それぞれの幸せ
ベアトリスが気がついた時には自室のベッドの上だった。ほどよく効いたスプリングを感じて、体を起こす。
「ヴィー。気がついたか?」
薄明かりの中で椅子に腰かけていたアンソニーが声をかけてきて、呆然とした。
「あの……夜会は……」
「あぁ、仕事が終わったから戻ってきた」
アンソニーは椅子から腰を持ち上げこちらに近づいてくると、ベッドの端に座った。そして、ベアトリスにはふせられていたそっち系の本騒動について説明した。
第三王子との妙な噂は、本が原因と知って驚いた。
(……わたくしったら。殿下とアンソニー様のことを変な目で見てしまって……)
恥じ入っていると、アンソニーが申し訳なさそうにいった。
「ヴィーのことを囮に使った。イアラバは本のネタ作りのために君に接触すると考えて、わざと君を一人にした」
アンソニーは顔を引き締め、頭を下げた。
「すまない。何も知らない君に不快な思いをさせた」
誠実な声にベアトリスは首をふった。
「いいえ……アンソニー様のお役に立てたのならそれで……」
微笑むと彼はほっとした顔になる。
「ヴィー……ありがとう。君は本当に素晴らしい女性だ」
感極まって近づいてくるアンソニーに鼻がむずむずしてきた。その時、鼻を隠す布がないことに気づく。帽子も被っていない。
ベアトリスは目を伏せ、彼から逃げようとする。
「あまり見つめないでください……」
「なぜだ? 俺の思いは伝えたし、君の気持ちも伝わっている」
アンソニーがベッドに手をついて、距離をつめてくる。視界の端で彼を見ると、熱を孕んだ瞳で射ぬかれた。
(あぁ……もうダメっ)
鼻がむずむずして、ぽんっと変幻してしまう。ピタっと頬にそったヒゲを隠そうと両手で顔をおおった。
「ヴィー……」
驚いた声が耳に届き、ベアトリスは絶望的な気分になる。
「見ないでっ!」
こんな醜い姿を見られたくない。ベアトリスはベッドの上で身を丸くした。視界が霞んで、涙がぽろぽろこぼれた。頬に雫が伝うと、変幻もとかれていった。
「わたくしは普通の女ではありませんっ……アンソニー様を思えば思うほど猫の姿になってしまうのです!」
涙を塞き止めようと必死になっているベアトリスにアンソニーが近づいてくる。
背中をさすられ、優しく慰められる。
そんなことをしないでほしい。心を預けたくなる。
「ヴィー……」
アンソニーの声が近づき、頭に唇が落とされた。丸まった背中を彼の体が包み、声を絞り出した。
「やめてください……もう……」
「無理な話だな」
間髪いれずに低く這うような声がして、ベアトリスの涙がとまる。
彼の出す空気が変わったような気がする。背骨がぞわぞわして、体が勝手に小刻みに震え出す。
(この感覚って……)
檻に入ってしまったかのような息苦しさ。呼吸がうまくできずに、ベアトリスははっと短い息をだした。
無言でいると、彼はベアトリスの長い黒髪を手で弄びだす。髪の毛を摘まんで、弾いて、すいて。ゆっくり引っ張って。さらさらと砂粒を落とすように髪から手を離す。それを何度も繰り返された。
なんてことはないしぐさをされているのに、ベアトリスの心臓は奇妙なほど高鳴る。
顔を上げたら彼に囚われてしまいそうだ。
それなのにベアトリスは身を起こしてしまった。
「ヴィー……」
飴色のような声で名前を呼ばれて、鼻がむずむずする。ぽんっと、変幻してしまい、アンソニーは口を薄く開いた。
「アンソニー……さま……」
潤む瞳で見上げると、アンソニーの口の端が持ち上がっていった。彼の瞳は天国でも見ているかのように眩しげで、意外な反応にベアトリスはまばたきを繰り返す。
「ヴィー……こんな可愛いものを隠していたなんて、君はなんて罪深いんだ」
うっとりと見つめられ、ベアトリスはびっくりして、ぽんっと耳をだした。
アンソニーの息が荒々しくなっていく。彼はもどかしそうに黒い手袋を歯で噛んで、ベッドの下に捨てた。
「頭を触ってもいいか?」
ベアトリスは目を伏せた。
「耳はおやめください。敏感で……」
「わかっている。耳には触れない……」
頭のてっぺんや、耳の付け根を素肌で優しくなでられる。気持ちよくて声が出そうになっていると、ぽんっと、尻尾まででてきた。
「あ……ダメ……尻尾が……」
「見たい。ヴィー、脱がせるぞ」
背後に回られドレスの紐がほどかれた。衣擦れの音が恥ずかしくて、耳が横にピンと張る。窮屈そうにスカートの布を押し上げていたしっぽが、解放されて空気に触れた。
「先だけ曲がっている……俺と遊びたいんだな……」
アンソニーは歯を見せて笑いだし、ベアトリスの足を付け根から爪先にむけてなでだした。
