彼女の憂鬱
「……やっぱりダメよ。いけませんわ……」
「ヴィー……どうしてだい? なぜ、そんなことをいうのかね?」
ベアトリスは憂いの表情をやめ、尻尾を自分の肩にのせる父親を睨み付ける。
「ご自身の容姿をご覧になってからおっしゃってくださいまし」
目を据わらせたが、父親は細い眼を丸くして首をかしげた。ぴくぴくっと鼻が動き、細く白いひげがピンと張っている。耳は垂れているが、垂れ耳の種類なのでこれは悲しがっているわけではない。
肉球をつけた手をもじもじさせた父親を見て、ベアトリスはため息をついた。
「わたくしたちが普通の人間と結婚するなど、無理です。容姿をどうやって隠すのですか」
「……シエナはこの姿が愛くるしいと言ってくれるぞ」
「お母様は…………そうかもしれませんが、普通の殿方は受け入れられないでしょう? 猫に変幻してしまう女なんて……」
ベアトリスは眉根を下げた。
彼女の血筋は初代の王から続くものだが、三代目の王がとち狂って魔女狩りし、難癖をつけて魔女の側にいた猫まで消して、生き残った魔女の怒りをかった。
魔女は人々を先導してクーデターを起こし、王をその地位から引きずり下ろした。魔女の生き残りの一人がその身と引きかえにベアトリスの先祖に呪いをかける。同じ血が流れる者は猫に変幻してしまうものだ。
この呪いは相手を好きだと思うほど、容姿が猫に近づくものだ。魔女の使いと罵った姿になることは、彼らに屈辱を与えるものだろうと魔女は考えたのだ。
その結果、呪いに恐れおののき、婚姻は遠ざかった。近親婚を繰り返したが、その代わり子ができにくいようになり、血筋は途絶える一歩前だ。
辺境の地に迷い込んだ母が、奇跡的に父親を受け入れて、長い年月をかけて考えた末にベアトリスが産まれた。
もう血を残すのは父親とベアトリスだけになっている。
ベアトリスは自分の境遇を受け入れ、結婚はしないつもりだった。自分が子供を産まなければ魔女の怒りもなくなるだろう。
ひっそりと辺境の地で生涯を終わらせるつもりだった。
それなのに、突然の婚姻。王の命とあっては彼女も断れない。王家からは生活の援助を受けている。それが絶たれれば両親がどうなってしまうのか。
胸を痛ませていると、猫化した父親がしょんぼりしている姿が見えて嘆息した。
いくらため息をついても、事態は変わらない。ベアトリスは夫となるアンソニーのことをもう一度振り返った。
(お相手は氷の騎士と噂されるアンソニー・ルーカン様……麗しい美貌の持ち主で、冷たい態度で幾人のご婦人を泣かせたというわ……)
「ヴィー?」──ごろごろ。
(あまりに女性を受け付けないから、王太子殿下の寵を受けているのではないかという噂もあるわね……)
「ヴィーたんっ」──ごろごろごろごろ。
(……その噂がもし本当ならわたくしにとっては僥倖かもしれないわ……ルーカン様がわたくしに心を寄せることもないでしょう。婚姻を結んでも里に帰れと言われるかもしれないわ……)
「ヴィーにゃんっ」──ごろにゃーぁん。
(もともと結婚なんて望んでなかったんじゃない……向こうに気がないのならそれで……)
ベアトリスは昔、夢見た結婚生活を胸の中でかきけした。顔を上げてすりよる猫父に毅然と言う。
「わたくし、やっぱり結婚いたします」
覚悟を決めて言うと、猫化した父親の瞳がうるみだす。長毛種なので、服から黒いモフモフがはみ出ていた。
「ヴィー……幸せになっておくれ」
その言葉にベアトリスは曖昧に笑う。
(ここに戻ってくるのは無理かも……お父様たちに心配をかけてしまうわ……)
別邸でもないものか。アンソニーはかなりのお金持ちらしいし、もしかしたら別荘のひとつでも持っているかもしれない。
ベアトリスはかすかな希望にすがった。
***
ほぼ身一つで嫁いできたベアトリスは、アンソニーを見て腰を抜かしそうになった。
(待って……ねぇ、待って…… いい男すぎじゃない!)
