周囲の異変
「ナディア! ナディア!!」
ゆっくりと意識が覚醒してきて、あ、お養父様が私の名前を初めて呼んでくれているな、と少し感動しながらまぶたを持ち上げると、目の前には真っ青な顔をしたお養父様がいた。
あ、あれ? お養父様、どうしたの?
……私、何してたんだっけ?
「ナディア! 良かった、いきなり倒れるから……」
安心したように息を吐くお養父様は、片膝をついて倒れている私を抱き起こしてくれているようだ。
あれ? 私、倒れてたの?
状況が掴めなくてキョロキョロと周囲を見回すと、広くて綺麗な空間に、でっぷりした体型の立派な服を着た一人の男の人が腰を抜かしたようにしりもちをついている。
あ、そうだ。洗礼式の最中だったんだ。聖水を飲んだら意識が精霊王の元に行っちゃって、今こっちに戻ってきたんだね。
……そ、そういえばだいぶ話してた気がするけれど、こっちではどうなっていたんだろう?
「お、お養父様、ご心配をおかけしました。わたくし、どのくらい倒れていましたか?」
「……? 倒れてすぐ、抱き起こして声をかけたら起きたが」
なんと、結構話し込んでいたはずだけれど、こちらではあまり時間は経っていなかったらしい。私が聖水を飲んだあと倒れていたなら、同じ時間が流れていたら大変な騒ぎになっていたかもしれない。本当に良かった。
もしかして、精霊王の気遣いかな。ありがとうございます、精霊王。
一人考えに耽っていた私を見て、お養父様は何か感づいたように私に尋ねてきた。
「……ナディア、聖水を飲んだ時、何かがあったのか?」
お養父様の目が心配そうに揺れている。私は申し訳ないと思いながらも少し嬉しくなってしまった。
けれど、聖水を飲んで精霊王に会ってきましただなんて言わない方がいいかもしれない。精霊王は私がアイリスの生まれ変わりだから呼んだみたいだったし、他の人はこんな体験はしたことがないんだと思う。信じてもらえるかわからないし、また変に目立ちそうな話はしない方がいいよね。
「ええと、その、特に何かあったわけではございません。ご心配をおかけして、申し訳ございませんでした。わたくし、もう大丈夫です」
私はそう言ってすくっと起き上がった。
いきなり倒れたらそりゃあびっくりするよね。驚かせてごめんなさいお養父様。
私は自然な笑顔でそう言ったつもりだけれど、お養父様は疑わしそうな目で私を見た。
「…………」
お養父様は少し息を吐くと、いきなりバッと私を横抱きにして持ち上げた。
「お、お養父様!?」
「洗礼式は終わった。帰るぞ」
そう言ってスタスタと出口に向かって歩き始めた。
「お養父様、わたくし、歩けます!」
「…………」
おおう、無言になってしまった。
「お待ちください!!」
精霊殿長が叫んだ。まだ腰を抜かしているのか、四つん這いの状態から立ち上がれないようだ。
お養父様は足を止めて振り返ったけれど、何も言わない。精霊殿長はどこか興奮しているようで、目がギラギラしていてなんだか怖い。どうしたんだろう。
「お待ちください、その、そのお方は間違いなく、精霊王の加護を持つこの世にただ一人のお方! 精霊殿に在るべきお方なのです!」
……はい!?
「黙れ」
お養父様の低い声にびくっと体をすくませたのは私だけではなかった。言葉を向けられた精霊殿長は顔を青くして口をぱくぱくさせている。
「ナディアは私の娘だ。ここに放り込んで貴様らの人形にする気はない」
そう言い捨てて、お養父様は足早に歩き出した。精霊殿長の声が追いかけてきても、今度は足を止めなかった。
「開けろ」
お養父様が洗礼の間の扉の外へ向かって威圧感たっぷりの声を出すけれど、少し待っても扉は開かない。お養父様の目がだんだんと据わりだした。
お、お養父様? お顔が怖いですよ?
お養父様が再び声を出そうと口を開いたところで、ようやく外の二人が扉に魔力を込めたのか、扉の魔法陣が光りだした。
扉が外側へ開かれてお養父様が外へ出ると、二人の扉番の人たちが私たちに何かを言いたそうに「あの」とか「ええと」などと言いながら口を開いたり閉じたりしていた。
けれど、お養父様がギロリとひと睨みすると、真っ青になって口をつぐんだ。
あれ? この人たちは私が倒れたことなんてわからなかったはずだけれど、どうして様子がおかしいんだろう?
それにお養父様、この方たちはまだ何も言っていないんだから、そんなにピリピリしなくても……。
お父様は二人にもう用はないとばかりに、またスタスタと歩き出した。
お養父様、何か急いでる? 確かにこのスピードだと、私は抱えてもらわないとついていけないかもしれない。少なくとも、お嬢様らしく走らず優雅に、というのは不可能だ。お養父様は急いでいても身のこなしが優雅だけれど。
人の多い通りに出ると、一斉にバッとこちらへ視線が向けられた。精霊殿の人も参拝に来ている一般の人たちも、みんなこちらを見ている。
……え? なに?
来た時にチラチラ見られていたのとは明らかに違う、はっきりとした視線を向けられて私はさすがに違和感を覚えた。
お養父様に何が起こっているのか聞こうとしたけれど、お養父様はとても怖い顔をしたまま周囲に目もくれず足早に外へ向かって歩いていて、とても声をかけられる雰囲気ではない。
途中、「あの」とか「すみません」とか「お待ちください」とか色々な人に声をかけられたけれど、お養父様は全て知らんぷりだ。
私は大人しくしていた方がいいと察して、精霊殿を出て、馬車に乗せられてもじっと黙っていた。お養父様は御者と何事か少し言葉を交わした後、馬車の座席に座ってまた黙り込んだ。
馬車が動き出して公爵邸へ到着するまで、お養父様も私も何も言葉を口に出すことはなかった。
そして、ゆっくりと馬車が止まり、公爵邸へと帰ってきた。
お養父様はまたしてもさっと私を抱き上げてスタスタと屋敷の中へ急いだ。「歩きます」と言う隙もない。本当に、何がどうなっているんだろうか?
「旦那様、これは……一体何が?」
クロードがお父様に抱き上げられて運ばれている私を見て、目を見開いて驚いている。
お養父様は私を抱き上げたままなのでクロードは上着を預かることもできず、歩き続けるお養父様についてくることしかできない。
「リリアナは?」
「お部屋にお子様たちとおられます」
「ではそこへ行く」
お養父様はまだどこか焦っている様子なので、私は見かねて声をかけた。
「お養父様、下ろしてくださいませ。もう屋敷の中ですし、そこまで急がなくてもよろしいでしょう? クロードも上着を預かれません」
すると、お養父様はピタリと止まり、少し逡巡したあと、ゆっくりと私を下ろして、クロードに上着を預けた。
「来い、ナディア」
そう言ってお養母様の部屋へと急いだ。
「……まあ、ナディア……」
お養母様は、部屋へと入ってきたお養父様の様子を見て少し驚き、私に目を向けるとぴしりと固まった。
え、なに? 様子がおかしいのはお養父様で、私はなんともないですよ?
一緒に部屋で遊んでいたらしいアリアナとマリエラも、なぜかぽかんとした顔で私を見ている。
「ランディ、何があったの?」
ソファーを勧めながらお養母様がそう聞くけれど、お養父様は何も言わず、私に話せとばかりに視線をよこした。
「……仕方がないわね。お茶を準備させますから、ゆっくり話を聞きましょうか」




