騎士の憂鬱
けだるそうにこちらを見る眼差しをアンソニーは甘い微笑みで受け流した。
彼女は彼を一瞥して、しなやかな体を動かす。動くたびに彼女の白い肌が艶めき、いたずらに腰はゆれていた。
アンソニーから理性が消えていく。
今すぐ彼女の腹に顔を埋めて、ぬくもりを唇で感じたい。彼女の匂いをめいっぱい鼻で吸い込み、肺を満たすあの至福の時間に酔いしれたい。
アンソニーは我慢できずに彼女に手を伸ばす。
それを彼女はパシンと払って、ツンと澄ました態度をした。彼はくつくつ喉を震わせて口の端をあげる。
「つれない態度をとるなよ」
アンソニーは両手で彼女を抱き上げようとしたが、爪を立てられた。ピリッとした痛みに眉根をひそませるが、ひるまない。
むしろ自分にだけ澄ました態度をとる彼女を見て、口が勝手に笑った。可愛い奴となでまわし、腕の中に抱き込みたくてたまらない。
高鳴る鼓動を感じながら、アンソニーはポケットに忍ばせたものを取り出す。
彼女がピクンと反応した。細い目がアンソニーの手の中にあるものを追っている。それもそのはず。これは彼女を夢中にさせるために、先端の毛を何種類も変えて、改良に改良をくわえたもの。これさえあれば彼女はいちころだ。
「おいで、スティラ」
アンソニーが低い声で囁くと、スティラは前足を蹴った。
「ニャア!」
「くくっ……そんなにがっつくな。お前が満足するまで遊んでやる」
猫じゃらしに夢中すぎて自分にのしかかってくるスティラに目を細め、アンソニーは至福の時間を過ごしていた。
アンソニーは無類の猫好きだ。
これには、一応、訳がある。
ルーカン伯爵家の三男に産まれた彼は、兄のスペアのスペアとして生を受けて、兄が健康で問題なく爵位を引き継げそうなので早々に騎士を目指した。
王家に仕える騎士として早くから頭角をあらわした彼は第三王子付きの護衛官まであっさり昇格する。当時、第三王子の護衛は誰もやりたがらなかったのだ。
王位継承権から最も遠く、性格も愚鈍とみなされていた第三王子よりも、第一、第二王子付きになる方が出世できそうだったのだ。
かれこれ八年前の話になるが、第一、第二王子の間では継承権を巡ってデスゲームが繰り広げられていた。
毒の盛り合い、後ろ楯の貴族の裏切りは当たり前で、醜悪な光景が日常茶飯事だった。
覇権争いから遠ざかっていたはずの第三王子も気が触れた周囲に殺されかけた。それは一度や二度ではない。
そんな第三王子の盾となり、矛となり、時には容赦なく相手を潰したり尋問したりして守り抜いたのがアンソニーだった。
結局、両王子は第三王子が後ろ楯を含めた醜聞を公表して、一掃した。
「馬鹿が共倒れしてくれてよかったよ」
全てが終わり、薄く笑んだ第三王子にアンソニーは肩を竦めた。
醜い側面をみすぎたアンソニーは根本的に人嫌いだ。人が信じられない。
貴婦人による付きまといも多く、彼は人間不信ぎみになっていた。
長身で体格のよい彼はいるだけで存在感がある。
すっと通った鼻梁は、彼の整った顔立ちを引き立てた。冷たくも見える切れ長の瞳は、抱いて!とご婦人方のハートを鷲掴みにし、心地よい低音の声は、抱いて!と震える若い男子もいるほどだ。
とにかくアンソニーは見た目から周りを惹き付けた。それをうっとおしがるようになって、口調は荒く、態度は不遜になったが、彼のファンを熱狂させるだけだった。
髪を伸ばせば女のように見えるだろうと長髪にしたら、ファンは興奮で倒れて事態は悪化した。
そんなときに彼は自分に一切靡かない猫を見て心を奪われた。簡単には心を許さない彼女が、自分を押し倒す瞬間に震えた。
猫とのハニートラップを仕掛け合う日々に彼は夢中になってしまい、婚期をすっかり逃した。
アンソニーは今の生活に充実感を覚えていたが、周りが彼を放っておかなかった。
三十歳近くになった彼は十代にはない色香を放つようになり、ふらちな妄想の対象者として見られそっち系の本が水面下で流行り出してしまった。
最悪なことに本は過激さをまして、第三王子との関係を疑われるようになってしまう。
結婚した第三王子になかなか子供ができなかったのも一つの要因だろう。
それにこの国では長い独裁政権の反動で表現の自由が早くから認められ、創作に関して寛容だったのだ。
薔薇が咲こうが、百合が咲こうが、腰から下の筋肉を見せようが黙認されている。
しかし、自分までもふらちな対象に見られて第三王子はキレた。
「アンソニー、命令だ。結婚しろ」
冷えた視線で投げかけられた言葉にアンソニーは厳しい顔をする。
「断ります。俺は今、スティラに夢中なのです。他の女に心を移す男などダメでしょう」
「猫の話だろ」