噂は伊達ではなかった。これは貴婦人がキャアキャア言うのも分かる気がする。
ベアトリスは早くなった心臓をおさえこみ、ここにくる前に何度も練習した冷たい顔を作る。
それなのにアンソニーは極上の笑みを浮かべて近づいてきた。あまり近づいてほしくない。彼の色香にあてられそうだ。
「初めまして。ベアトリス・グラウス公爵令嬢。俺はアンソニー・ルーカンです」
柔らかい声にぽーっとしてしまい、手をとられた瞬間、我にかえった。
慌てて手を払いのけ、気を使わなくて結構と、言い切った。アンソニーの翡翠色の瞳が驚きで丸くなる。ちくりと罪悪感が胸によぎって、視線を下に流した。
そっちがその気ならこちらも……という返事を待っていたのに、アンソニーの瞳は意外なほど爛々と輝き出した。
(え? ……なに……?)
腰にぞわりと悪寒を感じて、ベアトリスは腰をひく。隙をついて手の甲にキスをされた時は、思わず鼻がむずむずして変幻しそうになった。
慌てて振りほどいても、アンソニーは気にしない。むしろ、前より嬉しそうだ。
(なんなのこの人は……)
すべての計算が狂ってしまい、ベアトリスは絶句していた。
「これからどうぞ宜しく、俺の奥様」
妻として扱われ、いよいよ鼻がむずむずしだす。
ベアトリスはとっさに彼から視線をそらし、ドレスのポケットから扇子を取り出した。
(早く! 早くしないと!)
慌てて扇子を開いた瞬間、鼻がぽんっと猫になる。ギリギリ間に合った。
黒い鼻はひくひく動き、白く長いヒゲは張りつめていて油断すると扇子からはみ出そうだ。
楽しげに顔を近づけてくるアンソニーから逃げるように彼を睨み付ける。
「わたくし、疲れておりますの。失礼させていただきますわ」
「そうですか。なら、部屋までお送りしましょう」
「結構です。使用人に聞きますから」
吐息がかかりそうなほど彼の顔が近づいてきて、お尻までむずむずしてくる。
(まずいわ……尻尾まででてきそう……)
ベアトリスは彼の肩を軽く押して、精一杯冷ややかな視線を送る。
「気まぐれな優しさなどいりませんわ。わたくしのことは放っておいてください」
ツンと澄ました態度をとったというのに、アンソニーの目が異様に煌めきだす。どこか恍惚とした瞳を見て、お尻のむずむずが酷くなる。
「つれないな……そこがまたいい」
ぽそりと呟かれた言葉の意味を考えている間に、腰に手を回された。
びくっと体を跳ねさせた瞬間、ぽんっと、ベアトリスのお尻から猫の尻尾がでてくる。
ツンとスカートを持ち上げた。ベアトリスは冷や汗がとまらなくなり硬直する。
「……これは?」
アンソニーが持ち上がったスカートに気づく。ベアトリスは気合いで尻尾をぴんと張った。
「……そ、その昔に流行りましたドレスのデザインなのです! 裾をお尻で持ち上げたら、スカートが短くなって歩きやすいんですのよ。そんなことも知らないのですか?」
吐き捨てるように言うと、アンソニーはくくくっと喉を震わせて笑う。
「不勉強で申し訳ありません。このデザインいいですね。実に官能的だ」
するっと背骨を撫でられ、尻尾が動きそうになる。ベアトリスの顔は真っ赤で今度は頭までむずむずしだす。
(ダメよ! 耳だけはダメぇ!)
