない。
こうして現実世界にメモリアルを残すため、第三王子は写真を母国へ広めるために奔走した。
絵画協会と議論を重ね、不穏な状況になっても、アンソニーがしれっと潰した。
写真と絵画。どちらも実に尊いという結論が導きだされ、急速にカメラは普及したのであった。
*
アンソニーが己の欲求のままに突き進んでいる間、ベアトリスは彼と会えない時間が多くなり、寂しがっていた。
心を慰めるために、スティラをなでる時間が増えている。
あまりに寂しくなると、丸い箱に入って、お昼寝をした。
箱に入って体を丸く丸く、まるめる。
ニャンモナイトと呼ばれる体勢になると、ベアトリスの心は落ち着いた。
スティラも一緒になって同じ箱に入り、ニャンモナイト・ダブルになると、さらに心が安らぐ。
一人ではないあたたかさにほっとした。
「奥様があああー! ニャンモナイト中であるうううー! 静まれええええー!」と、慌てふためく使用人のざわめきを遠くに聞きながら、ベアトリスは今日も箱の中で、スティラと一緒に丸まっていた。
胸に抱いたスティラは気持ち良さそうにゴロゴロと喉を鳴らしている。
それを可愛いと思いながらも、ベアトリスはしゅんと項垂れた。
「わたくしもトニーに可愛がってもらいたいわ……彼の前で、喉を鳴らしたい」
猫に変幻することをあれほど嫌に思っていたのに、今では恐ろしくない。
アンソニーのニャンデレが無敵状態で、ベアトリスの全てを受け入れてくれているからだ。
猫になるとき、ベアトリスの心は解放される。
ありのままの姿で愛される喜びを知ってしまっては、もう戻れない。
手に出た肉球で、彼の服をふみふみしながら「構って……ほしいにゃ……」と言うことだってできるようになった。
「トニー……早く帰ってきて……わたくしと遊んで」
こっそり呟きながら、ベアトリスは目をふせた。
ベアトリスが目を覚ますと、デレデレした家令と目が合った。
家令はすぐに顔を引き締め、微笑んだ。
「奥様。旦那さまが帰ってきますよ。夕食は一緒に食べれるそうです」
ベアトリスの表情が明るくなる。
ぽんっと、鼻は黒くなり白いヒゲがでた。そればかりか、頭からはぽんっと黒い耳がでて、おしりからも黒く艶やかな尻尾がでる。
にゃんこ姿を見た家令は、笑顔のまま固まった。
喜びを全開にしたベアトリスは、うっとりと目を細くした。
「にゃーーーん」
トニーが帰ってくるのね、と言いたかったのに、猫語になってしまった。
いけないわと、唇を手でおさえて、耳をしょんぼりさせるが、もう遅い。
家令は笑顔のまま、後ろに倒れた。
後頭部を激しく打って、彼は動かなくなる。
「家令が尊死したー!」と、ドアの隙間をこっそり開けて、中の様子を伺っていた使用人がざわめきたった。
「俺が家令を救助する!」
「ばかやろう! お前も尊死するぞ! 奥様はニャンニャンモード中だ!」
「ではこのまま、家令を生きた屍にするというのか……! あの安らかすぎる顔を見ろ! 俺も尊死したい!」
「ばかやろう! 泣くんじゃねえ! 気持ちは痛いほど分かるが、奥様が困ってらっしゃるじゃないか……」
このままでは、全員、生きた屍となる。
どうすれば尊死せずにベアトリスに近づけるのか。
使用人たちが考え込んでいると、颯爽と現れた人物がいた。
「どきなさい。ここは、わたしが行きます」
「メイド長……!」
メイド長。
彼女は、ベアトリスのニャンモナイト睡眠バージョンを直視しても、三時間も耐えた強者である。
しかし、ベアトリスのニャンモナイト睡眠バージョンは強敵である。
すーすーと寝息を立てる彼女。
その姿はひたすら丸い。丸いのだ。
時折、片耳が悪戯にぴくんぴくんと動き、尻尾まで震えだしたら、可愛すぎて悶絶するしかない。
その姿を三時間も、目をかっぴろげて見ていた彼女は、ついに力尽きて倒れた。
目覚めた彼女は決意する。
奥様に仕える者として、このままではいけない。
なんとかあの可愛さを直視しても、意識を保っておかなければ。
そこで考案したのが、眼鏡のレンズを薄茶色に染めることだ。
レンズ越しにぼんやりと風景が見える──サングラスをかければ、ニャンニャンモード中でも視界がぼやけてくれる。
彼女を直視しているのに、意識が保てるという画期的なメガネだ。
口元はにやけ放題にするために、布でかくしてある。
我慢するから、余計に口元がだらしなくなるのだ。
ならば、隠してしまえばよい。
手袋は、当然、はめた。
ベアトリスの毛並みには抗いがたい魔力がある。
あの艶、あの肌触り。
触れた者に、忘れられない快感を与える魅惑の毛だ。
手が勝手に動きベアトリスの毛並みを堪能しないように、メイド長は最大限の注意をはらっていた。