「……っ。ダメそれっ」
「そうか? 気持ち良さそうだが」
「肉球まで出てしまいますっ」
泣きそうになりながら訴えると、アンソニーの手がとまる。喉仏が上下に動き、彼は目を見開いた。
「肉球だと……?」
その一言にアンソニーの理性は完全に切れた。
ベアトリスが鋭い爪を立てて彼の肌を傷つけても、愛しげに見つめるばかりで離してもらえず、体の隅々まで猫にされた。
声まで猫になった頃。ベアトリスは彼の過剰な愛に包まれながら、夢の中に落ちていった。
***
翌日。
出勤時間をかなり過ぎて城にいくと、ブチキレた第三王子によってアンソニーは一週間、家に帰れなくなった。
その腹いせにベアトリスとの夜の素晴らしさをこんこんと第三王子に解くと、今度は彼が王太子妃のいる離宮にこもってしまった。政務が滞って、城は混乱した。
その結果、王家待望の子供が産まれて、国中が祝賀ムードになるのだが、それを知るのはもう少し先の話である。
アンソニーはベアトリスに帽子も鼻を隠す布もしなくていいと言った。ドレスのスカートも尻尾が出やすいように切り込みを入れたものを執念で作らせた。切り込みはただのスカートの皺にしか見えない渾身の作だ。
ベアトリスは使用人たちの目を気にしたが、それも杞憂で終わる。
使用人たちはこぞってベアトリスの変幻を楽しみにした。
「今日は耳まで見れた……!」
「甘いわね。わたしは尻尾まで見たことあるわよ」
「……なんだと……」
と、ベアトリスが変幻するのは、彼女から好かれている証に見られたのだ。
怖がられないことを不思議に思ったベアトリスにアンソニーは笑っていう。
「俺の屋敷に住む連中だ。全員が猫好きに決まっている」
自信満々に言われてベアトリスは笑ってしまった。
社交嫌いのアンソニーのお陰で、外で人と会うこともなく、ベアトリスはのんびりと屋敷で過ごすことが多くなった。
休日にはアンソニーと部屋でのんびりしている。たまに中庭に出たり、出掛けることもあるが、ベアトリスがアンソニーへの思いをふくらませて猫になってしまい、それを見た彼が彼女に興奮してお出掛けどころではなくなる。
だから、屋敷でのんびりすることが多い。今日もふたりでスティラを挟んで部屋にいた。アンソニーは目を細めて、猫じゃらしをふっている。
たしたしっと猫じゃらしに夢中なスティラを見つめながら、ベアトリスは胸に残っていた最後のわだかまりを口にした。
「アンソニー様……子供のことなんですけど……作るのは待ってもらえませんか?」
アンソニーは猫じゃらしをふりながら、真剣な顔つきになる。ベアトリスは曖昧に微笑んだ。
「もし子供が産まれたら、その子は猫に変幻してしまうでしょう。小さい頃はよくても、大人になって恋をしたら苦しみます。……アンソニー様やお母様、この屋敷の方はわたくしたちの姿を受け入れてくれましたが、すべての人がそうであるとは限りませんもの……」
自分が感じた嘆きを子供にあじわわせたくはない。だけど、アンソニーとの子供もほしい。母としての幸福を自分も感じたい。なにより、彼に子供の姿を見せてあげたい。
「子供がほしくないわけじゃありません……ただ、産んでもよいものかわからなくて……」
アンソニーは猫じゃらしを持っていない方の手で、ベアトリスの背中をなでた。ゆっくりとした手つきでなでられ、心のしこりがなくなっていく。
「慌てることはない。ゆっくり考えていこう。何度も何度も話して、ふたりで決めればいい」
背中を押してくれる言葉に安堵していると、アンソニーは平然といった。
「まぁ、俺は元々、結婚願望はなかったし、子供を持つなんて想像できないな」
ベアトリスは白いヒゲをピンと伸ばして目を細くする。
「そうおっしゃいますが、もし子供が産まれたら、その子はあやすと黒い仔猫の姿になります。わたくしがそうだったらしいので間違いないです」
アンソニーは真顔になり、持っていた猫じゃらしを落とした。スティラは突然の終りに憤慨して、アンソニーの手に爪を立てる。
「……それはたまらない話だな……」
スティラにひっかかれながらも、アンソニーは呟いた。ベアトリスは小さくため息をはく。
「できればアンソニー様を喜ばして差し上げたいです。でも……」
ベアトリスの変幻がみるみる解かれていく。
アンソニーは顎に手をあて、考えこんだ。しばらくすると彼は真顔になる。
「娘なら嫁にいかなければいい話だし、男なら俺みたいに騎士で食えばいい」
呆れた言い分にベアトリスの目がつりあがる。
「……アンソニー様。真剣に考えてくださいませ」
「俺はいつだって真剣だ」
「もぉ……父親になるのでしたら、子供の将来を考えないと……」