「スティラはいい女ですよ? あれほど俺を惑わす存在はないですね」
愛しい彼女(猫)を思い出して、恋する男の顔をするアンソニーに第三王子は怒りをあらわにする。
アンソニーの不遜な態度に怒っているわけではない。ふたりの関係は身分の差を越えた親友とも同志ともいえるものだったからだ。
アンソニーが腕組みをして抵抗の意思をみせると、第三王子がふ、と口の端を持ち上げた。
「僕を誰だと思っている。兄上たちを手を汚さずに破滅させた男だよ? なめないでほしいものだね」
不敵に笑う第三王子に、アンソニーは訝しげな顔をする。
「君が恋狂う相手を見つけた。一ヶ月後には僕に泣いて感謝するから結婚しろ」
ふふふと不気味な笑みを漏らす第三王子に、そういえば一番ヤバいのはこの人だった……と、過去を振り返るアンソニーだった。
こうして第三王子の命令で結婚することになったが、正直気はのらなかった。
どんな美女だって、スティラの悩ましい腰つきにはかなわない。
彼女の美しさを保つ為に、爪でひっかかれながら毎日のブラッシングをかかさない男に誰が嫁ぎたいと思うだろう。
相手に失礼だ。幸せな結婚生活が送れるとは思えない。
アンソニーは憂鬱だった。
それでも無情に時は過ぎ、妻となる人がやってくる朝になってしまった。
アンソニーは気がのらなくて朝から猫じゃらしをふり続けている。
「にゃうっ……にぁっ!」
(俺の相手は建国から続く公爵家だったな……)
「にゃんっ!」──たし。
(元々は王族だったが、クーデターの末に王位を剥奪され辺境の地へ追いやられたはずだ)
「ふぅぅぅ!」──ぱしん。ぱしん。
(呪われた一族といわれ、その詳細は不明か……近親婚を繰り返して容姿が異形になっているという噂もあるな……)
「にぁあっ!」──がりっ。
スティラの渾身の猫パンチをうけてもアンソニーは真顔のままだ。
スティラはツンとそっぽを向いた。彼はふ、と口の端をあげる。
「お前以外の女のことを考えているからって妬くなよ」
スティラの目が細くなり、さらにもう一発おみまいされても、可愛い奴とアンソニーは笑みを崩さなかった。
そんな睦み合いをしている間に妻となる人物がここにきた。
頬に爪痕が残っているが、構わずアンソニーは騎士服を整えて出迎えの準備をする。
この爪痕を見たら、猫好きなことがバレてドン引きされて早々に相手は帰るかもしれない。
命令だと言われているが、婚姻届けはまだ出していない。逃げられましたといえば、減俸されるぐらいですむだろうか。それならいい。
(彼女が傷を気にしたら、猫好きなことを包み隠さず話すか……)
来賓を出迎える部屋で待っていると、しゃらんと鈴の音がして彼女が入ってきた。
彼女の姿にアンソニーは目を見開いて言葉を失った。
まず目を奪われたのは腰まである艶やかな黒髪。アップにするのが貴婦人の間では常識とされているが、彼女の場合は結い上げる方が無粋だろう。波打つ黒髪はそれだけで装飾品のようだ。
まっすぐアンソニーを見る瞳は黄金に輝き、つり目のせいで気が強そうな印象だ。
何より流行りのドレスではなく、東洋の国の天女のような姿に見惚れた。
今までみたどの女性とも違う雰囲気に、アンソニーは沈黙してしまった。
彼女は黙ったままでいる自分を不審に思ったのか顔を上げて訝しげにみてくる。一切の媚がない視線に、アンソニーはぐっときた。
動揺をかくして彼女に近づく。
「初めまして。ベアトリス・グラウス公爵令嬢。俺はアンソニー・ルーカンです」
紳士の礼をして彼女の手をとろうとするが、パシンと振り払われた。目を丸くするアンソニーに彼女は氷のような目をする。
「……わたくしに気を使わないでください。この結婚は命令を受けてのこと。あなたはわたくしに情などないでしょう。わたくしもあなたに情を持つことはございませんので」
淡々とした声が響き、アンソニーはぞくぞくした。
(なんだ、この女……面白い)
高揚感はスティラを見たときのものと似ている。近づきたい欲求が高まり、彼は無作法に彼女の左手を取ると、手の甲に唇を落とす。
彼女は自分の方へと手を引き寄せアンソニーを睨み付けた。
胸の鼓動が早まり、アンソニーは目を細める。
「まぁ、そう言わないでください。俺もあなたも出会ったばかりだ。互いのことを隅々まで知ってから、結論をつければよいでしょう。ひとまずあなたのことをヴィーと呼んでもいいですか?」
「──は?」
「俺のこともトニーと愛称で呼んでください」
アンソニーは新しいオモチャを発見した子供のような顔をした。
「これからどうぞ宜しく、俺の奥様」
そう言うと、彼女は喉の奥に言葉を詰まらせ、ふいっとそっぽを向いた。