完全武装したメイド長は、家令をずるずる引きずりながら部屋から退場させて、ベアトリスの前に立った。
「ごめんなさい。わたくしったら、つい嬉しくて……」
落ち込むベアトリスの前に膝を折るメイド長。
「奥様が気に病むことは何一つございません。わたくしどもが、心を強く保てばよいのです」
「でも……わたくしを見れないから、そんな格好をしているのでしょう?」
サングラスをかけ、口元を布で隠して、手袋をしたメイド長は、どこからどうみても怪しい人である。
彼女がここまで武装するのは、自分の猫化が原因であると、ベアトリスも気づいていた。
困らせてしまっている。
やはり慎みを忘れずに、猫化は避けた方がよいのだろう。
彼女の落ち込みを瞬時に理解したメイド長は、ベアトリスの手をそっと握った。
「奥様のお姿は至高でございます。尊く、決してなくしてはいけないものです。奥様がいるだけで、現世は薔薇色に染まりますのよ」
「そう、かしら……」
「えぇ。えぇ。可愛いは正義でございますもの。奥様を見ていられないのは、わたしたちが未熟なだけです。さあ、旦那様が帰られる前に、もっと美しく飾りましょう」
メイド長がベアトリスから手を離し、パンっと両手を叩いた。
サングラスメイド集団がずらりと参上する。
誰もが尊死しないように、準備万端だ。
ベアトリスはサングラスメイド集団に囲まれながら、アンソニーを出迎える支度をした。
*
そわそわとアンソニーの帰りを待っていたベアトリスは、耳をぴんと立てた。
(トニーが帰ってきたわ!)
目を輝かせ、ドレスをさばきながら早足で玄関へ向かう。
けだるげなアンソニーと目が合い、ベアトリスは尻尾をピーンと立てた。
うっかり、にゃあと言いそうになって、口を閉じる。
深呼吸して、アンソニーに話しかけた。
「トニー。おかえりなさい……」
アンソニーはベアトリスの姿を見て、甘い笑みを返す。
「ヴィー。ただいま」
フルにゃんこのベアトリスを見ても、微笑んでいるアンソニーは明らかにおかしい。
普段ならば、卒倒する状況なのに、アンソニーは立っていた。
悶絶しているようにも見えない。
おかしい。
おかしすぎる状況だ。
それもそのはず。
彼はここ一ヶ月、まともに寝ていなかった。
寝不足で、現状が理解できていない。
ヴィーが恋しすぎて、幻が現実にでてきてしまったな――と、本気で思っていたのだ。
そんなアンソニーの心のうちをベアトリスは知るわけもなく、普段よりもけだるげな彼に心臓がドキドキする。
忘れがちだが、アンソニーは色気が服を来て歩いているような顔立ちをしている。
ここぞとばかりに、彼の色香は解放され、ベアトリスはくらりと眩暈を感じた。
このままでは、彼の色気にあてられて、すぐ猫語をしゃべってしまう。
せっかくアンソニーとお話できるチャンスなのに、ニャンニャンするだけでは、もったいない。
ベアトリスは彼から視線を外して、話題を変えた。
「トニー……お腹がすいたでしょう。夕食にしましょう」
さっと彼から離れたが、手をとられて捕まってしまった。
見上げると、真剣な眼差しに射ぬかれる。
「食事よりも、きみを吸いたい」
食べたい、ではなく吸いたいである。
念のために言っておくが、アンソニーは言い間違えていない。
彼は本気で吸いたいのだ。
猫吸い。
猫に選ばれた者にしか許されない極上のひとときである。
猫を吸うと疲れが吹き飛ぶ。
これは、ニャンデレ業界では、一般常識である。
何度か吸われた経験のあるベアトリスは、思わず赤面した。
「すうって……食事前に……?」
「ダメかな……?」
「……恥ずかしいの……今はよして」
眉根をさげて懇願したが、アンソニーの理性はとうにない。
睡眠不足とは思えない筋力で、彼は素早くベアトリスを横抱きにすると、耳元でささやいた。
「少々、疲れた……ヴィーの匂いに包まれたい。愛でさせてくれ」
弱った声で言われてしまえば、ベアトリスは頷くしかできない。
たとえ、他の人が聞いたら戸惑いしかない台詞を言われても、ベアトリスにとって、彼は素敵な旦那さまなのだ。
それに寂しかったのは、ベアトリスも一緒。
彼女はアンソニーの首に腕を回した。
「背中なら……いいわ……」
「ありがとう」
「その……久しぶりだから……やさしく吸って……」
「あぁ、わかっているよ。可愛い奥様に、手荒なことはしない」
こめかみに優しいキスを落とされ、ベアトリスはそのままの体勢で寝室へと運ばれてしまった。
「旦那さまがニャンデレ中だあああ! 全員、静まれえええ!」と、慌てふためく使用人の喧騒を遠くに聞きながら、夫婦の夜は深まっていった。