ベアトリスの我慢は限界を越えた。スカートの端を片手で持ち上げ、彼の腕の中からするりと抜け出す。
見事なターンをしながら、アンソニーを睨んだ。
「いくら夫婦になるとはいえ、不躾な態度は好みではありません。ごきげんよう」
そして、彼が追いかけてくる前に部屋を出た。歩いていた使用人に声をかけて、自分の部屋を尋ねるとハイヒールを鳴らしながらダッシュする。
(早く……早く……! あぁ、もぉ! ヒールが高いわ! 折ってしまいたいっ)
誰もいないことを祈りながら、部屋について閉じ籠る。
ぽんっと耳が出てしまい咄嗟に周囲を見渡した。誰もいなくて脱力した。
その場にへたりこんだベアトリスは、両手を床につけた。顔は赤く額からは汗がにじんでいる。耳はぴんと立ち、白いヒゲは頬に張り付いている。スカートの中では尻尾が垂れていた。
息を整えたベアトリスは泣きそうだった。
(噂と全然違うわ……どういうことなの……)
氷どころかあれでは砂糖水である。しかも水は一滴、後は砂糖という配合だ。
結婚を諦め、異性に耐性のないベアトリスにとっては、アンソニーのしぐさ一つ一つに心が乱されてしまう。
(もう……なんでこうなったの……)
ベアトリスは泣きたかった。
「はぁ……」
嘆息して、そのまま部屋に閉じ籠っていたが、アンソニーは外出したと使用人から聞かされ、ほっと胸を撫で下ろす。
一人っきりで部屋で食事をしたいと言えば、その通りになり、一人で湯浴みをしたいと言えば、その通りになる。
あまりにもベアトリスの意見が通るので、不思議に思った。
(もしかしたら、嫌ってくれたのかしら……?)
それは勘違いだったと、翌日に知った。
食事はこちらでと言われて、伺いもせずに部屋から出た。猫に変幻してもいいように帽子を被っている。これで一安心。
だったはずだが。
机の上に真っ白なテーブルクロスがしかれた部屋に来たとき、座っていた人物に仰天した。
「おはよう、ヴィー。今日も君は愛らしいね」
アンソニーに眩しい笑顔を向けられ、ベアトリスは口を引き結んで席についた。食事が運ばれてくる。
「……ご機嫌とりなど必要ありませんわ」
「そうか。すまない。君を見ていると愛しい気持ちがおさえきれないんだ。だから、口が勝手に思いを伝えてしまうんだよ」
掴んだフォークを落としそうになってベアトリスは慌てて姿勢を正す。
「……か、甘言など耳にいれたくありませんわ」
「そうか。なら、冷たくしようか?」
「……! えぇ、ぜひ、そうしてくださいまし」
嬉しくて彼の方を向くと、凍てつく瞳とぶつかり、ぞくりとした。心臓まで貫かれるような視線だ。
(なにこれ……さっきまでと全然違う……)
しばらく視線を交わしていたが、耐えきれなくなり彼から顔をそむけた。震えた手でパンをちぎる。
目を逸らしたというのに、ずっと監視されているような恐怖がこみあげた。
「あっ……」
ちぎったパンが手から滑り白い皿から落ちてしまう。無作法に眉根をひそませていると、武骨な手がパンを拾った。
アンソニーがパンを拾い、使用人に新しいパンを用意するように伝えた。
再び目が合ったとき、彼は柔らかく目尻をさげた。穏やかな雰囲気にほっとしてしまう。
「ヴィー。冷たくするのは俺も耐えられない。やめよう?」
諭すように言われてしまい頷いた。アンソニーはくしゃっと顔をほころばせる。
とくん、と心臓が弾み、また鼻がむずむずしだす。
はっとしてベアトリスは急いで食事をする。ナプキンで口を拭うと、席をたった。
「せっかくですが、パンはまた後でにしてください」
つかつかと歩きだすと、腕をとられ引き寄せられる。目の前に端正な顔があって、ベアトリスは硬直した。