「そうだな。だから、俺は父親には向いていない」
くくっと笑ったアンソニーに、ベアトリスは目を見張る。
アンソニーはこれ以上愛しいものはないと言いたげに微笑んだ。
「ヴィーに出会えただけでも俺にとっては奇跡なんだ。これ以上の幸せを願ったらバチが当たりそうだ」
アンソニーはスティラを肩にのせながらベアトリスを引き寄せ、膝の上に彼女の頭をのせた。膝枕をされて、ベアトリスは彼を見上げる。
「あとは世間の意識を変えてみせるっていうのもどうだ?」
「意識ですか?」
「あぁ、イアラバの件で思ったんだ。創作というものは、人の感情の奥をゆりうごかすものだってな」
アンソニーはベアトリスの頭のてっぺんと耳の付け根をなでながら、話を続けた。
「悪意と結び付けば創作は嫌なものに変わる。だが、祈りや願いと結び付いたらどうなるかな?」
ベアトリスは彼が何を言いたいのか気づいて、はっとした顔になる。
「……例えば猫に変わってしまう女の子と、それに恋をしてしまう騎士の話があってもいいだろう。この国では創作は自由なんだしな」
くくっと楽しげにアンソニーが笑ったので、ベアトリスも微笑んだ。
「創作で少しずつ人の意識を変えてみる。時間はかかるが、いつか猫に変わっても普通に恋ができる時代になるかもしれないぞ?」
「ふふっ。素敵ですわ。でも、その頃はわたくしはおばあちゃんになってしまいますわよ?」
ベアトリスがからかうように言うと、アンソニーは不敵な笑みを浮かべた。
「俺が衰えると思っているのか?」
ベアトリスの顔が朱色に染まっていく。
アンソニーはくつくつ喉を震わせた。
「生涯、体は鍛えるつもりだし、なんなら殿下が密かに使っている精力──」
「にゃあっ!」
スティラが渾身の猫パンチをアンソニーにおみまいする。アンソニーは真顔でスティラをたしなめた。
「スティラ。今、大事な話をしている。後で構ってやるから待っていろ」
「にゃっ!」
この色ボケと言いたげに、スティラは爪を立ててアンソニーの頬をひっかいた。
その光景を見ながら、ベアトリスは声をだして笑ってしまった。
(きっとこの人となら、何があっても大丈夫なような気がしてきたわ……)
争いを続けるふたりを見ながら、ベアトリスは喉を鳴らす。
「トニー」
愛称で呼ぶとアンソニーは驚いた顔をした。
「愛しておりますわ」
ハッキリと声に出したとき、アンソニーは幸せそうな顔をした。
アンソニーはスティラを腕の中に閉じ込めて、ベアトリスに顔を近づける。
「俺もだ。愛しい、奥様」
唇を交わすと、ベアトリスの体が嬉しそうに猫になっていった。
「にゃっ……」
不意にスティラが間に割って入ってきて、ふたりは顔を見合わせて笑った。
スティラはツンとすました顔をして、ごろごろと喉を鳴らした。
その後。
トニーヴィーという作者が、猫になってしまう女の子と、騎士を目指す男の子の小さな恋の話を書いて出版した。
第三王子が子供の読み聞かせに使っていると知られ、広くその本は知られるようになった。
小さな一歩は、その後、この国を猫好きに導いていく。
国の隅っこでその様子を知った魔女の末裔は目を細めた。彼女の膝には大きな黒いオス猫がごろごろしている。
「ご先祖様の呪いも優しいものに変わっていくかしら?」
「ふぁぁ……何かいったかい?」
「いいえ。ベアトリスは元気にしているのかと思って」
「あぁ、大丈夫だろう。アンソニー様と王太子殿下がいれば。あの二人、目がマジだにゃん」
「ふふっ。そうね。色々あったし考えたけどベアトリスを産んでよかったわ」
「そうだにゃんね」
「アンソニー様を見たときね。わたしと同じものを感じたの。だから、ベアトリスは幸せに暮らしていると思うわ」
「そうなのかにゃん?」
「えぇ」
魔女の末裔はとっても嬉しそうに微笑んだ。
「あー、この人も猫が大好きなんだろうなって思ったのよ」
その言葉に黒いオス猫はごろごろと喉を鳴らして丸くなった。
魔女の末裔は愛しい猫に目を細めて、背中をゆっくりとなでた。
魔女の末裔は思う。大切な猫たちの悲しい姿を見て、彼女は怒り、人を苦しませる呪いをかけた。だけど、彼女たちが見たかったのは、ただ平穏に猫と暮らすこんな光景ではなかったのだろうか。
それが時を経て、さまざまな人の力を借りて、ようやく叶えられようとしている。
魔女の末裔は願った。
できればずっとこのままで。
悲しい歴史を繰り返さないで、平穏に過ごせればよい。
愛しい猫たちとの暮らしが魔女たちは何よりも好きなのだから。
祈りを胸に秘めて、魔女の末裔は眠ってしまった黒い猫に微笑みかけた。
end
ニャンデレを楽しんでもらえたら幸いです!