「ヴィー。俺は君のことが知りたいんだ。君ともっと会話がしたい。どうすれば君は振り向いてくれるんだ?」
憂いを帯びた顔はベアトリスの心をぐらつかせた。鼻がむずむずする。
「お離しくださいっ」
ベアトリスは腕を振り払おうとするが、すごい力で拘束されて振りほどけない。決して離すものかと腕を拘束するくせに視線は哀愁を帯びている。
ベアトリスは泣きたくなった。鼻がむずむずする。
「お離しください……」
「嫌だ」
「離して……」
目を伏せてか細い声で言うと、そっと手が離される。解放されたことに驚き、彼を見てひゅっと息を飲んだ。
アンソニーはくつくつ喉を震わせて笑っていた。とても愉快そうに。
「俺をてこずらせて、困った子だ……」
近づく彼に目を見張る。
アンソニーの口元には微笑が浮かび、表情は穏やかだ。それなのに、なぜ頭で警笛が鳴るのだろう。
足が地面に縫い付けられたように動かない。真っ直ぐ射ぬいてくる青い双眸から目をそらせない。
こつり。
足音が止まり、アンソニーはにやりと笑った。ぞっとする。心臓が搾られるような感じがして呼吸がうまくできない。
「……ヴィー」
含みのある声で呼ばれ、体が震えた。彼の指先がベアトリスの頬のラインをなぞっていく。指が顔の形を覚えるように、ゆっくりと。
「ヴィー」
声が心を捕らえようとする。優しく甘く。身を任せたくなる音階。
ベアトリスは瞳を潤ませて、はっと短い息を吐いた。
「ヴィーは何色が好きなんだ?」
「え……?」
不意の質問の意図が分からなくて見上げると、アンソニーの指先はベアトリスの黒い髪の毛を弄んでいた。いつまでも待つような態度をされて、早々に観念する。
「ピンク色が好きですが……」
「ピンク色か。君らしい可愛い色だな」
ベアトリスは目を伏せた。
「二十四にもなって若い子の色を好むなんてはしたないですわ」
年相応のシックな色合いを好むべきだろう。でも、昔絵本で見た花嫁がピンク色を着ていて憧れたのだ。
「そんなことはない。きっと可愛らしい装いになる。今度、生地を選んでドレスを仕立てよう」
「え……?」
「ヴィーが好きな生地を選べばいい。どれを着ても君なら似合うだろうな」
アンソニーは愛しそうに微笑み、ベアトリスの髪の毛に口づけを落とす。
鼻がむずむずする。お尻も頭も。
ベアトリスはさっと扇子を取り出し、顔をそらした。
「……なぜ、そのようなことばかり……わたくしはアンソニー様がわかりかねますわ」
会ったばかりだというのに、なぜ彼はこんなことを。
ベアトリスが疑問を口にすると、彼はくくっと笑った。
「俺はヴィーを甘やかして、甘やかして、可愛くなる姿を見たいだけなんだ。その姿を想像するだけで、気持ちが高ぶってどうしようもない」
そう言って、彼は口の中でほどけて甘い余韻を舌に残すお菓子のような笑顔を見せた。
鼻と頭とお尻がむずむずして、ぽんっとベアトリスは変幻した。
帽子の中で耳が窮屈そうに動きたがっている。白いヒゲも扇子から、ちょっとはみ出ているかもしれない。尻尾はスカートを押し上げピンと張っていた。
(そんなことを言われたら……)
ベアトリスは顔を赤らめ、口をすぼめる。
答えに詰まっていると、アンソニーは嬉しそうに笑って小さく息を吐く。
「そろそろ仕事の時間だから行ってくる。早く帰ってくるから、待っててくれ」
無言でいると、アンソニーは柔らかく笑みを漏らして部屋から出ていってしまった。
部屋の扉が閉まるとベアトリスは腰から砕けて、座り込んでしまう。
どくどくと心臓は高鳴り、目をきつく結ぶ。
(そんなこと、おっしゃらないでください……お慕いしてしまいそうです……)
会ったばかりの人なのに。
そう思うのに、ベアトリスは初めて宿った恋心を隠せそうになかった。